“我ら”の戦
いよいよアレのタタリが始まった。それらを察知した衣と桜花は、静かに空を見上げた。
大気を震わせ、雲を吹き飛ばし、地震とはまた異なる空震とでも呼ぶべき現象と共に、巨大な顎が空に開いた。そこからは、まるでカマキリの卵のように、おぞましい化け物たちがおびただしい数で生まれ落ちていく。不気味だとか気持ち悪いだとか、もはやそういう感性は感じない。
とにかく潰す、絶対に此処は通さない。
その意志だけが彼女らを奮い立たせる。
なぁ、吽禍よ。お前は絶対に許さない。お前だけは、絶対に。我らの幸福を奪った貴様だけは、必ず、然るべき報いを受けさせる。
「ふふ、貴様が相手なら、夜叉となれども構わないと思うのだから、不思議なものよ。」
「目には目を、歯には歯を。外道には同じ外道を。ああ、千年前に封印した力、再び解き放ってやるぞ吽禍。お前は絶対に許さない。」
此処に少し、昔話をしよう。
かつて、一人の少女がいた。
彼女はいわゆるシャーマンと呼ばれた呪術者で、その身に神を宿すことができると言われていた。彼女の言葉に従えば間違いはない。やがて彼女は一つの神として、崇め奉られることとなる。
また、彼女の作る酒は特別なもので、ありとあらゆる病を治す薬としても機能した。
彼女の生きた時代、生きた村には病院と呼べるものはなく、村人にとっては彼女の存在はその村にとって最高の――神にすら等しくされるシャーマンであった。
故に彼女は、道具であった。
政治の道具、金稼ぎの道具、総てを従わせる力を持った、親にとって最高の出来のいい子供であった。
子供ながらにそれに気づいていった少女は、やがて自分に寄る者たちが気持ちの悪いものへと見えていく。次第に、何もかもを信じられなくなっていく。
かつて、一匹の狐がいた。
その狐の生きた時代は、稲荷信仰が流行していた頃――現在より千年ほど前である。その狐はいわゆる特異体質で、それ故に多くの村人から、当時の稲荷信仰から派生したダキニ信仰が流行っていた当時、ダキニの使者であると崇拝される。
故に狐は、道具であった。
政治の道具、宗教の道具。力を求め、縋るものを求めた地位的弱者に希望を与えるための装飾品であった。
けれど、その狐を快く祀り上げるのはダキニを崇拝する者たちのみで、むしろ邪なる法とダキニ信仰は一部からは嫌悪されていた。それ故、弓や剣を向けられることも多く、また特殊体質であったために、虚弱な狐は、次第に何もかもを信じられなくなっていく。
その折に、一人と一匹は出会う。
偶然としか表現できない出会いであったが、しかしそれは必然とすらいえる出会いであった。
親の言いなりになるのが嫌で、森の中へ少女が逃げたのがキッカケだった。
以来、二者は頻繁に顔を合わせ、共に時間を過ごすようになる。
少女は、狐にどこか親近感を感じていた。
自分と同じ政治の道具、一人の人間として己が見られていないように、その狐も一つのものとしか見られていない。
わたしは生きている、此処にいる。なのに誰も、本当のわたしを見ていない。他の人たちと同じように心があるのに、気付こうとすらしてくれない。それ故に、自分の居場所が欲しい。
「一人はいやだよ。一人はさみしいよ」
だからどうか、抱きしめてほしい。
きみは一人ではないと。
きみは必要とされているよと。
きみは道具ではない、一人の人間だよと。
誰かと同じように結婚して、家庭を持って、子供を育て、普通に生活したいだけなのに。
狐は、少女にどこか親近感を感じていた。
言葉は話せない。その意味は分からない。けれど、その気持ちはわかる。白い肌に生まれた故に他より敏感に生まれた肌が、狐にそれを教えてくれた。
居場所が欲しいと彼女は願っているのだと、狐は知っていた。
また、狐も居場所が欲しいと思う。
わたしはどうして普通に生まれることが出来なかったのか。普通に生まれ、普通の肌で、普通の狐として一生を過ごしたかっただけなのに、呪いの如く白き肌が、願う普通を許さない。
「仲間外れはいやだ。一人はいやだ」
居場所が欲しい。
汚れを知らぬ虚弱な白など欲しくない、ただの金色になりたい。普通がいい。
普通になれたそのときに、誰か、わたしを抱きしめてくれますか。
やがて少女と狐は、旅をする。
己を道具としか見ない者たちに耐えられなくなった少女が、遠くへ行こうと提案したのだ。
やはり狐に意味は分からなかったが、離れたくないという思いから、狐は少女に付いていく。もともと狐には自分の住む場所にこだわりがなかったし、あの場所にいつまでも留まっていては、いずれ反ダキニ信者に殺されることもわかっていたからだ。
旅を続ける中で、とある村の老夫婦の娘になることを条件に、少女は己の居場所を獲得した。また狐も共に住んでもよいと言われ、一人と一匹は己の居場所を手に入れた。
幸せだった。不自由は多少あったものの、そこでは欲しいものが総て手に入った。
自分の普通。普通に薪を集めて、普通に洗濯を手伝って、一緒にお風呂へ入って。
老夫婦は、少女と狐を暖かく迎えてくれたのだ。ああ、自分はきっとここで年を取る。そして誰かと結ばれ子を成し、普通の生を謳歌するのだと、信じて疑わなかった。
しかし、それはほんの刹那の安らぎとなる。
醜悪の災禍、暴食の崇り――即ち、タタリ神、吽禍が地球に降臨した。
吽禍は目に入るもの総てを喰らう。
――五月二六日癸末の日。空を流れる光が夜を光のように照らし、人々は叫び声をあげて身を伏せ、立つことが出来なかった。或る者は家屋の下敷きになり圧死した。或る者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走し、互いに踏みつけ合い、城や倉庫、多く建築物が崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞えて潮が湧き上がり、川が逆流し、たちまち城下に達した。内陸部すら果てしないほど水に濡れ、野原も道も大海原となった。船で逃げる、山に避難するといったことは叶わず、多くの者が死に、後には田畑も財産も、なにも残らなかった――。
愛を喰らい、情を喰らい、作物、命に建築物……ありとあらゆる総てを喰らう。吽禍の残した暴虐の爪痕――それこそが、貞観地震と呼ばれた現象である。
当然、少女と狐の住んだその村も例外ではない、不幸にも吽禍のタタリの餌食となる。
ただ、普通が欲しかった。誰もが営むような苦難を超えて、自分の道を自分の意志で生きていたかった。なのに神様、それすら願うことは許されないのか。
山の上の村に住んでいた少女と狐は、奇跡的に生き残った。しかし、どうやら山崩れが起きたようで、その村は崩壊していた。田畑は荒れ、井戸は埋まり、家も木々も残らず押し倒され、それらに押しつぶされた多くの死体が転がっていた。
この手は、日干しの魚を分けてくれたおばさんのものだ。
この腕は、持ち運びきれずに零してしまった薪を共に拾ってくれたおじさんのものだ。
この足は隣の家に生まれた赤ん坊のものだ。
この柄杓は向かいのお兄さんが貸してくれたもの、この桶はもう重いからと離れのおじいさんがくれたもので、この野菜は余ったからと男の子がくれたもので――。
それらの総てが、壊れている。
そして、少女と狐が過ごしたその家さえも倒壊し、繋いだ老夫婦の手が、血を吸って赤く染まる家の欠片から僅かに覗いていた。
死んだ。
全部死んだ。
優しくしてくれた人たちはすべからく死んだ。大切にしてきた物は、すべからく壊れた。わたしたちの幸せは、すべからく消えた。
絶望に染まる二人の前に、一人笑う男がいた。
大地震の中心で、不自然なまでに浮いている男がいた。
男は笑う。逃げ惑え、愛を壊せ、おれが総てを喰らってやると。そこに理由はない、愉快であるから殺す、愉快であるから破壊する。何分大きな理由のない純粋な悪意だけに、なおさら許せない。
――やめろ。やめろ、やめろ、やめてくれ。それは大切なモノなんだ、笑って踏みにじらないで。壊さないで、それはみんなが一生懸命造ったモノなんだ。その地割れで飲み込まないで、それはみんなが幸せで在れるようにと村のみんなで造った、大切な――。
笑って、男は壊した。なんだこれは、阿呆か。なにが皆の幸せだ痴呆ども、貴様ら程度の低俗な輩が愛などを謳うんじゃあない、不愉快だ皆死ね。すべからく死ね。死ね死ね死ね死ね、お前ら余さず喰らってやるよ。さあ生き延びるため、他者を押しのけ、己一人でも生き延びようとする惨めな様を見せておくれ。
なにを笑っている。なにが面白い。人がたくさん死んだ、たくさんの幸せが消えたんだぞ、一体どこに笑う要素があると、二者は激昂する。
お前が壊した幸せは、我らにとってかけがえのない大切なモノであったのに。我らが手に入れた平穏を、幸せを、奪うというのか。わたしがお前になにをした。わたしが世界になにをした。恨まれるようなこともしていなければ、咎められるようなこともしていないだろう。
幸福な日々だった。なのに何故、奪われなければならない。なのに何故、失わなければならない。ふざけるな、認めない。お前の存在など許さない絶対に認めない。
よくも、わたしの居場所を奪ったな。
よくも、わたしの幸せを殺したな。
笑うな踏むな貶すな呑み込むな。それはわたしの幸せだ。それはわたしが欲しかったものなんだ。なんの権利があってお前は奪う、誰の許しを得て奈落へ落とす。やめろ、やめてくれ。わたしの幸福な日々を、奪うな――。
わたしの愛した老夫婦を殺した。わたしの愛した村を壊した。わたしの大切な総てを、お前は破壊した。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。返せよ、わたしの幸せを返せよ。
――許さない。許さない許さない許してなるものかお前は絶対に許さない。
幸か不幸か、少女と狐は同じ天児。それも、似た願いと業を宿した者同志。大切なものを奪われるという業を背負った二人は、此処に約束された絶望を満たされ、天児として降臨する。
――よくも、よくもよくもよくも。
「「よくも我らの居場所を奪ったなァッ!」」
激昂する二者は新たなカタチを纏う。それこそが、彼女らの業天“神威”。
“衣”でも、“妾”でもない“我ら”のカタチ。しかしその爪は吽禍には届かない。どころか、目にすら入っていないだろう。攻撃するたび、攻撃した部位が壊れた。それでも吽禍に攻撃を繰り返した『我ら』だが、しかしまるで意味はない。まるで、豆腐を武器に鋼鉄と戦っているようだった。
それほど圧倒的な戦力差。
――勝てない。
絶望した“我ら”に、吽禍の肩が触れた。
アレからしてみればおそらく、歩いていたら小さ埃に触れた、程度のモノだったのだろう。しかし“我ら”は遥か遠くへ吹き飛ばされ、その身体は動かなくなる。
笑いながら、吽禍は大切なものを蹂躙していった。犯す、冒す、侵す。万象喰らって奈落へ落とす。
しかし二人は、自分たちの幸せが壊れるさまを見ることしか、叶わない。
ふざけるな、ふざけるな、やめろ、やめてくれ。それはわたしの総てなんだ。わたしの希望で、唯一のこの世の輝きなんだ。だからやめて、奪わないで、返して……。
「もう二度と、奪わせるものか。」
「もう二度と、負けはしない。」
二度と我らの居場所は奪わせない。幸せなのだ。今が、かつての幸福な日々に劣らないほど、幸せなのだ。
戦いに身を置いていても、信頼できる者たちがいる。先を灯してくれる“明星”がいる。偉大な嚆矢がいて、タバコ臭いけれどアーヴァンがいて、気に食わないけれどハワードやオーガストがいて。失いたくない、絶対に、この幸せを過去にしたくはない。
だから、守る。
だから、此処にかつての少女と狐は咆哮する。
「「征くぞォッ!」」
二度と奪わせない。必ず守りきる。
千年の時を超え、衣と桜花は守るべきものを守るために幸せの仇へ立ち向かう。




