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時神鈴の夜―過去編『アストロメリア』  作者: 九尾
タタリノハジマリ
36/65

龍神決着

「辰人ぉおおおおおおおおおオオオオオオッ!」

「鈴ぃいいいいいいいいいいイイイイイイッ!」

 これで何度目になるだろう。ほんの刹那の時の中、二者は幾度も幾度も衝突する。衝突の度に頬が裂け、頬がむくみ、傷が絶えず増えていく。

 それでも、二人は互いに殺し合うことを止めない。

「待ってろ、辰人……」

 安心しろ、お前は俺が止めてやる。助けてやるよ、何度でも。

 だってお前は、俺の一番尊敬できる人間で。

 俺の一番信頼できる、親友だから。

 そいつを助けたいと思うのに、理由なんかいらないハズだ。

 ――助ける。今、助ける。必ず助ける。その手は絶対離さない。もしも離れてしまったら、それでも必ず再び掴んで見せる。もし掴めないほど離れてしまったとしたならば、それでも意地で、その手を掴んで見せる。そう、例え時を止めてでも――。

 みんなの笑顔が好きだから。お前の笑顔が好きだから。

 助けたいと、強く思うんだ。

 新たな祈りが今、時神鈴を更なる加速世界へと誘った。

天地(あめつち)に来ゆらかすはさゆらかす。神わがも神こそは()ね聞こゆ来ゆらかす。皇神(すめがみ)のよさし給へる大尊(おおみこと)、踏み行くことぞ、神ながらなる。寄り返し打ち返す波は凪ゆき、(わた)()も静けし――」

 もう、誰にも悲しい思いはさせたくない。だから俺は、此処に祈る。強くなりたい、この困難を乗り切らせてくれ。

「ひとふたみよ、いつむななや、ここのたり――ふるべ、ゆらゆらとふるべや」

 皆が寝静まる夜、闇のはびこる魔の時間、誰もが知らぬその時の中で、俺は総ての悪を滅ぼそう。なに、安心するといい。誰にも傷はつけさせない、指一本たりとも触れさせない、俺が総てを守るから。だから皆は気にするな、これはただの悪夢だ、些細な夢だ。目が覚めれば総てを忘れるだろうから、今はどうか眠っておくれ。皆が目を覚ます前に悪夢は終わる。俺が総てを終わらせる。

 明けない夜は、ないのだから。

「特殊結界――“鎮魂(ちんこん)”」

祈りは終わった。これより開幕するは、悪がはびこる悪夢の夜。これより開演するは、総てを零に帰す終焉の夜。これより起こる常闇は、総てが始まる夜明け前。

《祈此完了 此開幕成 総無返成悪夢夜 此日没成 総零返終焉夜 此依起成常闇 総開始夜明明星》

 文字式が鈴を中心に回転し、やがて天空に昇って大きな魔法陣となり、広がりながら空中に世界の変革をもたらした。

 ――特殊結界・鎮魂が展開を始める。

 夜が、訪れた。

 あらゆるものが無彩色に染まった世界に、夜が訪れた。

 総てを闇で包み込み、悪のはびこる夜が始まる。総てをゼロに返すべく。新たな夜明けを始めるべく。

 この場は既にモノクロの切り抜かれた写真ではない。

 許可された者以外の侵入を許さず、また特定の者を逃がさず、隔離するための世界は崩壊する。ありとあらゆる物質に色が戻り、代わりに夜が訪れた。

 黒く、黒く。限りなく黒く染まった世界を、黄金の輝きが照らし上げる。その輝きは、太陽に遠く及ばないものの、太陽そのものを思わせる。当然であろう。その輝くモノは、本来太陽の輝きを受けて光り輝いているモノなのだから。

 常闇を、金色の輝きによって世界を照らし上げる――月光である。

 鈴が作り出した特殊空間。

 その中心にある月光の真下に見えるのは、超高速で空を駆け、殴り合う彼ら二人の姿。

 時神鈴と、風間辰人。

 これより始まるそれは、悪しきモノがはびこる、悪夢の夜。

 これより始まるそれは、悪しきモノを零に返す、終焉の夜。

 これより始まるそれは、悪しきモノの存在せぬ世界が始まる夜明け前。

 これより始まるそれは、悪しきモノを葬り去らんとする彼が創り出した、彼の夜。

「さぁ、始めようか――こっからが本番だ」

 彼の業天“白煌”に埋め込まれた水晶が、白銀に煌めいた。

 魔法陣に最後の言霊が埋め込まれ、結界は完成する。

 彼の夜――“時神鈴の夜”が、始まった。

 刹那ともいえる時間の中で新たな結界を展開した鈴は、直進して辰人へと向かう。

 また、鈴が新たな力を手に入れたことにより、辰人もまた新たな力を手に入れた。

「これが俺の手の内総てだ!」

 辰人、お前の力の内も総て晒してみろよ。全力を出したお前を、俺は必ず打ち破る。

 加速、加速、加速加速加速加速加速加速。

 加速に加速を加えて更に加速しどこまでも速く突き進む。

 心を喰われた辰人に、今や理性はない。故に、どこまでも己の欲するがままに、情け容赦なく鈴を殺しにかかる。先ほどから鈴を殺しにかかっていたと言えばその通りだが、しかし明らかに動きが違う。

 先ほどまでのものは、例えるならば武道の試合。互いに礼儀を重んじ、最低限の節度と共に競い合う、武士道・騎士道と呼ばれる誇り高き精神から行われる殺し合い。しかし今の辰人に、心を喰われた悪魔の眷属に、誇りなど欠片も見当たらない。

 気に入らないから殺す。隙があれば襲う、弱点があれば其処を突く。情けも容赦もなく、ひたすらに攻撃する。その様はさながら人ならざる獣のように。

 ああ、舐めるなよ辰人。急所を狙う?そんな動きでこの俺に勝てると思うなよ。

 そもそも、鈴がこれまで喧嘩の相手をしてきたのは武道のイロハも知らない不良どもだ。正攻法で勝てないと悟った彼らが次に起こす行動は決まって卑劣な行い――すなわち急所狙いである。

 故に、時神鈴が何より得意とするのは卑劣な輩との喧嘩。それが対複数であろうが単数であろうが関係ない、単調故に読みやすい。

「おらぁああああッ!」

 鈴の拳が、辰人の顔面へと食い込んだ。

 くぐもったうめき声を漏らす辰人に、鈴は間髪入れず連撃を叩き込む。これで決める、お前を止める。勝利を確信した鈴だったがしかし、辰人のボロボロになった体が唐突かつ瞬時に再生され始めた。

 何が起きたのか、わからなかった。

 思わず身を引き、後方へ跳ぶ。

 ぐじゅりと、辰人の肉体から緑の液体が飛んだ。

「……ろ。……やめ、ろ」

 何かを呟く辰人だったが、しかしその口からは大量のおぞましい蟲が零れだし、辰人の周囲を取り巻いた。不気味な羽音、不気味な容姿、不気味な群れ……。

 その様はさながら、稲を食い荒らす害蟲の如く。

「な、なんだよ、それは……」

 おぞましい。あまりにおぞましいその蟲は、人の視線を受け付けない。思わず目を逸らすほど醜い外見はまさに醜悪の災禍。総てを喰らう様はまさに、暴食の崇り。

「……い」

 体中を蟲と共に激痛が走り回り、己の身体を変革しようとしているのが辰人には分かった。此処に来て、吽禍は辰人の肉体の支配権を奪おうとしているらしい。目的はおそらく、この場での時神鈴の排斥。


 この高天原において、四か所のタタリを巻き起こした吽禍は、現状の地球の勢力がどのようなものかを推測した。

 一か所。在るのは“脇役”、そして“逃避”。

 “脇役”は主役を望まない。“逃避”はおれの敵ではない。故に障害に成りえない。

 一か所。在るのは“守り”の二人。

 二人同時に存在しなければ何も出来ぬ役立たず、故に障害になりえない。

 一か所。在るのは“後悔”、そして“恩返し”。

 己の幸せを願う愚者はなるほど、気に入らなくはないが、力が弱い。“恩返し”は明星の片割れ、厄介なものではあるが、片割れが落ちれば立ち直れない。

 そして一か所。在るのは明星。

 その祈りは“救いの手”。ああ、実に腹が立つ。これは単体では大した強さを持たぬくせに、皆に幸せで在れとよく吠える。群れた途端に自信をつけて威勢よく歩き出す様が、非常に気に食わぬ。

 何故今なのかはわからない。しかし、吽禍は“恩返し”と共に“後悔”と“逃避”と対峙した際に魅せた輝きを思い出す。そして、心の片隅に眠った記憶が呼び覚まされた。

 おれは、どうしてこうなった。……ああ、思い出したぞ。幾千幾万の旅の果て、おそらくおれは、貴様のような偽善者を否定(ころ)すためにタタリとなった。

 貴様のような害悪、皆死ね滅びよ奈落へ落ちろ。

 許さぬ、許さぬ、許さぬ、許さぬ。貴様のような者が一番許せぬのだ、汚らわしい。愛を謳うな、友情を吠えるな。死ね、死ね、死ね。

 眷属、風間辰人の口を借り、醜悪の災禍は誰にも見せたことのない、その心の奥底に潜む怒りを吐き出した。


「お前のような輩が、このおれを産んだのだぁあああああッ!」

 突如、風間辰人の瞳は血に染まり、獣のような咆哮と共に血涙を流しながら時神鈴へと突貫する。

 なんの話かまるで理解できない鈴だったが、しかし危機が迫っていることは目に見えて理解できる。

 咄嗟に回避した鈴だったが、それを気にすることもなく、辰人は容赦なく鈴のいた場所を殴りつけた。大地が抉れ、学校全体が巨大なクレーターに沈む。

 一体どれだけの力なんだと思っていると、ゆらりと辰人は立ち上がった。

 その腕はぐちゃぐちゃで、もはや見る影もない。肉は削げ、骨は砕け、過去腕であったものがそこにはぶら下がっていた。修復不可能、二度と使い物にならないだろうと思われたソレは、しかし体からあふれ出す緑の蟲たちが群がり、新たな形を成した。

 腕ではない、さながら人を殺すために生まれた刃のようなものが、そこには形成されていた。

 滅茶苦茶だ。なにをしたのかわからなければ、何が起きたのかもわからない。ただ蟲が集まり新たな形を成したことしかわからない。

 しかし辰人はそれを当たり前のように眺め、鈴を見る。

 次は殺すと言わんばかりに。

「本当に人間辞めちまったんだな。そんなに、風間辰人ってヤツの人生は下らなかったかよ」

 悲しむ鈴の言葉も、今の辰人には届かない。

「あ……ぐッ……」

 辰人は赤い涙を流し、再び鈴と対峙した。

 辰人の動きは、今までのものとは違って鈍い。しかしその代わり、圧倒的なまでの破壊力が存在していた。

 刃となった左腕を一振りするだけで巨大な鎌鼬が発生し、その風圧で悉くを切り裂く。

 右拳を振えば、鈴の拳ごと鈴の肉体を砕き伏せんと襲い掛かる。

 先ほどまでの鈴との均衡は崩れたがしかし、掠っただけでも一撃死は免れないという緊張が鈴の中に存在していた。

 確かに先ほどまではこれでもかという緊張感の中での戦闘であったが、何よりフロー状態に入っていたために己の最高の力を引き出せた。しかし今は違う、その蟲は一体何だ。その血涙は何だ。その腕はなんだ。そして、己の身体を顧みない不気味な戦い方はなんなんだ。辰人の身に異常が起こったことにより、長く続けていた緊張が解け、困惑している。

 こいつは一体誰なのかと。

 先までの怒りも忘れ、ただ翻弄される。

 鈴の速度であれば、この程度の拳は当たらない。けれど、彼の身体から何が飛び出して来るか推測できない以上、戦い方が分からない。

 辰人は鈴の攻撃手段を知っているというのに、鈴は辰人の攻撃手段がまるで分らないのだ。

 攻めるに攻められず、また回避すらも迷いが生じる。

 この精神状態では、死なないように攻撃を避けることがやっとで、攻撃になど転じられるはずもない。

「如何した如何した、自慢の拳は如何したッ!」

 遅い。確かに辰人の拳は遅い、その刃と化した腕も遅い。

 しかし、何故だろう。どうにも避けることが精一杯で、ほかにどうすることもできない。

 このままでは心身共に削られて、力尽きることが分かっているのに。

「げひッ、くははッ、げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃッ!」

 不気味な笑いを乗せて、辰人は鈴に襲い掛かる。

 今は回避に専念しようと鈴が距離を取った時、辰人の動きが止まった。

「――ふざけんなよクソッたれの害蟲がァッ!」

 叫び、残った右手で左腕の刃をへし折った。

 今度こそ、鈴には意味が分からない。

 敵との戦闘中に自分で自分を攻撃するなど、常人の理解を超えた異常行為だ。それを、目の前の親友であったものは行っている。

 一体何だ、何が起きている。

「待たせたな。続けようぜ、鈴」

 荒い呼吸を繰り返しながら、辰人が駆ける。その速度は今や先ほどのものとは比べものにならず、やはり鈴と同等の速度であった。

 突然の攻撃に対応しきれなかった鈴は避けきれない。殴られ、後方へ飛ぶが、咄嗟に交差した腕によりダメージは最小限にまで押しとどめることに成功した。

 今までの腕力ならば防御ごと鈴を打ち破ることが出来ただろうに、辰人はそれをしなかった。

「ックソ。言うこと聞けよ、俺の腕」

 残った右腕を、強く握りしめて振り回す。

 出ていけ、吽禍。お前は俺に任せると言ったろう、ならば最後までやらせろよ。男の戦いに口をはさむな、空気を読めよ害蟲が。脳までイカレてんのかクソ野郎。

 しかし辰人の意志を完全に無視し、吽禍は辰人の主導権を握ろうと蟲を動かした。

 ――激痛。肉体が喰われていく。身体が崩れ、血が入れ替わり、人の身から離れた肉体が更に人の身を離れていく。

 やめろ、やめろクソ野郎。この身体はまだ捨てられない、まだ終われない。これは俺と鈴のけじめだ、例え飛鳥でさえも口を出すことは許さない。これはいわば男の戦いだ、何人たりとも手出しはさせない許さない。だというのに、なんで何の関係もないお前がでしゃばることが許される、引っ込め、お前の好きな孤独の世界へ帰れ。

 必死で吽禍を抑え込む辰人は、幾度となく繰り返される激痛を無視して鈴へと駆ける。

「お前はそんなもんじゃないだろう!本気を出せ、鈴ッ!」

 頼む、早く終わらせてくれ。

 俺が俺で在れるうちに、俺が俺で無くなる前に。

 風間辰人の魂が、吽禍に喰われてしまう前に。

 決着を、つけよう。

 これで何度目になるだろう。超高速の肉弾戦が展開されるがしかし、その均衡は明らかに崩れている。辰人の方が速く、そして重い。これは即ち、鈴が先ほどまでの力を失っていることを意味していた。

 邪魔が入ったせいで鈴が困惑し、戦うことに専念しきれていない。ならばどうする、如何にして鈴の魂に火をつけられる――。

 思考するも、再び激痛が身体を襲う。

 寄越せ、その身体。おれがソイツを喰らってやろう。殺したいのだろう、死んで欲しいのだろう。ならば良し、おれがその願いを叶えてやろう。そこを退け、此の身体を明け渡せ。

 吽禍が再び動き出し、辰人の肉体の主導権を握ろうと手を伸ばす。

 やめろ、やめろやめろ、手を出すなと言っている。鈴はまだあんたと戦える段階には至っていない。ここで俺と戦い倒し、俺を失うことで、鈴はおそらく次の段階へと進化する。進化できなければ、鈴に吽禍は倒せない。辰人に吽禍は救えない。俺は鈴を救って、あんたも救う。約束したんだ、あの子と。

 本気を出せ、俺なんかぶっ殺せよ鈴!

 心の内で叫んでも、鈴はやはり守りに徹している。

 どうしてだ。あれだけ酷いことを言ったろう、俺はお前に死んでくれといったんだ。飛鳥を泣かせると言ったんだ。それはお前に対して最悪の裏切りで、絆の放棄に等しい行いであったはずだろう。もっと怒れよ、感情を爆発させろ。でなくば俺は倒せない。俺を倒せなければ、吽禍など到底倒せない。

 しかし、時神鈴は動かない。

 辰人の焦りが大きくなると同様に、その肉体の主導権がじわじわと奪われていく。

 心を強く持てと己自身に言い聞かせる辰人だが、しかし吽禍の力はやはり並ではない。神の領域へ至ったモノに、人の意識だけでは立ち向かえない。その精神が吽禍に蝕まれていく。

 このままではすぐに俺は俺ではなくなってしまう。そして、吽禍に鈴は殺される。

 なんだそれは最低の結末(バッドエンド)だふざけるな。認めない、そんな脚本(シナリオ)は認めない。

 だから鈴、お前今すぐやって見せろよ正義の味方なんだろう、その力を発揮して見せろ頼むから。この俺を、超えて見せろよ。

 何度殴り飛ばしても、何度蹴りを加えても、鈴はそれを受けるだけ。

「何故だ、何故戦わない!」

 鈴の心は既に消耗している。それを知ってはいるが、此処で力を発揮してもらわなければ困る。

 焦る辰人の心の隙を、吽禍が狙わないわけがない。

 寄越せ。その愛おれ自ら壊してやるから、眷属、その身を寄越せ。望み通り殺してやる。望み通り壊してやる。望み通り、お前の憎んだ世界を壊してやるよ。だから安心しろ、総てをおれに委ねるが良い。

 まるで己の心の代弁者のような口ぶりで辰人を誘惑する様は、言葉巧みに人をだます悪魔そのもの。

 屈するものか。奪わせるものか。ああ、確かに俺は不幸だった。鈴がいて、飛鳥がいて。けれど鈴の輝きに身を焦がされて、飛鳥には振り向いてもらえずにいて、苦しかった。だが、それでもかつて確かに存在していた幸福な日々は俺だけのものだ。それを壊すのも、それを守るのも、俺がすべきことであってお前に手は出させない。俺の人生に、俺以外の誰かが文句をつけることなど許さない。

 激痛激痛激痛。細胞総てが侵されて、血液総てが緑に染まり、血涙となって人間の象徴である赤い血液は零れ出る。痛い、苦しい、もう嫌だ。こんな困難苦しすぎて、今すぐ立ち向かうことを諦めてしまいたい。

 けれど、それではダメなんだ。それでは意味がないんだ。

 人の心は美しい。どんな困難にも挫けず諦めず前に向かっていく様は、何よりも美しい。

 俺はそう思うから、ここで負けるわけにはいかないんだ。この程度の困難に負けてなどいられないんだ。

 ――ならばどうする。どうやってこの困難を突破する。

 思ったとき、辰人は己の親友の存在を、己の片割れを思い出す。

「鈴ぃいいいッ!力を貸せぁあああああッ!」

 ピクリと、時神鈴の瞳が“辰人”を見た。

 俺たちは二人で龍神兄弟、たとえ強大なタタリ神を抑えることであろうと、二人ならば。

 例え一人では無謀だと言われようが、二人ならば成し遂げられると、風間辰人は確信する。

 だって俺たち二人がそろったなら、できないことなど何もないから。

「俺を助けろ!この悪魔から!」

 吽禍を退け、助けたいという辰人の願い。

 辰人を助けたいという鈴の願い。

 此処に二人の願いは重なり、その言葉を待っていたとばかりに、時神鈴はその祈りを解放させる。


 鈴には、何が辰人に起きているのかわからなかった。しかし今、吽禍が辰人の身体を乗っ取ろうとしているのだと確信し、強く辰人を吽禍から助けたいと思った。

 それが、風間辰人の心からの叫びならば。ああ、いいだろう。俺はお前を助けたい。

「おーけー、俺はお前を助けよう」

 だから、あと一度。もう一度だけ、残る力を振り絞り、渾身の拳を振わせてくれ。

 力を貸してくれ、神。お前の助けが必要だ。

 ――諦めるには、まだ早いのだから。

 助けたい。その思いが、鈴に力を与える。助けたいと願うのが親友であるのだから、その願いはとてつもなく強い。それが一度取りこぼした親友であるのだから、なおさら強い願いになるだろう。故に鈴の祈りは、過去最高のものとなり、そして鈴の中に眠る其の神も、ほんのり瞳を開く。

『力を貸そう。その拳で救えるものがあるのなら。取りこぼしたくないものがあるのなら』

 ――望め。強くありたいと祈れ。俺が総てを与えよう。

「らぁあああああああああああッ!」

「おぁあああああああああああッ!」

 均衡の崩れた肉弾戦が再び均衡を取り戻す。どころか、時神鈴は風間辰人を超えた速度での高速移動を開始する。

 確かに辰人は、その祈りによって時神鈴と共に加速に加速を重ねている。だけれど、彼らの均衡は崩れたままだ。鈴が速く、辰人はいつまでも追いつけない。何故だと考えた時、彼の思考が結論を導き出す。

 鈴は、加速し続けているのだ。

 最高速度で拳を振えば、次はそれを超えた速度で。その次は更に上の速度で。速く速く速く速く――刹那の瞬間に過去の己を超え、新たな己をまた超える。未来へ未来へ、先へ先へ、留まる事のない永遠ともいえる進化。

 故に辰人は追いつけない。

 ほんの刹那、ほんの僅か過去の自分を超える。そして新しい自分へ。新しい自分に至っても満足することなく、その自分を超えた新たなる自分へ。奢らず、挫けず、どこまでも前へ進み続ける。

 鈴、お前は眩しいよ。もしダメだったらどうしようとか、諦めようとか、そういう気持ちがまるでない。前へ、ひたすらに前へ。どこまでも高みへと昇り続けるお前が、俺にはやはり、堪らなく羨ましい。かっこいいよ、お前は。

 だから俺は、お前になりたいと強く願うんだ。あわよくば、お前を“超えられたら”と願うんだ。

 お前を超えたいと強く祈るんだ。

「鈴ぃいいいいいいいいいいッ!」

 辰人の速度が増した。

 もはや今の辰人に、鈴の速度だとかは意味がない。『時神鈴を超えたい』という祈りが、『時神鈴になりたい』という祈りを、この瞬間に追い越したためである。結局、辰人は風間辰人という己を捨てきれず、であるならお前を超えるまでだという新たな祈りが、彼を新たな風間辰人として変革させる。

 『時神鈴になりたい』という祈りが、『時神鈴を超えたい』という祈りへと変化したのだ。

 祈りの変化。

 それは元来あり得ることではない。しかし人間とは感情に生きる生物で、さらに言えば風間辰人は天児ではなく荒御魂である。吽禍の手を借りて風間辰人という神格へ至っているために、天児の常識は通用しない。風間辰人という神が、風間辰人という存在の法則を造りだしている。故に祈りの変化は可能である。

 時神鈴を超えたい。その想いが、風間辰人を新たな加速世界へと誘う。

 加速、加速、加速加速加速。加速がお前の土俵であるのなら、俺はそれを超えてやる。

 もはや彼の頭に吽禍など片隅もない。ただ時神鈴を超えたい、その一心が彼の思考を占拠する。余計な考え事も迷いも一切なく、何人たりとも干渉できないが故に、辰人は吽禍の腕を振り払い、一時だが追い払うことに成功する。

 それを喜ぶこともない。吽禍が自分の中から姿を消したことにも気づかない。

 ――ただ、目の前の時神鈴(コイツ)を超えたい。

 その想いだけが、風間辰人を突き動かす。

 対する鈴も、辰人に負けるものかと更なる加速世界へと己を誘う。

「辰人ぉおおおおおおおおおッ!」

 速い、一瞬ごとに更に速度を増していた時神鈴だったが、風間辰人が己の速度を超えた。しかし疑問は抱かない。

 やっぱお前は凄いよと、流石は俺の尊敬する人間だと二人は笑った。

 時神鈴になりたいという祈りはこの瞬間に変化し、超えたいと辰人は願った。また、鈴も辰人を超えたいと願う。

 であるのなら、俺はお前に負けられない。


「「勝つのは――俺だぁああああああああアアアアッ!」」


 勝つのは俺だ、お前じゃない。

 ああ、お前は確かに凄いヤツだよ。一生かかってもきっと追いつけない。

 だけど、今だけは。この瞬間だけは。

 絶対に負けたくないと思うんだ。


 負けたくない。互いに強くそう祈るがしかし、鈴の祈りの根底は“助けたい”である。対する辰人は“鈴を超えたい”。超えたいという祈りが、この戦場において有利な状況を与えた。その速度は、辰人がほんの一歩ではあるが上回る。

 もはや音速も光速も超え、更なる加速を繰り返す超高速の肉弾戦で、風間辰人が時神鈴を上回る。

「――ぐぅッ!」

 ダメだ、耐えきれない。そう確信にも近い気持ちで悟るがしかし、時神鈴は、まだ諦めない。

 こんなところで死ねるか、終われるか。馬鹿にすんなよ生きてやる。辰人は助けてくれといったんだ、それを助けられずに何が正義の味方だよ。ミスなど一つも許されない、ただの一度も敗北は許されない。あらゆる矛先を逸らしてとっておきの一撃をくれてやるから、お前はその魂と共に安らかに眠れ。

 安心しろ、悪夢は必ず覚めるから。夜は必ず明けるから。俺が守る。俺が助ける。夜明けの朝を、共に迎えよう。そのためにも――絶対に、助ける。

「――ああああああああああッ!」

 遅い、遅い、まだ遅い。これで限界ってのか、ふざけんな甘えんじゃあねぇぞ。なあ、俺ならまだまだやれる、こんなもんじゃねぇ。そうだろう、俺に宿る寝坊助よ。まだ目覚め足りてないだろお前、さっさとその目を覚ましやがれ。その力を貸しやがれ。

 ――すべてを貫く一矢(こぶし)を寄越せ。

 ドクンと、心臓が跳ねた。

 ――攻むは稲妻。守るは堅石(かたしは)。此の身は天津神より賜りし天之麻迦古弓(まかこゆみ)。なればこの(かいな)は――。

 この腕は、この拳は。

「決まってんだろォッ、俺の自慢の拳だぁああああああああああああアアアアアアッ!」

 ――なればこの(かいな)は、天津神より賜りし天之波波矢(あめのははや)なり。

 神魔滅裂(しんまめつれつ)瞬牙散(しゅんがざん)

 この拳は、俺の自慢の拳だ。龍神兄弟の肉体で、お前の半身である、高天原最強の俺の拳だ。

 総てを貫くこの一矢。この拳で、ぶち抜けないものはない。鈴の拳はその瞬間、この世の“時間”という理から外された。

 その刹那、時神鈴は完全なる時間停止を実現する。ほんの刹那の停止ではあるものの、しかしその刹那は、この二人の男の戦いに確実な決着をもたらすに十分すぎるほど無限の時間。

 鈴の右手の肘から下は、曖昧な陽炎のようにいくつも重なり、ブレて見える。これこそが、彼の腕がこの世の法則から外れたことを意味しており、現在過去未来総ての拳がこの時間に収束していることを意味していた。

 本来存在せぬはずの、異なる時間の己の拳を出現させることにより、時間のみならずその空間すらも歪める。空間を歪め、対象のみならず、その空間に存在するあらゆる物体を時間ごと分解する時間振動を発生させる。彼の拳に触れた総ては、千切られた数秒前後の何処かの時間――現在過去未来の異なる時間の中へと放り込まれ、否が応でも分解される。

 それが、彼の必殺。勝ちへの王手。

 ――分解する。分解、分解、分解。ひたすら分解する。

 時を分解、空間を分解。眼前に迫る脅威を、大切なものを害する怨敵を、ありとあらゆる障害をこの拳が分解し、砕き伏せる。

 鈴の右拳に触れた万象の悉くは、その拳を砕けない。そも触れる直前に、特定時間ごと別の時間軸へと飛ばされて、細切れになって粉砕されていく。

 彼の拳の前では、ありとあらゆる矛は無駄。ありとあらゆる盾も無駄。ありとあらゆる物体を時間と空間ごと引き千切るその様は、光陰すらも超えて突き進む矢の如く。

 総てを貫く一矢(こぶし)が、風間辰人の肉体を貫いた。


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