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龍神兄弟

ぶっちゃけ退屈かもしれませんが、彼らの平穏な日々を見守ってやってください。これが私たちの生きる日常。つまらないと感じるかもしれないけれど、確かに存在している幸福な日々。彼らにとって、いつまでも続けばいいと思う、くだらないけれど大切な時間なのです。

 どこまでも続く青い空。

 自由気ままに空を漂う白い雲。

 空を見ると、雲の比率は二割未満で、いわゆる快晴と呼ばれるその日も変わらず、太陽は此処、高天原(たかまがはら)を美しい日の光で照らしていた。

 輝く太陽のあまりの眩しさに、一瞬とはいえ、自動ドアを通ることを憚ってしまう。

 もう夏休みは終わりを迎えるであろうこの時期だ。時刻はちょうど昼時。夏休みは終わると言っても、まだまだ夏は終わる気配がない。やはり厄介なのは、強い日差しに加え、嫌がらせとしか思えないこの快晴である。いっそ雨でも降ってくれと思わなくはないが、そうなったらそれはそれで後日が蒸し暑い。どちらに転んでも最悪だ。

 今日の高天原では最高気温が四〇度近くまで上るらしく、しかも今日は今年の最高気温を叩き出すと来ている。たまったものではない。

 誰もが暑い暑いと団扇やら扇子やらで己を仰いでいる道の中に、

「ありがとうございましたーっ」

 可憐な笑顔を向けてくるアルバイトであろう若い女店員に背を向けて、逃げるように自動ドアをくぐり、小太りした一人の少年――高校生だろうか――が周りの様子を伺いながら書店の外へ出た。

「……あついなぁ」

 暑さから、だろうか。額に流れる汗をぬぐった彼は、にへらっと空に気味の悪い笑みを向ける。

 いやはや、いい天気だ。実にいい天気だ。こんなにもいい天気なら、神様だってきっと眩しいに違いない。眩しくて、何も見えなかったに違いない。

「でゅふふ……」

 己の背負ったリュックサックに一瞬目を向けて、彼は成功したと確信する。

 ああ、大丈夫だ、今回も見つかってはいない。さて、あとはこの場を離れるだけだ。

 緊張に痛むこの腹部が、いつものように心地よい。

 ああ全く、このスリルが堪らない。ほんの数年前の自分であれば、「賭け事のスリルはたまらねぇぜ」などとほざいていた不良の言葉など、欠片も理解はできなかった。しかし今の自分から言わせてみれば、スリルのない日常などつまらない。リスクを負って、そのリスクに見合うだけの報酬を手に入れた時、我々人間は初めて生の実感を得ることができると思うのだ。

 どこかのアニメでも言っていた。デメリットなくしてメリットなし。まさにその通りだ。危険なくしてメリットは得られない。例えそれがどんな小さなリスクであったとしても。

 今回もそのリスクを回避し、メリットを得たことに満足した彼は、粘ついた笑みを浮かべて汗を拭った。

 暑さから来るものとは別の汗を、首にかけたタオルで、達成感に浸りながら彼は拭った。

 その時だった。

「あの、すみません」

 声と共に、何者かが彼の肩に手を置いた。

「エェ?」

 びくりと跳ね上がった彼は、リュックサックの肩にかける部分――肩ベルトを、ぎゅっとを握りしめた。まるでさびれた機械のようにぎこちない動きでゆっくりと振り返り、肩に手を置いた相手を見ると、ホッと安堵の一息をつく。

 彼に声をかけてきたのは、一人の少年だった。

 身長は一六〇前後といったところか。その服装は、近所にある高天原中学校の制服だ。つまりは、彼の後輩。何年か離れた年下の相手ということだ。

 声をかけてきたのが年下であることに安心した彼は、握った肩ベルトを握る手を緩めた。

「ど、どうしたんだい?」

 極めて平静を装ったつもりだったが、コミュニケーションが苦手な彼は、年下相手とはいえ初対面の相手に緊張しているようだった。――もしか、別に意味で緊張していたのかもしれない。

 その声は、彼が意図しないところで上擦っていた。

「いえ、ひとつだけ聞きたいことがあるんです」

 笑顔を見せる少年の表情は、とても人懐っこい。

 パッと見たところ運動神経はよさそうで、サッカーだとかバスケだとかの部活に所属していそうだった。もっとも、ボールもユニフォームも持っていないのだから、ただの推測ではあるけれど。

 基本的には、運動部にいい印象を抱かない彼だったが、この少年には、不思議と悪い印象は抱かなかった。

 道にでも迷ったのだろうか。だったら、教えてあげよう。人付き合いが苦手な彼ですらそう思ったのだから、彼の笑顔は相当に純粋なモノだったのだろう。

 会うのは初めてであるハズなのに、どこか好感が持てる。八方美人とはまた違う、人から好かれる何か――才能ともいえるものを、目の前の彼は持っていた。こういう子が、クラスの人気者になるんだろなぁなどと、常にクラスの隅で一人過ごしている彼は思いながら、自分が彼のように育ったら、今とは違う生活をしていたのかもしれないと同時に思う。

 ――それだけに。

「一応この目で確認したんですが、念のために本人の口からも確かめたくて」

 それだけに、突如少年の視線が鋭く尖ったことに驚きを隠せず、その言葉が胸に深く突き刺さる。

「あなた、万引きしましたよね?」

「――――ッ!」

 視界が凍った。頭が、真っ白になった。

 何を考えていたのだったか、自分は。考えても考えても、思い出せない。思考が停止していた。しかし、一つだけわかることがある。マズイ。この状況は、非常にマズイ。

 逃げなければ。そう判断した彼は、肩ベルトを強く握り締めて全力疾走を開始した。

「逃がさねぇよ!」

 彼が走り出すと同時、少年もまた疾走を開始する。

 ちらほらと歩いている通行人に肩をぶつけながら走る彼とは対照的に、的確に通行人を避けて追ってくる少年。

 速い。明らかに彼よりも少年の方が速い。持久走などでは毎回クラスで下から数えた方が早い彼が、パッと見ただけで運動系だとわかる少年と駆け比べをして勝てるものだろうか。

 ――否、勝てるわけがないだろう。

 彼は真っ先にその結論を叩き出した。

 だいたい、なんだあの速度は。陸上部の練習を何度か脇目で見ていたことがあるが、それと比べても同等かそれに勝るほどの速度だ。高校生よりも速く走る中学生など、聞いたことが――。

 そこまで考えた時、彼の中で一つの答えが示された。

 この高天原第一地区には、その名を知らぬものはいないと言わしめるほど有名なコンビがある。龍神兄弟、という二人組だ。

 片や、神童とまで謳われた天才、リュウ。片や、喧嘩に於いては右に出るモノはいないと言われるほどの運動神経を持つ無敗の男、ジン。本名かどうかは知らないが、おそらくは龍神兄弟の龍神……リュウジンという部位から取ってつけられたのだろう。喧嘩が得意ならジンではなくリュウの名が妥当なんじゃないか、と唱える者たちもいるが、なぜか今の呼び方が定着している。

 そんなことは今はどうでもいいとして、だ。

 もしかしたら、今ここに居るのが抜群の運動神経を誇るというジンなのではなかろうか。

 いや待て、しかし喧嘩で無敗と聞くジンは、その二つ名の通り無敗だ。高校内でガラの悪い連中の仲間が龍神兄弟に捕まったと噂で聞くし、一説によっては暴力団だか暴走族だかが関係した事件をも解決したと聞く。自分より年下の、それもこんな好青年ならぬ好少年が、暴力団絡みの事件を解決?ふざけろ、できるわけがない。

 考えるも、どちらにせよここで捕まったらすべて終わりだ。今は考えるよりも、後ろに迫る少年との距離を離さなければならないだろう。

 息を荒げながら、彼は走る。途中鞄を放置して逃げようかと思ったが、鞄の中には財布がある。レジを通していない盗んだ本という物的証拠に加え、身分の証明までされようものなら、自分は言い逃れができない。

「ふっ、ふっ、ふぅっ!」

 慣れない運動という行為に彼の肺は既にはち切れそうになっていたが、構っている暇はない。とにかく逃げる。その意志だけが、彼の体力とは関係ないところで彼の肉体を突き動かす。

 運動が苦手な彼だが、万引き自体は初めてではなかった。確かに今まで見つからずに万引きを成功させてきたわけだが、それでも万引きを始めてしばらくの間は、極めて周到な準備をしていたものだ。その頃に定めたうちの一つが、逃走経路。

 どの道ならば捕まらないか。彼なりに考えていたところ、今の時間ならばとレストラン街に走った。この書店からレストラン街まではそこまで距離は離れていない。

 高天原駅北口から右に出れば、先の書店や、多くの商店の立ち並ぶ商店街。左に出れば、多くの飲食店が立ち並ぶレストラン街が存在するのだ。

 なによりこの昼時ならば、レストラン街に逃げるのがベストだと考えたためである。

 彼がレストラン街へ到着すると、やはり多くの人に溢れていた。この高天原という街は都会というほどではないが、この駅の周辺に至ってのみ都会並みの人数が跋扈する。

 木の葉を隠すならば森に。彼は迷わず人だかりの中に突っ込んだ。

 歩く通行人たちを押しのける際、少年が自分のすぐ後ろに迫っているのを見た彼だったが、今更追いついたところで遅い。

 人ごみをかき分けて逃げていく彼の背を追うものは、もういなかった。



「はっ、はっ、はっ……」

 ぜえぜえと息を荒げながら、人気のないレストラン街の隅まで走ってきた彼は、思わず地面に腰を下ろした。

 周りに通行人はおらず、いるとしても仕事をサボっているセールスマンがたまにタバコを吹かしているぐらいか。

「はぁあーーーーっ」

 大きなため息をついた彼は、ぐったりと項垂れる。

 こんなことならば、もっと周到な準備をしておけばよかったと後悔する。油断は禁物とはよく言うが、まさか自分がこんな目にあって実感するなど考えてもみなかった。

 もう、あの書店にはいかない方がいいかなぁなどと思っていた時、声が聞えた。

「なぁ、だから言ったろうが。人の多い場所で無理に捕まえようとしなくても、最後にはどうせ人気のないところに行くんだよ」

「あー、はいはい。お前が正しかったね、頭脳じゃ俺に勝ち目ないね」

 現れたのは、二人の少年。

 そのうちの一人は、先ほどの人懐っこい少年だ。

 もう一人は見たことがないが、やはり制服を纏った中学生。メガネをかけていて、身長は一六〇ほどの、いかにも学年主席という印象を受ける少年だった。

 彼は二人から逃げようと、悲鳴を上げる身体を酷使しようとするが、筋肉が痙攣し、疲れ果てていた。自分の身体なのに、思うように動かない。

「ほら、だからこれも言ったろ。ある程度走らせた方が、俺らが捕まえる時も楽なんだよ」

「……あー、なんだ。やっぱ敵わねぇよ、お前には」

「得意分野が違うだけだ、気にすんなよ。それより、こっからはお前の領分だろう」

 勝手に話を進める二人を無視して彼は逃げようとするが、「止めておけ」とメガネの少年が言った。

「今のアンタには、携帯をちょっくら改造した発信機が取り付けてある。発信機を外そうとすりゃあ、さっきアンタを追いかけてたコイツが動くし、外さずに逃げても場所は解る。ちなみに、しっかり探さないと発信機は見つからない。今は逃げて、発信機だけ後で外そうとしたって無駄だ。必ず追いつめる」

 一体、なんなんだこの少年たちはと、彼は思う。

 どう見ても年下なのに、いくら足掻いても彼らの手のひらから逃れられる気がしない。それは此方が一人で、少年たちが二人だからとか、それほど簡単な足し引き算ではない。

 喧嘩では負けなしの少年、ジン。並ならぬ頭脳を持つリュウ。片方が片方を高め、互いの長所を生かしあう――。

 もしやこの二人は、と。彼は叫んだ。

「なんなんだ、お前たちは!」

 問わずには、居られなかった。

「ん、俺たちを知らないのか」

「なんだ、案外知られてないものだな」

 なんでもないことのように、声をそろえて彼らは言った。

 ――俺たちは、龍神兄弟だ。



「いやー、本当に助かったわぁ。君たちのお陰で万引き犯を捕まえられたもの」

 眠たげに瞼を半分ほど閉じた女性が、ぼーっと二人の少年を交互に見つめながら言った。

「気にしないでください、やりたくてやっていることなので。また何かあったら呼んでくださいね、駆けつけますから」

「それは助かるわぁ。こないだ雇った万引きGメン、まるで役に立たなくてねぇ」

 あの給料泥棒、速攻首にしてやったわぁ。

 頬をふくらませた彼女――書店の女店長は、目の前にいる二人の少年に改めて礼を言った。

「ありがとぉ、また次があったら是非頼むわ。ただぁ……あたしから頼んでおいてあれなんだけどねぇ、くれぐれも無茶はしないようにね?」

 さながら危険な遊びを始めた子供を見守るような目を向けた女店長に、少年は「心配無用ですよ」と胸を張る。

「俺ら龍神兄弟に出来ないことはありませんから!なぁ」

「あぁ。コイツの頭と、俺の拳。これさえありゃ、なんでもできますよ!」


 ――龍神兄弟。

 この高天原第一地区において、その名を知らぬ者は少ないだろう。

 龍神兄弟というのは、風間辰人(かざまたつひと)時神鈴(ときがみれい)によるコンビ名だ。風間辰人の辰――すなわち『龍』と、時神鈴の『神』の2文字をとってつけた名である。

 多くの知識を持ち、頭の回る辰人と、喧嘩にかけては右に出るもののいない時神鈴。かつて一つの虐め問題を解決した彼らは、他に自分たちにできる人助けはないかと考えた末、ある考えに思い至った。

 この街、高天原には実に多くの事件が起こる。

 万引き、誘拐、傷害に、殺人――これらの事件を一つでも抑える抑止力になればと、二人は街の小さな正義の味方となることを決心したのだ。

 結果。犯罪の抑止力になれているかは、街の犯罪統計などを見たこともないので知るよしもないが、それでも多くの人々に感謝されるようになった。

 ただ、人の役に立てることが嬉しくて。自分たちにできる何かがあることが嬉しくて。次第に、龍神兄弟として街の小さな事件を解決することが彼らの日常となっていった。

 事実、龍神兄弟は無敵のコンビだった。未だ中学生であったとはいえ、鈴の喧嘩の強さはデタラメだ。同じく辰人の頭脳も飛び抜けており、状況を見極めた判断力で鈴に指示を与え、相手を逃がさないまま、鈴に危機を与えないまま、今の今までやってきていた。


 ――が。

 礼儀正しく去って行った二人の少年の背を眺めて、女店長は呟いた。

「君らがやってること、親御さんは知っているのかしら。もし知らないのなら、やっぱりあたしたち大人が止めるべきよねぇ」

 確かに、彼らが行っていることは正義だし、紛れもない善意があることもわかる。けれど、それだけでは今の世の中は救えない。

 悲しい話ではあるが、悪意というものは、いつどこで、何がきっかけで向けられるモノかわからない。己の邪魔をする者にはことごとく敵意を向ける者だっている。

 だからこそ、彼らのような子供には危険なのだ。正義の味方という勲章は。


      ☆

 

 ちゅんちゅんと雀が鳴き、昇った太陽が朝になったことを告げる。

 朝のニュースを目覚まし代わりに、少年は起き上がった。


『愛知県、高天原第四地区の住宅街で、明晩一時ごろに殺傷事件が発生しました。被害者の男性は刃物での切り傷を負っており、警視庁では――』


「へぇー、また事件」

 寝ぐせの頭を直しながら、自分の部屋から階段を降り、リビングに顔を出した少年――時神鈴(ときがみれい)が、テレビを見て、大して珍しいことでもないかのように言った。

 事実、珍しいことではない。此処、高天原では事件が多い。どころか、得体の知れない事件が起きたのも一度や二度じゃない。犯人が見つからない事件だって、よくある話だ。

 逆にいえば、一か月間、事件のニュースが何一つ流れなければ異常とまでいえるほど、この土地では犯罪率が高い。それが風水的な何かに関わるのかは知らないが、この土地はとにかく犯罪率が他と比べて飛び抜けていた。別に犯罪率が高かろうが低かろうが、運の悪い奴らはどのみち犯罪に巻き込まれるだろうと、鈴は思っているが。

 多分、生死と同じだ。これらはさながら、根引きである。

 毎日、毎日、何者かによって、我々の未来という芽に根引きが行われ、そしてこの先どうなるかが決定される。理不尽に行われる根引きの結果によって、不幸の宣告は唐突に訪れるわけだ。何者かの根引きによって、我々の運命が左右され、運が悪ければ死ぬのである。

 ああ、確かに残酷なことではあろうが、これもいわゆる天命だとか運命だとかいうモノの導いた、単なる一つの結果に過ぎない。そこに情は無く、慈悲もない。そのものにとって、その日が死すべき時だった。この世界において、その生命のやるべきことは終えた。ただ、それだけのことだ。

 この地球上に置いて生命の誕生というものは日常茶飯事であるだろうし、同時に生命の死というものも日々起こりうる出来事である。でなければ、この世は生に溢れすぎてしまうのだから。始まりがあれば終わりがある。誕生があれば最後がある。生があるのならば、やはり死がある。それは極々自然なことで、もはや自明と言うべき世界のルール。

 だから時神鈴は、事件が起こるのは仕方ないと思うし、事件の被害者にも、被害に合ったことは諦めてもらうしかないと思っている。

 そりゃあ、少なからず怒りだって沸く。どうして悪いことをしていない人が、悪い奴に傷つけられなければならないのかと思う。しかしこれは自分にはどうにもできないことで、何度テレビ画面の前で歯噛みしようと、事件が起きたという結果は変えられない。なにも起こらないという未来は、既に取りこぼしているのだから。

 過去は、どう足掻いても取り戻せないのだから。

「鈴、おはよう」

「うん、おはよ」

 既にリビングでテレビを見ていた父、そして食事を作っていた母に挨拶をすると、鈴はダイニングテーブルに並べられ始めていた朝食を見る。

 白米に、味噌汁、鮭、納豆。いつものメニューだ。

 いただきます、告げて、家族全員で朝食をとる。


 過去は、どう足掻いても取り戻せない。壊れてしまったものは戻せないし、失ったものは戻らない。それら全部をひっくるめて、変わらないものはない、と人は言う。

 ならば、取り戻さなくていいように守ればいい。壊れてしまう前に、この手に掴めばいい。変わらないように、この手に掴んで必ず助ければいい。

 それがきっと、今の自分にできること。

 龍神兄弟の一人として、正義の味方として、自分が――時神鈴ができることだから。


 朝食を食べ終え、高天原中学校の制服に袖を通した鈴は、学校へ行くまでの時間、暇つぶしに、父親である時神蓮(ときがみれん)と会話をしていた。

 鈴の父親である蓮は、有名な新聞社に勤めている。それ故に事件の概要は詳しく知っており、鈴はその話を聞くことが多かった。単純に彼の話が面白いというのもあったが、なによりも、蓮の情報が龍神兄弟の活動に役立つことがあるからだ。

 男二人が、朝からだらしなくソファーでゾンビのように項垂れて会話していると、母親の時神美月(みつき)がお盆に飲み物を乗せてやってきた。

「二人とも、朝からだらしないわよ」

 鈴には砂糖多めのミルクコーヒー、蓮にはブラックコーヒーを渡し、美月は朝食後の食器の片付けに戻る。

 早速コーヒーに口をつけた蓮は、眉間に皺を寄せて「不味い」と呻いた。

 これは美月がコーヒーを入れるのが下手というわけではなく、単に彼の味覚の問題だ。まるで成長期の少女のような舌を持つ蓮は、甘いものは大好きでも苦いものは苦手だった。

 やはり彼の子供なのか、鈴にはしっかりとその遺伝子が受け継がれている。

「なに、今日もブラック飲んでるの?父さんも俺みたいに甘いの飲めばいいのに」

 砂糖がたっぷりと入れられたミルクコーヒーを飲みながら、鈴は言う。

「阿保か。お前みたいな子供がマックスコーヒーみたいなコーヒー牛乳モドキ飲んでても文句は言われんだろうがな、俺みたいなダンディーには似合わないんだよ。うちの職場来てみろ、ブラックだらけだ。どいつもこいつも、真っ黒、へそ黒、腹黒だ」

「前、俺の職場は人間関係がいいとかって自慢してたよね。アレ嘘?」

「みんなブラック飲んでるって比喩だよ、比喩。うちの職場、自販機の隣のゴミ箱からブラック臭がプンプンしてんだぞ。そんなとこでジュースみたいな飲料飲めるかよ、ダセェだろ」

「ここ家だから。父さんの職場じゃないから。職場関係ないから」

「そんな職場に慣れるため、日々、甘党の舌を鍛えているのだよ、わが愚息よ」

「その努力に結果は伴ってないみたいだけどね」

「この俺様が自ら、味覚は慣れるものだと豪語する馬鹿者を正義の筆で殲滅してやる」

 人間の味覚がさまざまな味に慣れ、おいしいと感じる味が変化していくのは事実なのだから、そんな八つ当りは止めてあげてほしいと鈴は思った。

「おい、鈴。なんだ、その反抗的な視線は。それが父親に向ける視線か?」

「いやぁ、ずいぶん自分勝手な正義の筆だな、と」

「お前今日の夕飯抜きな」

「ごめんなさいパパ!」

「お前がパパとかいうのマジ怖気走るわ、マジキモイわ。明日の朝食も抜きだなこりゃ」

「俺にどうしろと!」

「最近パパの中でクリームメロンパンって商品が流行っててな。それ食べたら機嫌直るかもしれねーな」

「息子をパシリにしないでよ!」

「うっせーな。お前の小遣いだって元は俺の金だろ?お前の身体だって俺のおかげで生まれてるわけだろ?お前のものは、俺のもの。違うか?」

 最低の父親だった。

「まぁ冗談はここまでにしといてだな」

「どこからどこまでが冗談だったのか激しく気になるけどね」

「もうそろそろ学校行く時間だろ、飛鳥ちゃんが来る前に外で待っとけよ」

「うん。じゃ、行ってきます」

「おう、気をつけてな」



 高天原中学校の夏休みが明けた。

 本日は夏休み明けの初の登校日で、くだらない集会やら夏休みの課題の回収などが行われる。ぶっちゃけた話、めちゃくちゃ退屈で、休んでしまいたいなぁとか思わなくもない。けれど、学校へ行くことが、税金で学費を払ってもらっている自分たち学生の使命だろうと、鈴は家の外に出た。

 すると、偶然にも隣の家から一人の少女が玄関から顔を出したところだった。

 こちらに顔を向けると、少女は鈴の隣に駆け寄ってくる。

「おはよ、鈴くん」

「おう、おはよう」

 彼女の名は水無月飛鳥(みなづきあすか)

 鈴は彼女とは幼稚園より前からの仲で、見ての通り家もすぐ隣だ。一時期は彼女が転校するという話が上がったことがあったのだが、腐れ縁というかなんというか、結局今の今まで共に生活している。お互い、近くに居ないと違和感を感じるほどの存在であることは確かだろう。

 そんな彼女の特徴は、一五〇代の前半まで伸びた身長に、中学生の割に豊満な胸。腰まで伸ばした黒髪を纏める小さなピンと、幼馴染から見ても可愛い部類だと思える見た目。穏やかな人柄。人二倍の家事スキル。そして、クラスのマドンナ的存在である。

「そんじゃ、行くか」

「うん」

 飛鳥が隣に並ぶと、鈴は一歩を踏み出し、飛鳥もまた、鈴の隣を歩く。

 いつものように、二人は学校へと向かう。

 彼らが通う学校は、愛知県高天原市第一地区にある、愛知県高天原中学校だ。

 そもそもこの高天原という土地は、もともとは海であったそうだ。

 彼らも詳しく知っているわけではないのだが、安土・桃山時代の初め頃、地震だったか、海底火山の噴火だったか、あるいはまた別の何かしらが影響したのかにより、地震によって弾けたプレートだったか、はたまた固まった溶岩や積み重なった火山灰などだったかが構築した土地らしい。

 詳しくはわからない。というより、恐竜絶滅と同じようにいろんな説があるため、定かではないのだ。

 今でこそ愛知県は『正三角の愛知県』と呼ばれているが、この高天原が出現する前には、クワガタのような形だったと予測されている。ちなみに三角だとかクワガタだとかは、それぞれの県を上空から見たときの形を表したものである。

 例えば、静岡県は金魚の形に見えるだろう。子供に県の位置・形と県名を覚えさせるにはいいだろうと、正三角の愛知県と呼ばれることがあるのだ。

 此処、高天原市の語源は、日本神話において天照大御神(アマテラスオオミカミ)が治めていたとされる『高天原』が語源だといわれている。そもそも高天原とは、古事記で日本の最高神ともされる、造化の三神が一神、天御中主神(アマノミナカヌシノカミ)が天地開闢の初め、最初に出現したとされる場所である。

 唐突に出現し、尚且つ、驚異の犯罪率(それも犯人の見つからない奇妙な犯罪が多い)を誇るため、不思議な土地という意味でこの高天原という名前が付けられたのか。あるいは、当時愛知県を支配していたとされる戦国大名、織田信長や豊臣秀吉などが『我らが天下を執る基盤となるこの地に相応の名を付けよぉ!』などといってこの名前をつけたのか。はたまた、別の何かしらの出来事があって付けられた名であるのか。その辺りも、この地の出生同様に不明なのである。

 それが、時神鈴と水無月飛鳥の住む高天原という街だ。

 なかなか個性的な街ではあるが、それはその出生についてや名前の由来などだけで、市としては過密地域でも過疎地域でもなく、至って普通の土地だと彼らは思っている。高天原駅のみ、時間帯によっては県庁所在地である名古屋のような賑わいを見せることもあるが、それは駅周辺に大会社があるからで、その通勤時間及び昼食時を除けば大したことはない。

 犯人の見つからない不気味な犯罪傾向と、街全体の犯罪率が高いことを除いては、実に普通の土地なのである。もっとも、自分たちにとっては当たり前の土地であるのだから、他に比べて異常であっても、「普通である」と答えてしまうことこそが『普通』な気もするが。

 なにはともあれ、ここ高天原では不思議な出来事や事件が多く起こる。

 それが、この高天原が唐突に出現したという事実に関係しているのか。していないのか。ここが高天原と名付けられたことに関係しているのか。していないのか。

 それこそ、神のみぞ知る――というやつだろう。


 車二台が通れる程度の道幅を歩いていた鈴と飛鳥は、開けた道に出た。この通りは非常に開けた部分で、道の両端には、桜と銀杏が交互に植えられている。春には桜、秋には銀杏が楽しめるため、それぞれの季節にはこの通りが車両通行禁止となって花見などが行われるというのは、この高天原では常識だ。

 大きな通りである割に車通りは少ない上、この通りの先には、鈴たちの目指す高天原中学校、その道の途中には高天原高等学校、及び高天原小学校、そして高天原病院が位置。そしてその奥には、高天原大学までもが存在している。

 この通り、学校とは反対の方向には高天原駅がそびえているため、電車通学の生徒も使用しているらしい。それ故、この通りは、高天原の学校に通う生徒のすべてが使用しているといても過言ではない。開けた上に人通りも多いので、小学校の通学路として指定もされているほどだ。ちなみにこの道、本来は名前もないただの道路なのだが、あまりに高天原学生が通るためか、近所に住んでいる住民や、生徒たちの間では『学生通り』とも呼ばれている。

 当然のことながら、現在進行形で鈴と飛鳥も、その『学生通り』を歩いている。

「そういえば鈴くん、夏休みの宿題はどうだった?」

 他愛ない会話をしていた中で、唐突に飛鳥が切り出してきた。返答に困った鈴は、話を逸らす。

「そういえば、今日テレビでお前が見たがってた映画やるらしいぞ」

「うん、録画しておいたよ。ところで宿題は?」

 華麗に躱された上、再度問われた。

「まさか、終わってないの?」

 驚愕に目を見開いた飛鳥に鈴は無言を貫く。

 思えば、夏休みは常に親友である風間辰人と共にいた。ならばできなくても致し方ないな。自身に言い訳をして、鈴はうんうんと頷いた。

「いやいや、頷いてる場合じゃないから」

 真顔で飛鳥に言われて、そりゃあそうだと納得する。

 本日よりめでたく学校が始まるワケだが、長期休暇の真の敵は大量に提出を要求される宿題に非ず。真の敵は、明日以降に行われる課題復習テストである。

「つか、明日からテストじゃん!」

「……え、忘れてたの?」

「今さっき思い出したよ!」

「それ遅すぎるよね!」

 とにかく、宿題をするにしても、何をするにしても、今は学校に行かなければ始まらない。鈴と飛鳥は急ぎ足で学校へ向かうのだった。

 

 

「おう。お前ら今日は急いで、一体どうしたんだ」

 二人の所属するクラス――二年一組の教室につくと、案の定というか、一人の少年が二人を待っていた。

 整った服装に、知的なメガネ。鈴と同じく一六〇前半の身長で、ふんわりヘアー。いかにもインテリという印象を与える彼は、風間辰人(かざまたつひと)。時神鈴の親友であり、また水無月飛鳥の恩人である。

 そんな彼は、いつも鈴と飛鳥よりも早く学校に来ているようで、二人が登校している様を見ては、今日は仲良く登校してきたなとか、今日は喧嘩でもしたのかと二人の様子を窺ってくる。

 今日も、鈴たちが急ぐ様を教室からニヤニヤしながら眺めていたのだろう。自分たちなんかを見ても面白くないだろうにと、鈴は思った。

「聞いてよ、辰人くん。鈴くんったらね、夏休みの宿題がまだ終わってないなんて――」

 辰人に挨拶をするや否や、飛鳥はそんなことを頬を膨らませて言う。すると辰人は、今にも「マジかよ」といいそうな口で蔑む視線を向けてきた。

「マジかよ、鈴」

 ホントに言ってきた。

「うるせえな。大体お前はどうなんだ、終わってんのか」

 鈴が宿題をやれなかったのは、主に眼前のこの男が原因である。辰人が遊びに誘ったり、龍神兄弟としての仕事を運んでこなければ、鈴は平穏な夏休みを過ごすことができたのだ。鈴が宿題を終えていないというのなら、辰人も終わっているはずがない。そう思ったのに。

「え、俺はもう全部終わってるけど」

「この裏切り者めが!」

 この秀才が、宿題如きを終えていないハズがなかった。

 インテリという印象を周りに与える辰人だが、まさにその通り。第一印象はその人物の九割を表すと言うが、彼ほど印象そのままの人間もそうそういないだろう。

「裏切り者ってお前、あれぐらいの量なら普通に一週間足らずで捌けるだろ……」

「黙れよインテリメガネ!このエーミールが!」

 ちなみにエーミールとは、国語の教科書のとある物語に登場する、嫌味な優等生の名前である。

「クソメガネの常識が俺に通用するとか思ってんなよ!俺はバカだぞ、凡人以下なんだぞ!毎日毎日遊んでて宿題なんかできるわけが――」

 鈴は自慢にすらならないことをそこまで言って、後方から怖気を感じた。

 あ、ヤバい。そう思ったときにはもう遅い。

「うん、鈴くん。これちょっと緊急幼馴染み会議かな。とりあえずアレかな、毎日遊んでたってどういうことなのか、詳しく聞きたいかな。うん、詳しく聞きたい」

 普段なら可愛い笑顔の彼女だが、今ばかりは笑顔の裏に鬼女の面が見えた。

「あ、うん、……ハイ。あの、お手柔らかにオナシャス……」

 この後、滅茶苦茶怒られた。



 結果、本日は徹夜で宿題をやらされる羽目になったわけである。

「それで、あとは何が残ってるの?」

 鈴の部屋で集まった三人は、明日のテストに向けて勉強会を開始しようとしたわけだが。

「ほとんど残ってるな。全然やってない」

「うん、鈴くん。これはもうアレかな、鈴くんのお父さんやお母さんも交えて家族会議かな」

「それだけはホンットに勘弁してください神様仏様飛鳥様ぁ!」

 父親の蓮ならば、「あァ、宿題?別にやんなくてもいんじゃね。ニュートンだったか誰だったか、かつての天才たちは小学校行かなかったらしいじゃんな。だったらむしろ、鈴にも天才の素質あるってことじゃね?」などと放任主義全開のセリフを吐いて気にも留めないだろうが、母親の美月は違う。

 美月ならば、目の前の幼馴染み同様に、恐ろしい笑顔で長時間説教をすること請け合いだ。それに加えて、数日は食事も鈴の分だけを準備してくれないだろうし、最悪、しばらくはロクに口を聞いてもらえなくなることも予想されるものだから、その点飛鳥よりも恐ろしい。

 基本的には何をしても怒らない美月だが、かつて一度だけ、鈴は彼女を本気で怒らせたことがあった。

 確かあの時は、子供心でご飯を粗末に扱ったのだったか。

 何度も「ご飯は粗末にしちゃダメよ」と注意した美月だったが、鈴はいくら言っても聞かなかった。そしてついに、美月の堪忍袋の緒が切れた。その時、何を言われたのか、具体的には覚えてはいないが、泣いても許しを乞うても、数日の間は許してもらえなかったことだけは、よく覚えている。何かを言っても、「ご飯を粗末にする子は知りません」の一点張りで、朝昼晩の三食すらも食べさせないのだ。流石に可愛そうに思ったのか、蓮がコンビニかどこかで買ってきたパンやらおにぎりやらを貰って食べていたが、そんな生活が数日ほど続いたのだから、幼かった鈴にはトラウマ同然の出来事である。

 あの時は涙ながらの謝罪でなんとかなったが、しかし――今回はどうだろう。数日やそこらで許してもらえるとは、到底思えない。

 マザコンと言われようがなんと言われようが結構な話だが、美月だけは怒らせるわけにはいかないのだ。

 懇願する鈴があまりに必死であったためか、飛鳥は怯えている子供を見るような目で、「今回は許してあげるから、一緒に終わらせようね」と言った。

「不肖時神鈴、精一杯頑張ります飛鳥先生ぇ!」

「わかればよろしい」

 飛鳥は母親のように頷くと、飛鳥は「さて」と視点を宿題の山に移した。

「とにかく片っ端からやっていこうか。まずは数学から」

 思わず、鈴の眉間に皺が寄る。

 別段数学が嫌いというわけではないが、体育以外は苦手な鈴だ。おそらく、度の教化から始めるにしても嫌な顔をしただろう。

「そこ、嫌な顔しない」

「はい……」

 こうして飛鳥と勉強を始めようとすると、先ほどからだんまりを決め込んでいる親友が、鈴の目に入る。

「ところで辰人、お前何やってんの?」

「ああ。うん、漫画……」

 心此処に有らずといった様子で、辰人は持参した漫画を読んでいた。

「今、みんなでぼくの宿題終わらせようとしてるんだよ、わかる?飛鳥先生が手伝ってくれてるんだよ、わかる?なのになんでキミは、手伝いもしないで寝転がりながら漫画読んでんのかな、おい聞いてんのかコラ、その伊達メガネ叩き割るぞコラ」

 鈴の威嚇も意に介さない様子で、「俺のメガネは伊達じゃない」と適当に相槌を打った辰人は、パラリとページを捲った。

「漫画読んでんなら帰れやコラ」

「あー、うん。なら、これやるよ」

 漫画を片手に、鞄から取り出したのは、夏休みの宿題をコピーしたプリントだった。

「なんだよ、これ」

「こんなこともあろうかと、お前程度の知能に合わせて解いた宿題の全科目全問題だ。これをそのまま書き写せば、どんな先生でもお前がやったと思うぜ」

 そんな馬鹿な。思って、試しに今解いていた数学の部分を照らし合せてみる。

「ウソだろ……」

 確かに、同じ解き方を使っていた。それでもって、同じ間違いをしていた。

 こいつマジな天才かよ、超能力者かよ、俺の救世主かよメシアかよ、つか神様かよ天神様かよ菅原道真かよ。

 思わず、鈴は心の中で謎のツッコミをする。

「すげーだろ」

 フンと、辰人が胸を張ったが、今はそんな上から目線も気にならない。どころか、絶賛したい気分だった。

「お前、半端ねぇな……もしかしてだけど、お前俺の宿題やるために生まれてきたのかよ」

「もうこれ、大地讃頌(だいちさんしょう)ならぬ辰人様讃頌だろ。褒めよ称えよ、辰人様をってな」

 辰人様って字余りしすぎだろとか思ったが、今ならこいつを神様として奉ってもいいんじゃないかと鈴は思う。

 けれど、鈴の正面でニコニコと笑顔を向けている幼馴染みから、再び恐喝じみたオーラが漂い始めた。

「鈴くん、ずるいのはよくないなぁとわたしは思うんだけど、そこのところどう思ってるんだろう。うん、今は凄くそれを聞きたい気分かな」

「あ、ハイ。わかってまッス。ずるいの良くないっス。言っちまえばコレ、宿題のカンニングッスもんね。許されるわけないッスよね」

 なんでよりによって飛鳥がいるところでプリント手渡すんだ馬鹿人(ばかひと)め。内心愚痴りながらも、でもと鈴は続ける。

「悪いのはわかってるけど、せっかく馬鹿人……じゃなくて、辰人が作ってくれたわけだし、使わないのはもったいないかなーって……」

「え?今、なんて言ったの。わたし上手く聞き取れなかったから、もう一度言ってほしい。うん、もう一度聞きたいかな」

 笑顔に亀裂が走った。

 ――あ、コレマジで洒落にならないぞ。真面目にダメなパターンだ。

 何も言えない鈴の前に、

「そのプリント、使わないなら捨ててもいいから」

 辰人による処分の許可が出た。

「もっ、もちろん、こんなものに頼らず自力でやるって言ったに決まってんジャン!?」

 咄嗟に絞り出したセリフの説得力は皆無だったようで、飛鳥に奪い取られたプリントたちは見るも無残な姿に引き裂かれていくのだった。



「あ、俺そろそろ帰るわ」

 時刻が六時に近づいてきた辺りで、辰人が言った。

「なんだ、今日は早いのな」

 鈴が、ようやく半分ほど終わったっぽい数学の課題から頭を上げる。

「いや、あんまりお勉強会の邪魔するわけにもいかないかな、と」

「なんだそれ」

「だってお前、男女仲良く二人で勉強とか重大なイベントだろ。しかもお前、相手はクラスのアイドル水無月飛鳥だぞ。クラスのアイドルに勉強教えてもらえるとか、俺とお前以外のヤツだったら殺されるレベルだぞ」

「待って辰人くん、アイドル云々も否定したいところだけど、殺されるって何」

 鈴の勉強を見るついでに自分の勉強もしていた飛鳥もまた、顔を上げた。

「普通に考えろよ。飛鳥はクラスの男子から見たら高嶺の花だ。そんな子と、幼馴染でもないやつがイベント起こしてたら男子の嫉妬の的だろ」

 それはそうかもしれないけど、いまいち煮え切らない様子で飛鳥は唸る。

「飛鳥はさ、もう少し自分に魅力があるって知った方がいい」

「だって、わたし昔は苛められてたし……」

「それも、もしかしたら好意から来てたのかもよ」

 男の子は、好きな女の子に意地悪をする。その延長にしてはやり過ぎだと思うし、そんな理由で飛鳥が苛められていたのかと思うと腹が立つが、辰人が言うなら可能性はゼロではないのかもしれないと鈴は思う。

「まぁ、そんなん今はいいんだ。とにかく俺は帰る。お前らは二人で頑張ってくれよ」

 じゃあな、課題頑張れよ。

 辰人は言うと、荷物を纏めて辰人は本当に帰ってしまった。

「ホントに帰るのかよ、アイツ」

「最近、先に帰ること多いよね」

 昔は、最後まで一緒に遊んでいたのに。

 辰人にも用事はあるだろうし、塾かなにかの宿題もあるだろうから帰るなよとは言えないけれど、それにしても最近は付き合いが悪いように思う。

 考えすぎかもしれないが。

「考えても仕方ない。とりあえず課題終わらせるか」

「明日の朝には終わるようにしてね」

「あ、ハイ。ガンバリマッス」



 なんだかんだで宿題を終わらせて、鈴はテストを乗り切った。

 結果はお察しといった感じだが、赤点はない。順位も中の下と言ったところで、今まで通りといえば今まで通り。飛鳥は鈴の面倒を見ていたにもかかわらず二十位以内をキープしていたようだったし、辰人に至っては不動の一位だったようだ。

 いつも通り。

 これが、自分たちの日常だ。

 きっといつまでも続いて、いつまでも変わらない日常。

 変わらないものはないというけれど、俺たちの日常は変わらない。たまには喧嘩もするかもしれないけれど、きっと仲良くやっていける。いつまでも。

 この幸せが、普遍の永遠でありますように。

 時神鈴は、心の片隅でそっと願った。


        ☆


 小学一年生の頃、だったか。

 隣に住む女の子、水無月飛鳥の父親が『てんきん』とかいうことになって、飛鳥も一緒に『てんこう』するんだという話がクラスで話題になったことがある。

 彼女――飛鳥は大人しい女の子で、クラスにも友達と言えるのは鈴しかいなかった。思えば幼稚園の頃から彼女は病弱で、休みがちだった。それもあったのだろう。自分がいないとダメダメで、いつも彼女の手を引いていたように思う。

 一年生を学校を連れて行くのは六年生の役割だったが、人見知りの彼女は怖がっていた。だから六年生の代わりに、鈴が飛鳥の手を引いていたことも覚えている。

 隣の家だということに加え、親同士が仲良くしていたのもあって、休日はよく一緒に遊んでいた。彼女はあやとりや折り紙が得意だったが、鈴はサッカーやヒーローごっこが好きだったので、外に連れ出して遊んだ。初めは不安げな顔をしている彼女だったが、遊ぶうちに楽しくなったのだろう。よく笑うようになった。

 自分は、水無月飛鳥に必要な存在なのだ。自分が守ってあげないと、彼女はダメなのだ。

 当時、ヒーローモノの特撮番組を見ていた時神鈴は、強くそう思っていた。

 けれど、そんなある日、転校の噂を聞いたのだ。

 自分が守ってあげないといけないと思っていた女の子が、いなくなる。その寂しさよりも、なによりも、まず彼女の心配をした。自分がいなきゃダメなんだから。自分がいないと、何もできないんだから。転校したら、ダメなんだ。

 鈴はその噂の真偽を確かめようとしたけれど、飛鳥本人は「しらない」と首を振るばかり。

 クラスの知り合いに聞いても、「さぁ?でもホントなんじゃねー」とか、「あすかちゃんとべつになかよくないから、どうでもいい」とか、自分が納得できる理由を聞くことはできなかった。

 しかし、次第にその噂が薄れていく。

 やがて、別の噂が広がった。


 みなづきのとーさんさ――しんだらしいよ。


 誰がいったのか、その噂は瞬く間に広がった。

 詳しくはわからないが、クラスの生徒たちの話を聞くと、どうやら単身赴任の先で亡くなったそうだ。なにが起きたのかまではわからなかった。危険な事件を調べていたのだとか、交通事故に巻き込まれたのだとか、――宇宙人に殺されたのだとか。

 死因はどうあれ、飛鳥の父親が亡くなったのは確からしい。

 本来は慰められるべき飛鳥であったが、周りの子供たちの反応は違った。

「とーさんしんだ、あすかのとーさんしんだっ」

「しんだっ、しんだっ、もういないっ」

「くらすもひとりなのに、いえでもひとり、さみしーね」

 誰一人として悲しむ彼女を慰めようとはせず、それどころか虐めが行われた。

 飛鳥にとっては、地獄の日々の始まりだった。


 飛鳥への虐めは、いつの日か悪口だけには収まらなくなっていった。

 下駄箱の中には画鋲。教科書には落書き。筆箱がなくなるのは日常茶飯事だったし、授業中に彼女の足を引っ掛けたり、放課時間に彼女が読んでいる本を複数人で取り上げたりもしていた。

 正義の味方の使命感――とでもいうべきものが動いたのか。何度も止めようとした鈴だったが、やはり数が圧倒的に違う。鈴が止めようとしても、飛鳥への虐めは止まらなかった。


 結局何も変わらないまま、数年が経過した。


「今日は、飛鳥は学校に来ますか」

 このセリフはもう、何回目になるだろうか。

 鈴は毎朝、飛鳥の家へ迎えに行くが、彼女は来ない。

 たかが数週間ではあるが、その数週間がかれこれ数ヶ月にも感じる。飛鳥の母親と毎朝会話することは、もはや当たり前になっていた。

 何度学校へ誘っても、飛鳥は来ない。

「ごめんね、今日も……」

「そうですか」

 いくら歯を食いしばっても、飛鳥は学校に来ない。

 毎日、誰も座らない席を眺め続けた。毎日、帰る度に隣の家――その一室を見つめていた。休日にも彼女の家を訪れるのだが、彼女は出てこない。

 一体どれだけ彼女と顔を合わせていないだろう。どれだけ彼女の声を聞いていないだろう。寂しいと感じると同時に、やるせなさが止まらなかった。

 やがて、鈴はこう考えるようになる。

 飛鳥が学校に来ないのは、やはり虐めがあるからだ。この虐めを止めなければ、意味がない。なんの解決にもならない。

 そう思った鈴は、クラスのみんなと話すようになった。もともと明るく運動も得意だった鈴は、あっという間にクラスの全員と打ち解けた。それどころか、人気者になった。自分がみんなと仲良くしていれば、自分と仲の良いみんなが仲良くできると思った。友達の友達は友達、というヤツだ。こうやってみんなが仲良くできればいいのに。多くの同級生と接するうち、鈴はそう思うようになった。

 みんなが仲良くなれば、虐めなんて起きない。もっと言えば、きっと戦争だってなくなるし、世界が平和になる。更に言えば、悪や正義なんてものもなくなって、みんなが笑顔でいられるようになる。みんなが笑顔でいられれば、きっと幸せなのに。


 飛鳥が学校に来ないまま、一ヶ月ほどが経過した時だ。

「みんなに新しい友達を紹介する。入りなさい」

 ガラリと開く扉。カツカツと黒板に書かれる文字。

風間辰人(かざまたつひと)です。よろしく」

 転校生が、やってきた。

 彼、風間辰人。そして、時神鈴。

 この二人が龍神兄弟として初めて事件を解決するのは、もう数か月後の話だ。

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