彼女の隣に並ぶため
来る日も、来る日も、鈴は衣と組み手を行った。
流石に一週間も続けていると、あまりの過労と栄養・睡眠不足で眩暈がすることもあった。また、あまりの過労に何度も吐いた。朝食を吐き、昼食を吐き。夕食だけは、食べた後に衣との組み手がないために吐くことはなかったが、それでも成長期の彼には、一日一食分の栄養というのには辛いものがあった。寝る間を惜しんで今まで以上に体力をつけ、己の加速限界を少しでも上げようと努力した。勉強なんてほとんど手につかない。日に日に顔色が悪くなっていると、両親から心配もされた。
それでも、鈴は止めない。強くなりたいから。なにより、約束だから。俺は飛鳥を守れるようになる。そして、俺の遥か前を歩いている飛鳥に追いつくために走らなければならない。
だから、衣、ありがとう。
お前がスパルタのおかげで、俺は此処まで強くなれたよ。そりゃあ、本気出したお前には適わないだろうし、ハワードやオーガスト、アーヴァンにだって勝てないだろう。それでも、足手まといだけにはなりたくない。この拳だけは、譲れない。
誰かを守りたいという願いだけは、誰にも譲りたくないんだ。
「俺は強くなる」
強くならなければ、きっと俺は、みんなが好きな俺ではいられなくなってしまうから。
☆
時刻はもう、午後七時を回ったところだろうか。
結界によって本来の時間軸からズレたまま衣と組み手を行っていたのは、体感時間にして実に5時間ほど。組み手を終えた後に動けるようになるまで、寝てしまったようだ。結局起きるのに数時間かかってしまい、今この時間にようやく動けるようになった。疲労は身体を苛むが、少し楽になったからと鞄から取り出した間食用の菓子パンを口に詰め、適当にお茶で流し込む。
お茶と菓子パンの混じりあったこの味は、お世辞にも美味しいとは言えない。けれど、流し込まなければ飲み込める気がしなかった。いたしかない処置だ。
今度からは菓子パンじゃなくて味のないパンか、カロリーメイトなどの健康食品にしよう。
ボロボロになった体を辛うじて支えながら、鈴はよろめきながら学校を出る。
外はもう暗くなりかけていて、夕焼けが沈もうとしていた。
学校の最終下校時刻は六時。辰人の死から数週間が経過したが、猟奇殺人犯が未だ捕まっていないために下校時刻は早めに設定されたままである。そのため、広い学生通りに鈴は一人だった。
身体中が痛い。鉱石のように重い。今の今まで、いつも通りに動いていたというのに、今ではこの身体は鉄のようだ。いつも己の意思で動かしている身体でさえ重いのだから、教科書などが詰められた鞄が軽いわけもない。
教科書を学校へ全部置いて、いわゆる置き勉というやつをしてやろうか、と真剣に考える。
ズルズルと足を引きずり、少しずつ家に向かって進む。一度吐き気の波が来たため、塀に寄り掛かって少々荒い深呼吸を繰り返す。
激しい疲労によって胃が痙攣しているようで、今にも吐瀉物を吐き出しまいそうだ。正直な所、さっさと吐き出して楽になりたかった。
けれど、吐いてしまうと栄養が得られない。もう毎日のようにこの吐き気と奮闘しているため、少しずつ吐き気に慣れていた。確実に吐くというタイミングがわかってくるから、マズイと感じる度に立ち止まり、塀に持たれてやり過ごす。こんなもの、慣れたくなどなかったが慣れてしまったのだから仕方がない。
よし、行くか。
軽く深呼吸をして、鈴は一人、暗くなった学生通りを歩く。いつも通っているこの道だが、やはり疲労しているこの身体には厳しいモノがある。長い間衣に相手をしてもらっていたこともあり、疲労は並じゃない。これを毎日飽きもせず続けているのだから、体力が尽きていくのも当然か。
だけど、俺は強くなりたいから。
飛鳥は今まで、戦うための術を磨いていた。遊び呆けていた俺には、これでもまだ足りないぐらいだ。追いつく。追いついて、飛鳥に並んで見せる。飛鳥を守れるだけの強さを、手に入れる。
けれど身体は素直なもので、もう限界だと言わんばかりに再び吐き気を催した。
「あー、これちょっとヤバイかも」
鞄を置き、千鳥足で排水口へと向かった鈴は、そこで思い切り吐いた。
吐瀉物がかからないよう、塀に手をついている辺り、飲み会で毎度吐いているサラリーマン並みに嘔吐が上達したのではないだろうか。
あー、吐いちまった。あの菓子パンとお茶の混じったくっそ不味い半液体、頑張って流し込んだのになぁ。
もはや吐くことにすら慣れた頭で、ぼーっと考える。
結局胃の中身は全部出てしまったようで、口の中に残った酸味を唾液とともに、ぺっと吐き出した。
「最悪」
毒づいて起き上がると、
「はい、水。結構吐いてたけど、大丈夫?」
見慣れた少女が水の入ったペットボトルを持って立っていた。
「……げ」
最悪だ。
よりにもよって、コイツに見られたのかよ。
「“げ”ってなに、“げ”って。怒るよ」
愛すべき幼馴染みが――水無月飛鳥が其処に立っていた。
「なんでお前がここにいるんだよ……」
「桜花が教えてくれたの。鈴くんは見栄はってるけど体はボロボロだから、帰りを見てやってくれって」
「いつから見てたんだよ」
飛鳥の差し出したペットボトルを開けて、くいっと水を飲む。口の中にまでは入るが、食道を通ると僅かに嘔吐感があった。これ以上は止めておこうと、キャップを締めて飛鳥に渡す。
「教室でなんか、項垂れてて、しばらくしたらコンビニのフレンチトーストをお茶で流し込むとこから」
それほとんど最初からじゃん。
ちっと舌打ちをすると、飛鳥は「なに」と鈴を睨む。
「なんでもない」
帰ろうと、道端に置いてきた鞄を探してみると、そこには鞄がない。
おかしいと思っていると、此処だよと飛鳥が鞄を押し付ける。
どうやら、持ってきてくれたらしい。
「さんきゅーな」
それだけ言って、鈴は先に帰ろうとする。
しかし、回り込んできた飛鳥が目の前に立ちはだかった。
「なんだよ」
「ねぇ、いつまでこんな生活続けるつもり?」
こんな生活。
あぁ、朝昼晩と衣に扱いてもらっている生活の事か。そりゃ決まってる、俺が満足できるだけの力を付けるまでだ。
「さぁな」
飛鳥の脇を抜けて進もうとすると、再び飛鳥が立ちふさがる。
「なんだよ」
ため息混じりに言うと、飛鳥に睨まれた。
「鈴くん、食べる度に吐いてる。学校でも給食はほとんど残してるよね」
わざわざそんなん見てんなよ。
あと残してるんじゃない、欲しいやつにくれてやってるんだ。慈悲の心ってやつだよ。食べ物だって、すぐ吐くやつとちゃんと消化してくれるやつなら、消化してくれるやつに食べて欲しいに決まってる。俺が食ったら、口から便器に即サヨウナラなんだから。
おーけー、わかった?だからそこをどいてくれ。
軽い口調で言ってこの場を逃れようと思ったが、飛鳥の目が本気だった。今、冗談なんて言おうものなら、まず間違いなくブチ切れる。
「あの時よりは、食ってるよ」
あの時――辰人が居なくなって、葬式へ行って、どうしようもなく落ち込んでいたとき。あの時は何も喉に通らなかったけれど、今はまだましだ。
朝は吐くし、昼も吐くけれど、夜だけはちゃんと食べているから。
「でも、ほとんど今みたいに吐いてる」
「夜は吐かない」
「そういう問題じゃないでしょ」
「そういう問題だよ」
俺にとっては、そういう問題だ。
今、身体なんてのはどうでもいい。ただ何より、戦う力が欲しい。お前に並ぶだけの力が欲しい。
だから、頼むよ飛鳥。
「そんなんじゃ、いつか死んじゃうよ!」
今にも泣き出しそうな声で、飛鳥が叫んだ。
ああ、お前の気持ちは痛いほどわかるよ。俺だって、逆の立場だったら絶対止めるから。でもさ、だったらお前だってわかるだろう。俺もお前も、良くも悪くも頑固だからさ。こうなっちまったら、もう誰にも止められないんだよ。
「なぁ、飛鳥」
「やだ、聞きたくない」
優しく語りかけると、飛鳥はギュッと耳を塞いで聞こえないようにした。
それでも、聞いてもらわなくちゃならない。
飛鳥の頭に手を置いて、それから優しく抱きしめた。
「いつか、話したよな。俺が前にいたら、お前は俺に追いつくってさ」
「聞いてない。わたし聞いてないから」
耳を塞いでぶんぶんと首を振るので、だったら嫌でも聞こえるようにと鈴は飛鳥を抱きしめた。
優しく包むように抱きしめたかったが、疲労でバランスがうまく取れず、寄り掛かる形になってしまったのが情けない。
突然抱きしめられたことに驚いたのか、身体をびくりと震わせたが、わたしは聞かないからという意思を込めて再び首を横に振る。
コイツもなかなか頑固だな、おい。
まぁいいや。呟いて、どうせ聞いてんだろコイツと思いながら鈴は続けた。
「こうも言ったよな。お前が前にいるなら、今度は俺が追いつくって」
今度は、飛鳥は首を振らなかった。
「今はさ、お前が前にいるんだよ。手を伸ばしても届かないぐらい、ずっと遠くにいるんだよ。だから、走らせてくれ。すぐにお前の隣へ並ぶから、その時まで走らせてくれよ」
耳を塞いでいた手を解いて、飛鳥はそっと鈴の襟を掴んだ。
「走らなくていいの。ゆっくりでいいの。わたしが守ってあげるから、鈴くんの代わりに戦うから……」
「それじゃあ、ダメなんだ。それじゃ、約束が守れないんだよ」
お前に追いつくって約束も。辰人といつか交わした、お前を守るっていう誓いも、守れなくなっちまう。それだけは、ダメなんだ。それだけは、破っちゃいけないんだ。もし破ったら、俺は俺でなくなってしまう。今の俺は死んで、代わりに自分を高めることも知らない堕落した廃人が生まれてしまう。
だから、譲れないんだよ俺も。
俺だって、馬鹿なことしてると思ってるよ。短期間にあれこれ詰め込んだって、強くなれる保証は何処にもないんだってこともわかってる。
けど、動かずにはいられないんだよ。
お前だけは取り零したくないから。辰人との誓いぐらいは、守りたいから。そのために俺が出来ること、やるべきことはこれしかないから。
俺には、この拳しかないから。
「だから、頼むよ飛鳥」
普段は勉強教えてくれとか頼んでる俺だけど、これだけは本当に頼むよ。他の誰にも譲れない。一生に一度のお願いなんだ。
「――頼むよ、飛鳥」
最後に一言告げると、飛鳥は掴んだ襟を皺ができるほど強く握り締めて、ばかと呟いた。
「ばか、ばか、ばか。ホントにばか。頭わるい。辛かったら休めばいいよ。苦しかったらやめればいいんだよ。なんでいつも、辛い道を選んでくのかな。なんでいつも、危ない橋ばっか渡るのかな。おかしいよ。見栄なんていらないよ、弱いとこ見せていいんだよ。わたしが、守るって言ってるのに……絶対、おかしいよ……」
「悪いな、心配ばかりかけて」
「心配とか、してないもん。やりたければ、勝手にすればいいよ。もう、知らないから。鈴くんなんか、どっかで倒れちゃえば良いんだ。倒れちゃえば……」
言葉に詰まった飛鳥はそれ以上何も言わなかった。言葉の代わり、震える肩から気持ちが伝わる。
我慢させて、ごめん。頼みを聞いてくれて、ありがとう。
そんな意味合いを込めて、鈴は笑った。
「安心しろよ。正義の味方はな、どんな奴が相手でも、最後は必ず勝つんだぜ」
どんな逆境にだって、笑顔で立ち向かって行ける。どんな敵が相手でも、負けはしない。それが正義の味方なら、俺もそれを成し遂げよう。
彼女のためにも。もういない、親友のためにも。なにより、自分自身のために。
「鈴くん、ホントにばかだよ……」
「ああ、バカだよ。知らなかったのか」
「ばか」
最後に呟いた飛鳥の表情は、見えないけれど、きっと笑っていた。バカやって、走り回って、けれど最後は望む未来を手に入れる。それが時神鈴だと知っている。だから、最後はきっと、自分の欲しい未来をくれるから。
「もしこれで死んじゃったら、絶対許さないから。死んでも呪うから」
「死んだ後に呪われるのかよ、新しいな」
「うるさい」
「ところで、飛鳥」
「……なに」
「俺の制服なんか冷たいんだけど。主にお前が顔うずめた辺り」
「わたし、泣いてないもん」
「おいおい、だったらもしかして鼻水じゃあないだろうな」
「濡れてない。気のせい」
「いや絶対違――」
「このまま鼻かむよ」
「おーけー、俺の服が濡れてるのは気のせいだな、うん。とりあえず離れようか飛鳥」
人気がないとはいえ、いつまでも路上で抱き合っているというのは思いのほか恥ずかしい。
っていうか、なに勢いに任せて飛鳥抱きしめてんだろうね俺。
離れようとする鈴の襟を、離れまいと飛鳥は強く握りしめる。
「もう少しこのままがいい」
「俺は一刻も早く離れたいんだが」
「やだ」
「ワガママは良くない。離れようか」
「やだ」
「俺多分汗臭いから、離れたほうがいいぞ」
「わたしは大丈夫だから、このままで良いの」
「……お前、汗臭いぞ」
「え?嘘!」
バッと離れた飛鳥は、制服の匂いを嗅ぎながら、そういえば、わたしも桜花と稽古してたし云々とぼやく。
「冗談だ、臭くはなかったよ」
どちらかといえば、フローラルというか、ちょっといい匂いだった。汗の匂いはほとんどしなかった。
「……正義の味方なのに嘘ついた」
「今のは軽いジョークだろ。本気にすんなって」
「女の子にとって、臭いって言われるのは男の人が禿げてるよって言われるのと同義なんだよ」
「……以後気をつけます」
謝ると、
「帰ろ」
飛鳥が言った。
「そうだな。帰ろうか」
一歩を踏み出すと、視界の隅に人影が見えた。
鈴が人影に気づくと、人影はさっと隠れて、すぐに見えなくなる。
今のを誰かに見られていたのか。もし知人に見られていたら嫌だなぁと思いつつ、鈴は帰路へと踏み出した。
「しょうがないから、わたし、朝は消化のよさそうなものをこれから作るよ」
「ん、愛する俺のために朝ごはんを作ってくれるのか。理想の嫁だなお前」
「嫁とか、別にそんなこと思ってないし……違うし……」
「なに、新手のプロポーズのつもりだったの?」
「だから、違うってば!」




