雨上がりの夜明け
「起立、礼。……着席」
朝のチャイムが鳴った。
鈴、飛鳥、そして辰人の所属する二年一組の教室に、級長である風間辰人の声が響く。その号令に従って他の生徒たちも起立し、礼を行った。
「おはよう、みんな」
教卓に立った、担任教師の山本康児が言う。
彼は主に現代国語を担当している。高天原中学校の中でも古株に当たる教師だが、その声は眠くなるうえに授業には面白味が感じられないため、生徒からの人気は薄い。ついでにいうと、頭の髪の毛も薄い。年はまだ四十後半と言ったところなのだろうが、哀れなものである。
そんな彼が陰でつけられたあだ名が、「不健康児」で、それは名前の康児をもじったものだった。目の下のクマ、頭に降り注ぐ季節を問わない粉雪のようなフケから名付けられた、実に不名誉なあだ名である。
「今日は休み明けの課題復習テスト最終日だ。最後まで気を抜かないように」
なんともやる気のない声で、意図せぬところで生徒たちを睡魔を誘う不健康児。
さっそく、生徒の何人かがうつらうつらと船をこぎ始めた。
あまりに早いと思うかもしれないが、これは仕方がないことなのだ。彼を前にすれば、如何なる緊張状態に於いても意味をなさない。ST後に愛の告白しようと、ラブレター片手に意気込んでいた女生徒ですらも、彼の声を前に爆睡したという伝説が残るほど、彼の声には魔性の何かが存在しているのである。
ちなみにこのクラスは、何故か現代国語の担当が担任であるハズの山本ではなく、三組の桑原真由美が担当しているために問題はないが、彼が現代国語を担当する他クラスでは、ほぼ全員の現代国語のテスト平均点がものの見事に下がっているという。
おそるべし、不健康児。
ちなみに、たかが十分程度のSTとはいえ油断はできない。眠気を堪えるのに必死な生徒たちの中には、STの直前にガムや飴を口に入れたり、しみる目薬を点したりと、あらかじめ準備をしている者も少なくない。当然ながら、辰人や飛鳥などの優等生組はこれに当たる。
鈴もまた恐るべき睡魔に襲われたが、太ももをねじ切る勢いで抓る。その痛みで睡魔から逃れつつ、あの舟をこぎ始めた馬鹿共、今日も説教の餌食かよ、と思う。
特に佐々木、永田の男子生徒二人は、さっそく不健康児のありがたいお話のスリープトラップに引っかかったらしく、あまりの舟のこぎっぷりにガツンと頭を机に強打したり、横に倒れて椅子から転がり落ちていた。
いってぇ!
彼らの悲鳴に見向きもせず、不健康児は淡々と告げる。
「それでは、今日の連絡だ。後ろの黒板にある通り、今日はテスト後の三限に体育館で全校集会、その後武道場で学年集会。また、本日五限より通常授業に戻ることも忘れないように」
夢の世界へ誘う悪魔の如き声で告げた不健康児こと山本は、じろりとメガネの下のうつろな瞳で二人の男子生徒を見た。
それと。呟いて、山本は佐々木と永田の机まで歩く。
「きみら、STが終わったら廊下に来なさい」
公開処刑にも等しい決まり文句を告げ、「ではSTを終了する」と言った。
「起立……」
眠たげな辰人の声を聞いて、まずは第一ラウンド、ようやく一日に何度か訪れる眠気との死闘を勝ち抜いたのだと、鈴は安堵した。
「――つまり、当時は実力よりも、土地の恩恵が戦国の世を制するカギとなったわけだな。そしてようやく、ご存じあの男が登場する。上杉謙信と武田信玄が幾度も引き分けていたという話は有名だが、その武田信玄と引き分けたこともあるという今川義元。彼を桶狭間の戦で破った男がいる。知っている奴はいるか」
なんとかテストを乗り切り、疲れた頭で集会をやりすごした鈴は、昼食を取ることで果てしない眠気に襲われる中、薄皮一枚のところで何とか意識を保っていた。
せめて、次のテストが来るまでに板書だけは最低限行えと、この間の勉強会の際に飛鳥に釘を刺されてしまったのだ。これができなければ、次のテストでは辰人は鈴の面倒を見ないといったし、飛鳥も見捨てると言ったのだ。それは困る。
必死で鈴は耐えていた。なんとか板書だけはこなしていた鈴だったが、しかし教師の話を聞くほどの余裕はなかった。
「誰かわかるか、時神」
「え?」
それ故、話をまるで聞いていなかった。
「彼は尾張、すなわち今でいう愛知県の有名な戦国武将の一人なんだが、わからないか」
あ、ヤバい。これ多分アレだ、わかって当たり前の問題出してるヤツだ。
しかし話を聞いていなかった鈴には前後が分からないし、愛知の有名な戦国武将といえば三人もいる。三分の二で外れだな。冷汗を流しながら唸っていると、斜め前に座る辰人が、開いたノートを手に持ったペンで叩いているのが見えた。鈴は、そこに大きく書いてある文字を読む。
「織田、信長……?」
「おお、よくわかったな。その通りだ時神」
正解したことにホッと胸をなでおろすと、辰人も肩でため息をついているのが見えた。
助かったぜ辰人、サンキューな。
そんな二人に気付かず、日本史を担当する笠山は続けた。
「それでこの桶狭間の戦だが、今川軍は二万から三万。対する織田軍は、信長の人徳がなかったために兵はその十分の一ほどしかいなかったと言われている。さて、信長は如何にしてこの勝ち目のない戦に勝ったのか。そうだな……わかるか、風間」
はい。辰人は、教科書も見ないで答え始めた。
「圧倒的な人数の差でしたが、将棋にもある通り、戦は大将の首を取れば終わるので、兵には今川義元のみを狙うよう信長が指示したと言われています。また、槍の長さを伸ばしすなどして――」
次から次へと、まるでその時その場にいたのではないかと疑うほど鮮明に述べていく彼の言葉を聞いていると、その情景がありありと想像できた。
あー、信長ってすごい奴だったんだなと、歴史に関心の持てない鈴ですら思う。
教師ならば知っていて当たり前と言える事項だろうが、同い年のクラスメイトが知っている事実。そして、年の離れた教師ではなく、同い年の彼が語っているというこの状況は、ただ教師が話をするだけの授業を聞くだけよりも呑み込みやすい。同い年の生徒が理解しているのなら、自分にもわかるだろう。という自信を持たせるだけでなく、教師よりも、普段話している知人の声の方が聞きやすいということもあるだろう。
思ったよりも、すんなりと頭に入った。
こうして授業を受けていると、辰人の存在によって授業中印象に残る言葉も少なくないなと、鈴は思った。この間のテストでも、辰人の言葉によって解けた問題がいくつもあった。
それは日本史に限らず、理科であっても、数学であっても、英語であっても。
龍神兄弟として、普段から彼の頭脳に助けられているが、こういう日常でも助けられているんだなと、しみじみ感じたのだった。
学校が終わり、いつものように鈴は辰人、飛鳥と共に帰路に就く。辰人は週に数回通っている塾があるが、今日は休みらしい。
「なぁ、ふと思ったんだけどさ」
三人で帰宅しているとき、辰人が口を開いた。
「ん、どうした」
「お前らって、彼氏彼女は作らねーの?」
何を思ったのかは知らないが、辰人は唐突にそんなことを聞いてきた。
「なんだよ、急に」
「いや、ふと思って」
何故か飛鳥は顔を真っ赤にしていたが、鈴はクエスチョンマークを頭に浮かべている。
「っていうか、アレだろ。鈴って結構モテるだろ」
「いや、そんなことないと思うけど」
「お前、今まで何回告白されたことあんの」
「……そうだな、四回ぐらいか」
「そんなにも!?」
飛鳥は目を丸くしていたが、そのあとに「でも確かに見た目かっこいいしスポーツできるし云々……」などと言っていたが、よく聞き取ることは出来なかった。
「で、鈴は結局誰かと付き合ったわけ?」
うだうだした空気をすぐに斬り上げ、辰人は本題へと戻す。
「友達からで。って言ったら、見事にそのまま自然消滅。それも全員」
「お前、友達からっていうのは遠まわしに『恋人としては見れないので諦めてください』って言ってるようなもんじゃ……」
「そういうもんか? だって、名前も知らない他クラスのヤツにいきなり付き合ってくれって言われてもさ……」
「まぁ確かに、困るよな。わからんでもない」
「だろ? ……ちなみに、辰人の方はどうなんだよ。お前は一体、何回ぐらい告白されたんだ」
辰人は学年主席の成績だし、教師からの受けもいい。顔も悪くないし、おまけに性格もいいときた。鈴からしてみれば、彼こそモテそうな気がするものだ。
「俺は……そうだな、三人かな」
「やるじゃんか。それで、付き合ったの?」
「……一回だけな。付き合ったことがある」
それは初耳だった。いつも一緒に居たのに気付かなかったなんて、何たる不覚。と鈴は唇を噛みしめて、野次馬の顔を隠すこともなく、辰人に詰め寄った。
「なんだよ、彼女できたんなら教えろよ。んで、どうなったんだ?」
「……いや……」
「ん、どうした?」
しばらく黙り込んだ辰人は、強く噛みしめた唇を緩めて、笑って言った。
「俺が鈴とばっか遊んでるからさ、元カノ嫉妬しちまってな。ホモだったなんて知りませんでした、ってキツく言われて、ものの見事に振られたわ」
はははっと笑う彼に釣られ、思わず鈴も笑った。
「なんだそりゃあ」
言って二人で腹を抱えて笑った。
「お前のせいで、振られちまったよ」
「彼女ほったらかして遊んでたお前が悪い」
二人でしばらく笑いあい、笑いが納まってきたところで、鈴は飛鳥に尋ねる。
「ところで、飛鳥はどうだ。お前、何回ぐらい告白されたことあるんだ?」
「んあっ?」
この状況で話しかけられることを想定していなかったのか、飛鳥は奇妙な声を出した。
話を聞いていなかったのだろうと思い、「お前は何回告白されてんだ?」と、鈴は再度問う。
「……あの、えっと、今年に入ってえと……十四人、かな……」
遠慮しがちに指を折った彼女に、
「「多くね!?」」
思わず、鈴と辰人が声を荒げた。
「あ、えっと……そんなことないって、普通だよ、多分……」
十四人というと、辰人の四倍以上、鈴の三倍以上だ。というか、文字通り桁違いだった。
――普通では、断じてない。
鈴と辰人は、心の中で宣言した。
「流石だな、飛鳥。モテるモテるとは思ってたが、そこまでだったとは……」
十四人といえば、一クラスに所属する男子のほぼ全員である。
鈴の記憶が正しければ、彼女は確かに、「今年に入って」と言っていた。つまり他の年に告白された分はカウントされていないということか。
「なんだよそれ、お前モテすぎだろ、モテモテ大明神かよ、モテモテ不動明王かよ。今度からモテモテ神社ってとこでモテるっていうご利益与えて崇拝されちまえよ。俺、絶対そのご利益あるお守りを買いに行くから」
鈴の冗談に、飛鳥は「あはは……」とぎこちない笑みを浮かべる。
どうにも彼女はこの手の話題を避けたい様子であったが、鈴がそれに気づいた節はない。仕方ないと、辰人は「いや、気持ちはわかるぞ」と話題を切り替える。
「確かに、みんなが飛鳥に惚れる理由はわかる。可愛い、料理ができるし家庭的、でもって誰にでも優しい。クラスの影で開催されていた二年一組女子嫁にしたいランキングでも、堂々の一位だったぐらいだからな」
うんうんと頷きながら、辰人は言う。
すると案の上、「なにその嫁にしたいランキング、俺は初耳なんだけど」と鈴が食いついた。辰人は上手く話題を逸らすことに成功したことを確信し、飛鳥を見る。飛鳥は、ホッと胸を撫で下ろしていた。この話題なら大丈夫だろうと、辰人は続ける。
「ちなみに、飛鳥の投票率は全体の八九%だ。クラスの男子それぞれに三度の投票権が与えられたわけだが、それにしても投票率八九%は凄まじい……」
つまり、クラスには二票以上飛鳥に投票した者が多くいるわけである。
告白人数の時点で察したものだが、それにしてもぶっちぎりの獲得票数であった。
「すげぇな、飛鳥」
そんなクラスのアイドル的な存在がすぐ隣にいるというのに、飛鳥は飛鳥だからと意識することも自慢げに思うことも、ましてや嫉妬することもなく、鈴は純粋に心から感心した。
ちなみに。飛鳥に向けた視線を、辰人に向ける。
「辰人は、誰に投票したんだ」
その問いに。
「全部飛鳥だ」
辰人は即答した。
「お前、八十九%にだいぶ貢献してるよな……」
唖然とする鈴に構わず、辰人は当然だろうと、ニッカリ笑う。
「他に入れるほど仲のいい女子も、気に入った奴もいなかったからな。ちなみに聞くが、鈴だったら誰に入れてたんだ」
しばらく腕を組んで首を傾げた鈴は。
「……全部飛鳥だな」
悔しそうにそう告げた。
「人のこと言っといてお前もかよ」
はっはっは。
鈴の背中を叩く辰人に、「仕方ないだろう」と鈴は頭を掻いた。
「他の女子とは、ほとんど話したことないからなぁ」
「まったく威張れないぜ、それ」
「言うな、悲しくなるから」
この時、鈴は「悲しくなる」とは言ったものの、正直なところ、意識的に仲良くしたいと思った女子はいないし、そもそも彼氏彼女という付き合いに鈴は執着していない。今が楽しければいい、彼は本当に、そう思っているのだ。
鈴との会話が一度終わった時を見計らい、辰人は、先ほどから二人の話を伺っていた飛鳥に顔を向けた。
「そういえば、飛鳥は結局、誰かと付き合ったことはあるのか?」
「――え?」
不意に訪れた辰人の問い。飛鳥はしばらく、時が止まったように唖然として。そして一瞬、辰人の隣で「なんだなんだ」と興味津々に顔を寄せる、子供のような少年の顔を見て。少しばかり頬を染めて、ぶつぶつと呟いたのち、小さく告げた。
「わたしは、その……今は付き合いたくないっていうか、その人たちとは別に、付き合いたい人がいるっていうか……」
「おいおい、好きな人でもいるのか飛鳥。なんだよ教えてくれよ、応援するぜ」
うりうり。鈴は飛鳥の脇腹をつつき、それに「そんなんじゃないってば」と頬を赤く染める飛鳥の二人を見て、辰人はほほえましげに二人を見ていた。
☆
恋愛話の後は、いつもの会話だった。
鈴と辰人のくだらない馬鹿話や、飛鳥の女友達との話。普通の、会話。普通の中学生が行うような、馬鹿話。日常の、ほんの小さなひと時。
そうこう話している間に、辰人は立ち止まった。
いつもの分かれ道だった。鈴と飛鳥は右に。辰人は、左に家がある。
「じゃあな。また、明日」
「おう、またな」
「うん、また明日ね」
辰人と別れると、鈴と飛鳥はまた別の話題が出たようで、それについて楽しげに話していた。その背中を、辰人は眺める。
遠く離れていく二人の背中が曲がり角に消えて、それでも消えた二人の背中を追いながら、辰人は一人ぼやいた。
「鈴とばっか遊んでたから振られたってのは、真っ赤な嘘だ。他に好きな奴がいたから、俺があの子を振ったんだ」
彼女は、自分だけを見てくれなくてもいいと言った。二人きりのときだけ自分を見てくれればそれでいいと、言ってくれた。あなたの隣に居られれば、それでいいと。
でも、ダメだった。
辰人の頭には、他の好きな女の子の姿が焼き付いていて、何度振り払っても振り切れなかった。他の女と付き合ってみたら振り切れるかと思ったけれど、幸か不幸か、そんなことはなくて。
彼女の笑顔が離れない。彼女の声が離れない。彼女のやさしい匂いが、彼女のほのかに暖かい体温が、全部全部、まるで書き換えられないCDのように焼き付いている。
どれだけ上書きを重ねようとしても、それができないから、彼のCDに焼き付いているのは結局、もとの曲のまま。好きになった人は変えられない。だからどうしたって忘れることはできなくて、いつでもその子のことを考えてしまう。
自分なんかじゃ、彼女に釣り合わない。どれだけ努力しても、自分では彼女に相応しい男にはなれない。そう思うのに、彼女へ想いは変えられない。
彼女は自分とは違う男のことをずっと想っている。けれど、その男はいつまでも彼女の気持ちに気付かない。彼女はきっと、それが叶わない恋なのだと思っている。
それは自分も同じだった。追いかけても、追いかけても、彼女はその男を追って遠くへ行ってしまう。どれだけ走っても、血反吐を吐くほど走っても、どうしても彼女には追いつけない。彼女に追いつけないならと、自分がその男の背中を超えようとしても、大きすぎて超えられない。
神童だの、天才だのと周りからは評価されているが、所詮自分なんて,一皮剥けばこんなものだ。
弱くて、醜くて、ちっぽけだ。
何度、男から彼女を奪おうとしただろう。
何度、彼女の幸せよりも自分の幸せを選ぼうとしただろう。
ああ、エゴだ。自分はエゴにまみれている。どうしたって、自分は自分以外の何かになることは叶わなくて、自分の限界に気付いてしまったが故に、救われない。
風間辰人が風間辰人である限り、この恋は報われない。けれど、この想いがあるから存在している、自分の好きな自分も確かにいるのだ。捨てたくても捨てきれず、どうしようもない気持ちに苛まれる。
――世界は俺に、優しくない。
いつだったか、昔の特撮番組のセリフを思い出す。
主人公である正義の味方が、友人や恋人を守ろうと、彼らの目の前で自分の本当の姿を晒し、悪の怪人と戦った後の一場面。正義のために戦ったハズの主人公は、助けたはずの友人や、恋人にまで化け物呼ばわりされる。当然、主人公は、涙を流して悲しみに打ちひしがれた。そして呟いたのだ。
『世界は俺に優しくない』
まさに、その通りだ。
この恋が叶わないモノなら、こんなもの、知りたくなかった。この恋を芽生えさせたのだから、叶えてくれよ神様。こんなのは、辛すぎる。忘れたいのに忘れられない。叶えたいのに叶わない。
自分は無駄に頭や勘がいいから、叶わないという知りたくないところまで分かってしまうのだ。
水無月飛鳥の心は、とうの昔から一人の男に向けられていると、分かってしまったのだ。
だからこそ、風間辰人は願わずにはいられない。
「俺はさ、お前みたいに強くなりたいよ」
辰人は自分勝手な人間だから、自分の幸せを優先してしまう。悪い意味で賢い人間だから、彼のようにはなれないことを知っている。
それが、堪らない。悔しくて、辛くて、堪らない。頭なんかよくなくたっていい。馬鹿でよかった。ただ、彼のように、自分以外の誰かのために本気になれる自分が欲しかった。自分よりも誰かの幸せを願えるような馬鹿な自分が、欲しかった。
誰かのために自分を犠牲にするなんて、正直、本当に馬鹿だと思う。損だと思う。もっと、自分のために何かしろよと思う。もっと、自分の幸せに貪欲になれよと思う。それでも、辰人は、彼のようになりたいと思うのだ。
こんな汚い自分では、綺麗すぎる彼と一緒にいるのが、辛くなってしまうから。
確かに、毎日が輝いている。「なんか俺、青春してるなー」なんて、柄にもなく思ったこともある。でも、それだけではいけない。彼が輝きすぎて、彼が眩しすぎて、誰かのために生きてる彼が、風間辰人には堪らなく羨ましいのだ。
「なぁ、鈴……」
――俺は、お前みたいに強くなりたいよ。
風間辰人は、自分の幸せや利益などはかなぐり捨てて、本当に大好きな人の幸せを願えるぐらい、馬鹿なヤツになりたいと思うのだ。
☆
鈴が見ているテレビに映るのは、『仮面ヤイバー』という特撮番組だ。
昔の作品だが、鈴はこの作品が大好きで、今でも大ファンである。この作品のコンプリートBOXなるものが発売決定したらしく、それを知って以来、小遣いを貯めているほどだ。
現在は、父親が録画していてくれた昔のビデオを、古い再生機で再生している。画質は荒いし、音質だってDVDに比べたらかなり低い。しかも、昔から何度も繰り返し見ているのだから、とうの昔に擦り減っている。けれど、鈴は見続ける。頻度は一か月に一度程度。内容もすべて頭に入っているけれど、それでも鈴は見続ける。
こうありたい、こうあるべきだ。そんな自分を強く持つために。自分のやれること、やるべきことを、この作品を見るたびに改めて固めていくのだ。
でなければ、自分はきっと、今の自分を保てない。
自分は弱いから、直ぐに流されてしまう。だからこうして固めないと、すぐに崩れてしまう。
現在流れているのは、主人公が、友人や恋人を守ろうと、彼らの目の前で自分の本当の姿を晒し、悪の怪人と戦った後の一場面だ。
正義のために戦ったハズの主人公は、助けたはずの友人や、恋人にまで、化け物呼ばわりされる。当然、主人公は、涙を流して悲しみに打ちひしがれた。
そして呟く。
『世界は俺に優しくない』
絶望の底を知った主人公は、昔の自分に似ていると思った。
彼と同じように、信じていた者に裏切られ、鈴もまた、絶望したことがある。
主人公は打ちひしがれていたが、鈴はそんなことはなかった。ただ、許せなかった。自分の気持ちを裏切った奴らが。彼女の気持ちを裏切った奴らが。だから、感情のまま歯向かった。叫んだ。
お前たちは、どうしてそんなに非道になれるのか、と。どうして弱者を虐げるのか、と。
彼女を助けられると思った。ようやく、彼女に手を伸ばすことができると思ったのに。
鈴の思考が逸れて行っても、作品は流れていく。
打ちひしがれている主人公の気持ちを無視するように、街では怪人が暴れまわる。戦う主人公だが、何のために戦うのかわからない。守るべきものに裏切られた彼には、どうしても、上手く戦うことはできなかった。
そんな時、主人公の頭には、かつて父親に言われた言葉が蘇るのだ。
『――あぁ。世界はお前に優しくはない。世界は非情だ。一つ困難を乗り切っても、新たな困難を、世界はお前に見せつけるだろう。それを乗り越えたとき、お前は楽になれるのか。答えは、否だ。世界は、新たな困難をお前に押し付ける。幾度と困難を乗り越えようと、その度に、世界は困難を運び来る。困難に立ち向かうことは、とても痛いかもしれない。辛いかもしれない。――だが。それでも人は、困難に立ち向かうことをやめない』
彼は、立ち上がる。とても辛い苦しみから、立ち上がる。
異形となった自分を受け入れることができなかった友人や恋人を、責めることもなく。
ただ、ありのままを受け入れた。
世界のありのままを受け入れた。自分のありのままを受け入れた。
その上で、自分のような犠牲者をもう出さないようにと、大切なものを失う悲しみや苦しみを、別の誰かに味わわせることはしないようにと。彼は、悪と戦う決意をしたのだ。
『人は、困難に立ち向かうことをやめない。それは何故なのか。答えは簡単なことだ。人間は、本能で知っているからなのだ。困難に立ち向かうことを諦めるとは、自ら生を諦めることと同義であると、知っているからなのだ。お前にはまだ腕がある。お前にはまだ足がある。何もできない、というのは単なるお前の言い訳だ。まだ立てるだろう。まだ拳を振えるだろう。故に――』
故に――。
「『諦めるには、まだ早い』」
テレビと同時、鈴は呟いた。
諦めなかったから、鈴は辰人と出会うことができた。辰人と出会えたから、鈴は守ろうと誓った彼女を助けることができた。
だから、鈴は、本当に感謝している。あわよくば、お前になりたいと思うほど、辰人に憧れている。喧嘩は弱いし、運動も得意ではない辰人だけれど。頭がいいから、話すことができる。説得することができる。みんなが幸せになればいいとか思ってるわりに、鈴には喧嘩しかできないから、辰人のように、頭がよくなりたいと思うのだ。
そうしたら、きっと。今よりもたくさんの人を、幸せにできると思うから。
破壊からは憎しみしか生まれない、力は人を狂わせる、などというけれど、本当にその通りだ。鈴は無駄に喧嘩強いから、それが身に染みてよくわかる。喧嘩が強いなんていうのは、ロクなものではない。本当に鈴が欲しかったのは、加虐者を殴るこの拳などではなかったのだから。
ぼーっとそのようなことを考えていると、「こら」と鈴の頭を小突くものがいた。
なんだと思ってそちらを向けば、頬を膨らませた水無月飛鳥が立っていた。
「ああ、飛鳥」
気の抜けた声をかけると、「『ああ』じゃないでしょ、『ああ』じゃ」と眉に皺を寄せる。
「わたしの話、聞いてた?」
「悪い、全く聞いてなかった」
「…………」
無言の圧力をかけて来る飛鳥に圧倒され、鈴が少し身を引いた時に。ふと、飛鳥の背後に小さな動物がいるように見えた。
「どうしたの?」
飛鳥が問いかけて少し身体を動かした時に、ちょうど影になって、その動物は見えなくなる。小さな狐のような動物がいたような気がしたのだが、もう一度飛鳥の後ろを覗いてみると、もう動物はどこにもいなくなっていた。
――まぁ、きっとネコかなにかだろう。
そう思って、鈴は帰り道へ一歩踏み出した。
「帰ろうか」
うんと頷いて、鈴は飛鳥と帰路を共にする。
☆
「あ、おはよっ」
「おう、おはよう」
飛鳥を待とうと玄関を出ると、今日も丁度いいタイミングだったらしく、飛鳥が鈴の家のインターホンを押そうとしているところだった。
「んじゃ、行くか」
二人は、今日も中学校へ向けて歩き出す。
今日は秋には珍しく、雨だった。
最近は晴れ続きだっただけに、雨が懐かしく感じる。
土砂降りだったら流石に「ふざけんな天気」と叫びたくもなるが、小雨程度のものならば、たまにはいいかと思えるから不思議だ。
夏とは違って湿気で苦しむこともないし、強いて言うならまだ温かさが残るために、カタツムリが跋扈するというのが問題点かもしれないが、それも夏に比べれば少ないものだ。
灰色の空から落ちてくる、雨の一滴一滴が、水たまりに落ちていくつもの波紋を作っていた。
「わたしね、雨ってそんなに好きじゃないかったの。けどね、最近好きになってきたんだ」
しとしと。降り注ぐ雨の中に、飛鳥は手を伸ばす。傘の外に手を出したため、彼女の手には、いくつかの雫が落ちた。。
「なんで嫌いだったんだ、雨」
「雨はね、心を曇らせるから。わたしね、結構気分が天気に左右されやすいみたいでね、雨や曇りの日は元気でなかったんだ」
人間の感じる視覚には、大きく分けて冷色と暖色がある。前者が、青や緑など、冷たいものを連想させる色。後者は、赤や黄色など、暖かいものを連想させる色。これらの色の視覚効果は実際に存在するらしく、落ち着きたい時などは冷色、盛り上がりたい時には暖色を見るといいと聞く。
もしかしたら、飛鳥にはそういう視覚的効果を感じる力が人一倍強いのかもしれない。
「そうか。なら、どうして雨が好きになったんだろうな」
「……それはね、きっと、晴れることを知っているから。今は暗くても、いつか綺麗な空が見えるから。……かな」
なんか詩人みたいな言い方になっちゃったけど、そんな感じ。
照れながら、飛鳥ははにかんだ。
「やまない雨はない、ってやつか。俺も好きだな、そういう考え方は」
自分は、誰かの幸せが好きだから。
止まない雨はない。その考え方は、「今は不幸でも、いつかきっと幸せになれる」その考えに裏付けをくれる気がする。なら、鈴にもいつか、雨が好きになる日が来るのかもしれない。
「なんかいいよね。今は辛くても、いつかは幸せになれるよーって、言われてるみたいで」
「俺も今、似たようなこと考えてた」
「そのうち鈴くんも雨好きになるね、これは」
「……どうだろう」
含むように笑ってみると、素直じゃないなぁと飛鳥は笑う。
「雨も悪くないけどさ、俺は夜が好きだな」
「どうして、夜?」
少し不安がる顔を向けた飛鳥を見て、そういえば飛鳥は夜が苦手だったなと苦笑する。
「ちょっと、なんで笑うの」
「いや、昔の飛鳥を思い出してな。お前、ほんっと夜が苦手だったもんな」
「ち、違う! 夜じゃなくて、暗いとこが苦手なだけで……」
「似たようなもんだろう。ま、いいや。……夜もさ、いつかは明けるよな。だから多分、飛鳥が雨を好きなのと同じだよ」
「明けない夜はない、ってこと?」
「そうそう。困難が押し寄せるけど、その困難は絶対に突破できるから、的な」
「なんかそれ、鈴くん好きそう」
「だから好きなんだって」
「そうでした」
悪戯に笑う飛鳥は、「じゃあ」と空を見上げた。
「いつかわたしも、夜が好きになる日が来るのかも」
「ああ、きっと好きになる。雨とは違って、空には月とか星とか、夜にしか見えないものだってあるからな」
「……星、かぁ」
「星空はさ、綺麗だと思う。ロマンに溢れてると思う。俺は別段天文とか詳しくないし、星だってたまに見上げる程度だけどさ。……あ、でもオリオン座ぐらいならわかるぞ」
「オリオン座は誰にでもわかるから」
真顔で言われた。
「なぁ、飛鳥。いつか、どこかに星空を見に行くか」
「それはいわゆる、おデートのお誘いかな?」
「辰人も連れて」
「……残念かも」
細めた目で睨まれた。
「じゃあ、二人で」
「かなり嬉しいかも」
ぱあっと可憐な笑顔を咲かせた飛鳥は、その顔を空へと向ける。
心なしか、その顔は悲しげに見えた。
「あのさ、鈴くん。突拍子もない話していいかな」
「なんだ、この雨って実は、埃を空気中の水分が包んだだけなんだよ、って話か」
「夢がない。赤点、不合格」
「雪って実は、埃を包んだ空気中の水分が凍っただけなんだよ、って話か」
「わたしの夢を壊しました。マイナス百点、補修決定です」
「いやいや、この間の授業で理科の前川先生が言ってたろ」
「聞かなかったことにしてた、わたしの純情を返して」
「一体、どう返せと……」
「まったく。鈴くんが話題そらすせいで、わたしが話すタイミングを見失なった」
むーっと頬を膨らませた飛鳥の片頬を、鈴は人差し指でもにゅっと押した。
ぷひゅっと空気が抜けて縮んだけれど、飛鳥は再び頬を膨らませる。
「そんな顔してると、せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」
「え?」
一瞬目を丸くした飛鳥は、顔を鈴に寄せて問いかける。
「わたしって、鈴くんから見て可愛いの?」
「な……」
突然そんなことを聞いてくるものだから、思わず鈴は顔を赤くした。顔が熱い、目をいつものように直視できない。思わず、目をそらす。
「……いや、普通じゃね」
「ホントに~?」
自分の傘から鈴の傘の中に、ニヤニヤしながら顔を寄せてくる飛鳥を押し戻す。
「うざい」
「……ショック。泣きそうかも」
「知らん」
「……悲しい。大声で叫びそうかも」
「勝手にしろ」
「この人、無理やり触ってきましたーって」
「さて、いくらで許してもらえるのかな。おじさん、今お金そんなに持ってないよ」
財布を取り出して、お札を確認する。
鈴は貯金箱を持っていないから、この財布にまとめて貯めてきた小遣いが入っている。
「どれどれ、おねーさんが確認してあげましょう――って、全然お金入ってるじゃないですか時神のおじさん」
現金にして二万円ぐらい入っていた。
「やっぱ、現金はなしの方向で」
もっとも、元から払う気など、ほんの少しもなかったが。
さっさと財布をしまって、鈴は傘を持ち直した。
「そんなことより、飛鳥はさっき何を言おうとしてたんだよ」
「……誤魔化した」
「今度、お前の新作料理食べに行ってやるから許してくれよ」
「食べさせてあげてるの、わたしだよね。条件にもならないよねそれ。しかも上から目線」
「俺はお前の実験動物にされてあげてるんだぞ、感謝しろよ」
「出来たら食べさせろとか言ってくるくせに」
「それは、お前が新作食べてくれなきゃやんやん、ってオーラ出してるからだ」
「わたし、やんやんとか言ってないもん」
「やんやんっていう女の子、俺は可愛いと思うんだよね。やんやんってやられたら、俺、多分その子に惚れちゃうと思うんだよね」
「けふけふ、こほん。……やんやん♪」
「うわ、マジでやりやがった。やんやんとかやる女、ぶっちゃけドン引きだわ」
「うん、鈴くん。ちょっと耳貸して欲しいかな」
「俺の耳を福耳にするつもりだろ、これ以上伸ばさなくていいぞ。今のままで十分だから」
「ううん、引っ張って伸ばすんじゃなくて、引きちぎって不幸耳にするつもりだから大丈夫かな」
「なお嫌だわ!『大丈夫』の要素がどこにもないわ!」
「なんか、どんどんわたしが話を切り出しにくくなってるんだけど、キレていいかな」
「そんなんでキレるから、現代の若者は短気だって言われんだよ」
「短気な若者の比率を増やすために貢献してます」
「そんな貢献やめちまえよ。むしろ若者やめちまえよ」
「んん? 綺麗なおねーさんになれってことかな? 鈴くんはわたしの将来に期待しているのかな?」
「どう解釈したらそうなるのかわかんねぇけどさ、さっき俺、お前が話しやすい空気を作るのに貢献したよね。お前が自分で空気台無しにしてるよね」
「……だって、なんか恥ずかしいから」
「やんやんとかやっといて、よく言うよ」
「アレは鈴くんがやらせたんだもん」
「あー、はいはい。もうそれでいいから、さっさと話進めて」
観念したのか、一度黙り込んだ飛鳥は、静かに口を開いた。
「鈴くんはさ、宇宙人っていると思う?」
真顔で聞かれた。
いや。いやいや、いやいやいや。どうしたんですか飛鳥さん。あなた様、なんか新手のオカルトだか宗教だかにでもハマったんですか大丈夫なんですか。
思わずそう言いたくなった鈴だったが、すんでのところで抑えて、
「あー、うん。もしかしたらいるかもしれないな」
と言った。
「心の中で、何言ってんだコイツって思ったでしょ」
「……思ってない」
「絶対嘘だ」
「そんなことはいいんだよ」
「よくないんだけど。わたしの名誉に関わるよ」
「お前の名誉とかマジどうでもいいから、話続けろよ」
むっとした飛鳥だが、結局話が逸れてて言いたいことを言えなくなると思ったのだろう。しぶしぶ話を続ける。
「この世界にはね、人間にはわからないことがいっぱいある」
今日は、真面目な話をしたくなったのだろうか。勉強は得意でも、科学的なことは苦手な飛鳥らしくない話だな、と思ったが、確かにその通りだとは思う。
「わたしたちが生きてきた十数年、そしてこの先の何十年。一体、この宇宙のどれほどのモノを見ることができるんだろうね」
「さぁな。俺たちが大人になった時、俺らは外国に行く感覚で宇宙に行けるようになってるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。未来のことは解らんさ」
「もし、そうなら。もし、宇宙に行けるなら、鈴くんは宇宙に行きたいと思う?」
「……そうだな、行ってみたいと思うよ」
「そっか」
宇宙には、不思議が満ちている。
鈴は宇宙人だの地球外生命体だのといった存在を信じてはいないが、それでも、人類がまだ知らない何かが、宇宙にはあると思う。人間の知らない真実が、宇宙には隠されていると思う。
地球外から飛来する隕石から、まれに地球では手に入らない金属が付着していることもあると聞くし、星と同じ数だけ、宇宙には神秘があると思う。それが人にとって悪いモノかもしれないけれど、宇宙物理学とかいう学問だってあるし、きっと、何かがある。
「わたしは、怖いな」
飛鳥にとって、暗い場所は、恐怖だった。見えないところから、大切なものを奪っていく悪魔の手が、どこかに潜んでいるように感じてしまうから。けれど鈴は、飛鳥の心の奥にある傷の存在を、まだ知らない。
だから問う。
「どうして怖いんだ」
「宇宙ってずっと暗いし、朝とか来ないじゃない。でも、どこまでも広がってるから、広すぎて、隣にいる誰かも遠くに行っちゃうと思うの。人は、広い自分の空間が好きだから」
だから、人は大きな家に憧れる。大きな土地に憧れる。一人では生きられないくせに、人間というものは他人との距離を求めてしまう。それこそ、ハリネズミのジレンマを恐れるように。
「だからね、とても怖くなる。わたしを置いて、隣の人はもう別の所にいるかもしれない。なにかが起きて、次の日にはいなくなっているかもしれない。誰かの家に入るのは怖いけど、周りに誰もいなくなるのは、もっと怖いよ」
切なげに、曇り空を見る彼女の目。それは、かつて部屋から出ることができなかった時のものと、似ているものだった。
どうにか、この空と同様、曇った表情を明るくしてやりたいなと思った鈴は、あれこれと考えて、頭をポリポリと掻いて、散々悩んだ後、「なら、」と口を開いた。
「――なら、一緒に居ればいい」
人は、一人では生きられないから。
人という文字は、誰かが誰かを支えている図を文字にしたものだと聞いたことがある。もし一人が怖いなら、その誰かに支えてもらえばいい。
「お前が望むなら、俺は隣にいてやるよ。同じ家にいてやるよ」
そうすれば、一人ではなくなると思うから。そうすれば、寂しくなんてならないと思うから。彼女に笑って欲しくて、鈴はそう言った。
「本当に、どこへも行かないでくれる?」
縋るように、今にも泣きだしそうな顔で、飛鳥は言った。
どうしてかはわからないけれど、彼女は奪われたのかもしれないと思った。変な言い方になるけれど、宇宙に、何かを奪われたのかもしれないと思った。
「パパみたいに、わたしを残して、どこかへ行かないでくれる?」
そういうことかと、鈴は思った。
彼女の父親は、もう何年も前に亡くなった。また、父親が亡くなったその瞬間を飛鳥は目撃したらしく、その時のトラウマが暗所恐怖症ともいえる傷を飛鳥に残したのだとも、飛鳥の母親である波姫が教えてくれた。
父親がいなくなった時の彼女を見るには耐えがたいものがあって、いたたまれなくなって、鈴も思わず目をそらすほどだった。その時、鈴はこれ以上彼女を悲しませたくないと思った。笑顔にしたいと思った。助けたいと、思った。
だから自分は、きっとここに居る。
彼女の隣で、笑っている。
自分の幸せのために。なにより、彼女の笑顔を見るために。
「……善処しよう。もしかしたら俺は、お前の先を走ってるかもしれないけどな」
どうにも照れくさくなって、目を逸らしながら、鈴はそう言った。
「鈴くんも、いつかはどこかに行っちゃうってこと?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにせよ……」
父親の死を、水無月飛鳥は乗り越えた。
苛めという問題を、水無月飛鳥は乗り越えた。
鈴がもし飛鳥と同じ境遇にあったら、おそらく、どこかで潰れているだろう。父親がいないのは、寂しい。友達がいないのも、味方がいないのも、とても辛いことだから。
だけど飛鳥は、孤独を乗り越える強さを持っていた。それはきっと、誰にも負けない飛鳥の凄いところであると、鈴はよく知っているから。
「どちらにせよ俺は、お前を待ってる。強くなって、俺の隣に追いつくお前を待ってるよ」
心から、そう言った。
お前なら、絶対に乗り越えることができると。隣に追いつくことが、できると。
「じゃあ、追いつくから。絶対隣に追いつくから、待っててね」
「おいおい、別に俺が先にいるって決まったわけじゃないだろ。お前のが頭いいんだから、お前のが俺より先にいるかもよ」
「それはないかな」
「なんで言い切れるんだよ」
「鈴くんはね、わたしの憧れだから」
水無月飛鳥に比べると、時神鈴こそ、大した人間ではないと鈴は思っている。鈴はただ、正義の味方が好きで、自分勝手な正義を認めてもらいたくて、人助けをしているだけだ。
「お前こそ、俺の憧れだよ」
飛鳥は、心の奥底に、本当に強い『芯』と呼べるものを持っているから。
もっとも、辰人が一番の憧れであるから、飛鳥は二人目ではあるが。
「またまた、ご冗談を。わたしのどこがいいのかわからないよ」
「お前は、向かうと決めたところに向かって努力ができる。人の期待を、背負うことができる。どこまでも強くなれると、俺は思うよ」
「……鈴くん、嬉しいけど、それは買いかぶりすぎかな。わたし、そんな大した人間じゃないよ。よわよわだよ、もう脆弱貧弱メンタルなんだよ」
「お前こそ、俺を聖人君子かなんかみたいに思ってるだろ」
「鈴くんはね、わたしの恩人で、正義の味方なんだよ。わたし程度じゃ何をしても適わない、完全無欠の人。これは揺るぎませんね」
「完全無欠で揺るがないのか。それ多分、テストになったらマグニチュード一〇〇でグラグラ揺れまくって日本沈没だ」
「そうしたら、わたしが支えるよ」
「……お手柔らかに、な」
「それは鈴くんのやる気次第かな。……あ」
不意に、飛鳥が傘を上げて空を見た。
鈴も連なるように、空を見る。そこには、太陽が雲の隙間から顔を覗かせていた。
「雨、止んだね」
「……そうだな」
傘を畳んで、鈴と飛鳥は学生通りへと出た。そこには多くの生徒たちが各々の学び舎に向かおうとしているところで、また、多くの生徒たちが、まだ知らない各々の未来へと歩もうとしているところでもあった。
「あのさ、飛鳥。もしお前が俺の先にいるのなら、俺は必ず追いつくよ。追いついて、お前に並べるようになる。そんで、今度はお前の先に進む」
今は遠い、飛鳥と辰人の立っているその場所。鈴が尊敬する彼らは、遥か先にいるけれど、鈴はきっとそこにたどり着くと誓う。
彼らを守れるように、彼らと一緒にいても、恥ずかしくない自分になれるように。
「なにそれ。わたしじゃ簡単に抜かされて、置いてきぼりにされそうなんですけど」
「なら、今度はお前が追いついて、俺の横に並べばいい」
雨が降っても、いつか晴れ空が広がるように。夜になっても、いつかは朝が来るように。
例え暗闇が待ち受けていても、その先には、きっと幸福な日々が待っている。だから人は、どこまでも遠くへ進んでいける。
それはきっと、一人じゃないからだ。
飛鳥。そして辰人。彼らがいる限り、時神鈴は、どこまでも進んでいけるんだ。