衣の目に映る凶星
その日は、晴れていた。
どこまでも続く青い空。
自由気ままに空を漂う白い雲。
空を見ると、雲の比率は二割未満で、いわゆる快晴と呼ばれるその日は此処、高天原を美しい日の光で照らしていた。
朝、いつものように飛鳥と登校、なんとなく授業を受けて、学校の後には衣と組み手。いつも通り。いつも通りであるのに、時神鈴は落ち着かない。
それはきっと、クラスメイトから聞いた奇妙な噂のせいだ。
『風間の幽霊が、この学校を徘徊してるって噂だよ』
佐々木の声が、耳に蘇る。
辰人は死んだ。俺の目の前で、俺を庇って死んだ。巨大な化け物の口に呑み込まれた。バリバリと骨が砕ける音を聞いた。だから、生きているハズがないんだ。
生きているハズがない。けれどそう思う反面、実は生きていたという淡い期待を抱かずにはいられない。
なぜなら鈴にとっての風間辰人は特別な存在だから。己を捨ててでも大切にしたいと思う、半身だから。鈴は辰人の肉体で、辰人は鈴の頭脳だ。誰より尊敬し、信頼し、共に飛鳥を守るという誓いを立てた、唯一無二の親友だ。
いつまでも、一緒に年を取れると思っていた存在だ。
「生きてたのかよ、お前は……」
それとも、もう死んでしまったのか。死んで、また蘇ったのか。――であるなら、なんのために、どうやって蘇ったんだ。
わからない。だから俺がどうするべきなのか、まるで、わからない。
もし辰人を見かけたら、どうするのか。自分の夢が叶うと喜べばいいのか、それとも、既に偽物だからと戦うのか……。
答えの出ない問いかけに、鈴はいつまでも答えが出せない。当然のことだと思いつつも、自問自答を止められない。
「いい加減にしろ。これが本番であれば、お前何度死んだと思っている。」
思考の最中、強烈な打撃が腹部を直撃し、鈴は後方へ吹き飛び倒れこんだ。
けれど起き上がるような気になれず、そのまま灰色の空を見つめる。
ここは高天原中学校のグラウンド。いつものように衣が結界を構築し、他の総てを排斥し、鈴のみを隔離した特殊空間。他の誰にも見られることはなく、この世界でいくら破壊を行ったところで現実の学校には何の影響を及ぼさない。
だからこそ、互いに本気でぶつかったところで問題はない。
「……はぁ」
腹部が痛むなぁとなんとなく空を見上げているうち、鈴の遥か遠くへ広がっている空の横から、にょきりと幼い顔が怒り顔で現れた。
「おい、鈴。お前不真面目なのもいい加減にしろ。衣に稽古を頼んだのはお前だぞ。」
自分で頼んだんだから、ちゃんと責任を取るのが道理だぞ。
衣が睨みを効かせても、鈴は「そうだな」と淡白な答えしか返さない。
ぷっくりと顔を膨らませて怒った衣は、羽衣に水を吸い込ませたのか、鈴の頭の上で羽衣を捻じって水を降らせた。
「ぶふぁっ!何すんだお前!」
季節はもう夏ではなく、秋だ。まだ寒くはないとはいえ、びしょ濡れになって帰ったら風邪を引いてしまう。
「それはこっちのセリフだ戯け。」
水をかけられて思わず起き上がった鈴に、今度は衣のビンタが飛んでくる。
「お前はいつまで一人で悩んでる。一人で解決できないなら、頼れと言ったぞ。」
「それは……すまん。けどそんなつもりは……」
そういうわけではないけれど、確かに、辰人の事だから自分の手で解決しなければ、と思っていた自分も存在していたのかもしれない。
「そういうわけじゃないなら、どうして話さない。」
「整理できてないんだよ。俺にも、何が起きたのかサッパリなんだ」
「……まぁいい。今日は此処までにしておこう。明日までには、悩みを振り払っておけ。もう時間はない。おそらくアレが動き出す。」
「……アレ?何のことだ」
「なんだ、誰からも聞いていないのか。最低最悪のキチガイの事だぞ。人の不幸を何より至高とする、化け物だ。それが現在、この地球に存在している。」
人の不幸をなにより至高とする化け物?
なんのことか、鈴にはいまいちわからない。
「もしかして、それが今迫ってる危機ってやつなのか?」
「そうだぞ。かつてこの地球に降り立ったタタリ神――吽禍。それが、アレの名だ。」
まるで汚らわしいものを吐き捨てるかのように、衣が言った。感情表現が豊かな彼女だが、吽禍という名を口にした時ほど不快感を醸し出したことは断じてなかった。
その吽禍という存在、衣にとっては相当気に食わない存在らしい。見たことも聞いたこともない存在であるため、鈴にはどのような存在なのか理解できないが、しかし相当イカレたヤツだということは理解できた。
人の不幸を至高とする。まるで、自分の反対側に位置しているようだ。
「とにかく、今日は此処までだ。気分が悪い、衣は帰る。」
「大丈夫か?どうした、どこか痛むのか?」
「大丈夫だ、どこも痛まないぞ。」
強いて言うのなら、痛むのは、心。
衣は、あの暴食の崇りを許さない。かつて存在していた幸福な日々、その総てを奪ったアレを、衣は許さない。
――もう二度と失いたくない。わたしに欲しいのは帰る場所。追い出され、帰る場所も行く当てがなくなるのも、もう嫌だ。この衣も、この裳も、今更手にしたところでもう遅い。だからどうか、わたしに帰る場所を与えてください。その場所は誰にも犯させない。穢れ一つ持ち込ませない。わたしが必ず守るから――
もう、二度と失わない。もう二度と奪わせない。貴様を倒すためならば、例えこの魂を同じ外道へと変えることも厭わない。
しかし、己は吽禍との直接戦闘を桜花と共に嚆矢から封じられている。故に、衣が己の力を託すのは、目の前に立つ少年だ。彼の断罪の一矢ならば、おそらく吽禍を断てる。
吽禍はその特性上、心を喰らうことが可能である。それ故、対峙した相手の心をまず喰らう。心を喰われるということは、思考を喰われるということ。そうなっては誰が敵なのか、誰と戦うべきなのかが判断できなくなり、最悪、吽禍の最も好む仲間同士の殺し合いという状況に陥る。
そのために、吽禍と対峙できるのはただ一人。対複数では逆に不利になる可能性が高いため、吽禍を倒すための最善の策は最強の一人を送り込むことである。
しかしだ。衣が本領を発揮するには桜花がいなければならず、また桜花も衣がいなければその真の力を発揮することはできない。そのため、天児最強と謳われる彼女らでは吽禍との戦いは向いていない。
かといってハワードやオーガストも同じく二人で組んでこそのあの強さ。故に単体では勝負にならないし、回避がウリのオーガストでさえも、無敵の壁を易々と突破されて瞬殺されかねない。
アーヴァンに至っては、其の業と能力からここぞという場面でこそ役に立たないために意味がない。『俺を置いて先に行け』というのは、俗にいう死亡への布石になるが、彼の場合はむしろそれこそが勝利宣言に等しい。最高の脇役という舞台を用意すれば無敵の力を発揮するがしかし、主役という配役では、彼はまるで役に立たないのだ。
飛鳥は対複数にも対単数にも対応できる能力を持っているがしかし、その願いは“恩を返したい”である。最強のサポートではあるものの、直接戦闘――しかも一対一になると、その願いの強い発動は難しい。
結果、現状吽禍を打倒できる可能性を秘めるのは、心を喰われるよりも早く倒せる、かつ、強力な一撃必殺を有する時神鈴に限られてしまうのだ。
故に、衣は鈴を鍛えた。
頼む、あの悪魔を倒して欲しい。己は仇を打つことが出来ないから、代わりに総てを、お前に託したい。
夜明けの象徴、希望の光。明星の輝きを胸に秘めた少年に、衣は賭けるしかない。
「それではな、鈴。今日はしっかり休め。」
それだけいって、衣は姿を消し、結界を解いた。




