進化の兆し
これで、何度目になるだろうか。
幾度となく衣へ向かった鈴だが、その度彼女の周りに浮かぶ羽衣によって阻まれる。
「衣の予測を裏切れ。様々な動きで翻弄しろ。」
んなこと言われても困る。やりたいように出来たら、苦労しない。
「ああ、それではダメだぞ。そんな単調な動きばかりされて、隙ばかり見せられて――」
「おらぁああああああっ!」
全身全霊を乗せて、鈴はその拳を衣に向けて振う。加速した、加速した、加速した。これは本日の最高速度であったと自負できるほどに、鈴は加速した。
加減はない、全霊を以てしても勝てるかわからない相手に、加減する理由はない故に。
これなら、避けられないだろう。一発ぐらいは食らわせて、見返してやる。見込み以上の実力だったと、これなら加減は必要ないと言わせてやる。
見事に羽衣の隙間を縫い、鈴の拳は衣に当たるかと思われた。しかし、刹那の瞬間、羽衣が鈴の視界を遮った。結果、突き出した拳は空しく空を切る。
次に羽衣から視界が戻った時には、衣の姿が視界に収まっていないことに気付いた。
加速している。体感時間も加速した己に合わせている。なのになぜ、本来の時間軸からずれたハズの己が衣を見失う――。
今まで衣の姿だけは見失わなかったという、唯一ともいえる己の利点を奪われ、戸惑う。
「可愛いな。何もかも衣の思惑通りだぞ。お前は単調すぎる、故に操りやすい。」
見失ったはずの彼女が、目の前にいた。
どうやら羽衣をうまく利用して己の身を隠し、姿勢を低くして近づいていたらしい。
こいつを防げるか。彼女の視線が語り、再び拳が鈴に向かって放たれる。
今までは攻撃が読めなかった。気付かないうちに絡めとられ、動きを封じられていた。しかし今は違う、身体は羽衣に囚われてはいない。
――俺の速度ならば、避けられる。
跳躍し、衣を飛び越えられるギリギリの高さまで跳んだ。
あまりに高すぎる跳躍に意味はない。空中は自分の領域ではないどころか、足場がないために身動きが出来なくなるからだ。
跳躍によって拳打を回避した鈴は、着地してからの己の動きを考える。距離を取るか、それとも突っ込むか。――ここで距離を取っては、またあの羽衣を切り抜けなければならない。ならば、このまま着地と同時に衣の背後をとり、一発ぶちかます。それがこの場に於ける最善の策だろう。
「舐――めんなッ!」
そろそろお前の攻撃パターンが読めてきた。
こいつの羽衣は防御専門、故に攻撃に際しては、こいつは自らその拳を振う。掴めれば確かに脅威である羽衣だが、ならば捕まることさえしなければ、その羽衣は大した脅威ではないと言うこと。
着地し、すぐさま衣へ向けて踏み込もうと、足をバネのように縮めた時だ。
「急がば回れ、というだろう。勝ちを狙って焦り過ぎだぞ。」
まるで刃のように、衣の羽衣が鈴の両足を引き裂いた。
あまりに突然の出来事に、頭が回らない。ただ、己の身体が傾いたことが分かった。
おい、踏ん張れよ。ここで傾いたら、あいつにこの拳が当たらない。
しかし鈴の命令を聞くことなく、鈴の足から大量の血液が噴出した。
「――な」
なんで。なんで俺の足が、刃物に切り裂かれたかの如くに切れているんだ。
どうやら筋肉を切られたらしく、故に足は動かない。
一体どこに、そんな鋭利な刃物があったというのか。疑問に思う鈴に、衣は淡々という。
「この羽衣、ただ防御のためだけにあるとでも思っていたのか。固定概念だぞ、それは。」
バランスが保てず、地に附せる僅かな時間で、鈴は衣の拳を見た。
その拳は痛々しく傷ついており、僅かに血がにじんでいる。それはすなわち、彼女の拳は本来攻撃のために使用するものではないことを表していた。
思い返してみれば、彼女と初めて出会い、握手をしたとき、彼女の手は柔らかく年相応だと思った。攻撃のために拳を握ってはいないのだと思ったはずだ。
簡単なことだったのだ、彼女の手が美しかったのは、攻撃手段として用いていないと言うこと。攻撃手段として用いていないと言うことは、それに代わるかそれ以上の攻撃手段となる何かしらを彼女が持ち合わせていると言うこと。そしてその攻撃手段こそが、今彼女の周りを浮遊する天の羽衣による物体切断。
こんな簡単なことに、どうして気付かなかった。
「まだまだ、読みが足りないぞ。」
どさりと音を立て、鈴は無様に倒れこむ。
意識はある、痛みはある。腕もあるし、足もある。しかし筋肉を切られてしまった以上、この足は動かない。激痛を感じるよりも、なによりも、白痴のように闇雲に突っ込んでいただけの自分が恥ずかしかった。なにもできず、倒れているだけの自分が恥ずかしかった。
こんなとき、辰人がいたら、的確な指示を出してくれるのだろう。無駄な危険は負わせないよう、けれど確実に目的は達成できるように。
ああ、やはりお前は俺の片割れだ。どうしても、お前が生きていたら、なんて甘い幻想に浸らずにはいられない。
――くそ。
進めない、俺は前に進んでなんかいやしない。業天を纏った。天児になった。ああ、それで?守れるものは増えただろう、助けられるものは増えただろう。けれどそれだけじゃ、俺の理想に届かない。誰もが笑える世界なんて、訪れない。
辰人がいたら、そんなことを考えている時点で、俺はまだ一人で戦えないと言うことが嫌でもわかる。誰かを頼って、支えられて、そうしてもらわなければ何もできない惨めな男。それが、俺だ。
変えるって決めた。変わるって決めた。俺が龍神兄弟としてこの街を守ると、飛鳥と約束もした。なのになんなんだよ、この様は。
「弱いな、俺は……」
泣きそうになりながら思わず呟くと、鈴の額に向けて、衣が指を弾いた。
「そりゃそうだろ。お前はいわば新入生なんだぞ。そう簡単に先輩超えられるモノか。」
額が痛い。
思ったとき、足の痛みが消えていることに気付いた。
「……あれ?」
足が動く。地に附したまま、足を動かしてみると思ったように動いた。
さっき、切られたんじゃ……。
「治してやったぞ。本来は病を治すものなんだがな、これは。」
いつの間にかひょうたんを片手に持ち、鈴の目の前にしゃがみ込んでいた衣は――っていうかパンツ見えてる見えてる、隠せよお前もっと恥じらえよお前それでも一応乙女だろお前。
ちなみに、色は白だった。
鈴が衣を見上げると、「なに見てるんだ、殺すぞ。」とでも言いたげな冷たい視線を向けてきた。
「なんだよ、俺が悪いのかよ」
すっと鈴が立ち上がると、もう少し座っていた方がいいぞと衣は言う。
一応言うことを聞いておこうと思って、鈴はその場に座り込んだ。すると、羽衣を鈴のすぐ隣に浮かせて、椅子にでも座るかのように、羽衣の上に衣は座る。
「なぁ、そのひょうたんは何なんだ」
鈴が問うと、衣はひょうたんをどこかにしまった。
衣のひょうたんといい、桜花の鉄扇といい、こいつらそんなものをどこに隠しているんだよ。
「あれはただのひょうたんだ。重要なのは、中に入っている酒だぞ。」
「酒?」
酒っていうと、アレか。米やら果物やらを発酵させて作るっていう、大人のジュース的なアレの事か。アルコール飲料のことか。
「なんで酒が入ってるんだ。俺の足を治したのもその酒なのか?」
「そうだぞ。衣の造った酒には、特別な力がある。少し分けてやった、ありがたく思うといいぞ。」
「へぇ、お前が酒をね。ちなみに、どうやって造ったんだ」
梅酒とか、梅を酒につけるだけで作れるみたいだし、案外簡単に作れるものなのかもしれない。などと思っていると、衣はとんでもないことを言い出した。
「こう、口に米を入れて、噛み砕いて、ぺって。」
もごもご口を動かして、手に何かを吐き出すようなジェスチャーで伝えてきた。
「お前が口から出したモノかよ!ふざけんなって!」
ってか汚ねぇなオイ!
「ふざけてないぞ。汚くもないぞ。なにしろ、この衣が造った酒だからな。」
ふふん、衣は「どうだ、光栄だろ」と言わんばかりに胸を張る。
「いやいや、普通に汚いから」
というか、なんだ。俺の足はこいつが口から吐き出した米に癒されているっていうのか。足が治るのは嬉しいが、お前の唾液入ってると思うとその喜びが万分の一になるぞ。
「だいたい、そんなんでお前の造った酒なんて言えるのかよ」
鈴が言うと、は?何言ってんのコイツ。とでも言いたげな視線で眉を寄せた。
コイツ表情豊かだなぁ。
「お前、酒の造り方も知らないのか。もしかして馬鹿なのか。っていうかお前、絶対日本史とか苦手だろ。」
「う……」
否定はできない。
「昔はな、唾液で発酵させて酒を造っていたんだぞ。なんたら麹が見つかって酒が造られるようになったのは、わりと最近の話だぞ。」
「知らんかったわ、それ」
「お前、ホントにバカなのか。」
「うるさいな、俺は理系脳なんだよ」
「今度、飛鳥に鈴の成績について聞いてみてもいいか。」
「ごめんなさい調子乗ってました馬鹿です自分!」
「物わかりのいいやつは好きだぞ。」
ニヤリと笑った衣は、遠くで戦闘を繰り広げる桜花と飛鳥を見た。
その視線を追うように、鈴もそちらを見る。
飛鳥がいくつもの弾丸を空気中の水分から作り出し、放つ。それを鉄扇で口元を隠しながら軽々尾で弾き飛ばす桜花。衣も大概だが、飛鳥の水弾をさながらピンポンでも扱うかの如く弾いている桜花はもはや、化け物じみていると思った。
……おいおい、桜花も大概の化け物だが、飛鳥も相当のモノなんじゃないか、これ。っていうか飛鳥、お前俺との練習の時に手抜きしやがったな。おかげで大恥かいたぞ。
「なぁ、鈴。」
「なんだ」
「桜花は、化け物に見えるか。」
まるで心を読んだかのように、衣は問う。
「ああ、実際バケモンだろありゃ」
飛鳥は本気で桜花にぶつかっているのに、それを赤子の手をひねるが如くあしらっている。これを化け物と言わずして、なんという。
「気持ち悪いと思うか。忌むべきものだと、思うか。」
「はぁ?よくわからんが、すげぇと思うよ、俺は」
「化け物が凄い?なんだそれは、衣にはよくわからないぞ。」
「だって、あれだけの強さを手にしてるってことは、それだけの努力をしてきたってことだろ、多分さ。凄いだろ、それは。あいつは戦うことを迷ったりしないのかね」
鈴が言うと、何を言っているのかわからないという視線を向けてきた。
もしかしたら、衣は別のことを聞きたかったのかもしれないが、一息ついて鈴に話を合わせる。
「……桜花は迷ってるぞ。いつでも、これでいいのか、これが正しいのか、考えても答えの出ない回答をただ求め続けているんだぞ。」
「そうかい。あいつも、人間らしいとこあるんだな」
「桜花だけじゃない、誰だって迷うぞ。衣だって迷う。あの嚆矢さまだって迷う。だから、衣たちは誰かを頼るんだ。」
「おいおい、神様も迷うもんなのか」
「そうだぞ。」
なら、俺も迷っていてもいいのかな。
いまだに失くした欠片が大きすぎて、その溝を埋められない。どれだけ埋めようとしても、その穴は全てを吸い込んでいってしまう。それはまるでブラックホール、新しく何かを詰めようとしたところで、無尽蔵に呑み込んでいってしまうんだ。その上、まるで体の一部を失ったかのように、不自由なんだ。だから、俺は未だに変われない。未だに前に進めない。
辰人がいない分、一人で進まなきゃいけないのに。
「誰だって迷う。神様だって迷う。――だからな、鈴。お前も迷っていいんだぞ。一人で迷いの迷路を抜けられないのなら、抜け出す方法を聞いてもいいんだぞ。誰かを頼っても、いいんだぞ。」
一人でなんとかしなきゃ。こいつはまるで、そう思った俺の心を見透かしたかのように言った。
「誰も、一人では生きていけない。だから、助け合うんだぞ。飛鳥でもいい。桜花でも、アーヴァンでも、なんならハワードやオーガストでも、誰でもいい。一度お前の迷いを誰かに打ち明けてみろ、きっと楽になるぞ。」
きっと楽になって、お前は今よりきっと強くなる。
そんなことを無邪気な笑顔で言われるものだから、鈴は思わず笑った。
「なんで笑う。」
「いやな、お前見た目は子供なのに、やっぱ年上なんだなって思ってさ」
ああ、本当、父さんや母さんとか、じいちゃんばあちゃんが言いそうな言葉だよ、それは。長い人生経験を積んだうえで、進むべき道を示してくれる言葉だよ。
「あ、当たり前だぞ!お前、衣をなんだと思ってる!」
躍起になる姿がまた可笑しいものだから、鈴はまた笑った。
「わ、笑うな!」
「悪い悪い。……衣、ありがとな。なんか俺、一人で全部やろうとしてたからさ。少しだけど、重荷が下りた気がするよ」
なにも、俺ばかりが背負うものでもなかったのかもしれない。確かに“龍神兄弟”の片割れはいなくなって、“龍神”ではなくただの“神”になってしまったけれど、龍神兄弟の時にはまだ持っていなかった天児の力が、此処に有る。あの時にはまだいなかった仲間が、此処に居る。
「なぁ、衣」
「なんだ。」
「俺は、強くなりたいよ。みんなを守れるぐらい、強くなりたいよ」
「なら、強くなればいい。」
「けど、俺一人じゃダメなんだ」
「ああ、そうだろうな。なら、どうする。」
「お前を頼っていいか、衣。飛鳥じゃ近接戦闘は学べないし、アイツ多分俺に遠慮して手加減しやがる。桜花は飛鳥の相手をするようだし、だったらお前しかいないんだ」
アーヴァン、ハワード、オーガスト。アイツらと手合せをしたいけれど、全員、殻人とかいうツギハギの化け物を追っている。ツギハギを放置してまで、桜花と衣は俺たち“明星”の力になろうとしてくれているんだ。
それに応えたいと、思った。
「いいのか。言っておくが、衣はスパルタだぞ。」
「ああ、知ってるよ」
ふっと笑った衣に、鈴も思わず微笑んだ。
☆
「――どうした、鈴。それで終わりか。この程度でへばっていては、また足を切られるぞ。」
あれから毎日のように、鈴は衣と朝昼晩共にいた。共に、模擬戦闘を行っていた。
桜花も飛鳥も、今日はいない。桜花は嚆矢の所にいるらしいし、飛鳥は辰人に変わって級長になった友人の手伝いをしなければいけないらしく、まだ学校だ。
そんな中、鈴は衣との特訓を開始した。
時間がないんだ。飛鳥は鈴よりも、遥か先にいる。追いつかなければならない。足手まといにはなりたくないんだ。初めて業天を纏ったあの日、何もできなくて悔しかった。情けなかった。力がなくて、ただ逃げるしかできない自分に嫌気がさした。もう、逃げたくないから。
辰人と交わした、飛鳥を守ると言う誓いだけは、永遠に守りたいから。
それに、いつか言っただろう。
――飛鳥。もしお前が俺の先にいるのなら、俺は必ず追いつくよ。追いついて、お前に並べるようになる。そんで、今度はお前の先に進む――。
今は遠い、お前と辰人の立っているその場所。俺が尊敬するお前らは、はるか先にいるけれど、俺もきっと、いつかはそこにたどり着くから。お前を守れるように、お前と一緒にいても、恥ずかしくない自分になれるように。死んだ辰人に笑われない自分になれるように。
迷い続けてた。迷わないと決めても迷ってしまって、その度自分は弱いと嘆いてた。
考えるのは俺じゃない、辰人の仕事だった。けれど今は一人だから、全部俺がやらなきゃいけないんだって勝手に思ってた。でも、違ったんだ。
もう、迷わない。
初めから迷う必要なんてなかったんだよ。
暗闇に沈んだ俺に、手を差し伸べてくれた幼馴染がいた。凹んだ俺に、お前なら立ち上がれると背中を叩いてくれた先生がいた。強くなりたいと願ったら、手を貸してくれる衣がいた。
人は一人では生きられない。無理に一人でやろうとする必要はなくて、辛いときは頼ればいい。支えてもらえばいい。今まで俺を導いてくれた男はもういないけど、支えてくれる少女がまだそこに居るんだから。
俺は、一人じゃないんだから。
見ててくれよ、辰人。俺は、お前との誓いを守れるぐらい、強くなってみせるから。
見ててくれよ、飛鳥。俺は、お前に支えられるだけじゃないって所を魅せてやる。
「この程度でへばってられるかよ。今度こそてめぇの防壁打ち砕いてやるよ、衣ォッ!」
強がりとも言える、粋がったセリフを吐いて己を奮い立たせ、鈴は衣に向けて走った。
まるで鉄壁のようにそびえる羽衣を抜けて、その先へ。先へ、先へ、衣の下へ。
「つぁらあああああああ!」
衣に向けて一直線に放たれた拳、それは衣に届いた。咄嗟に加減はしたものの、しかし確実なダメージとなって衣の肉体を後退させる。
このまま後退した分の距離を詰めて一気に攻め切りたいところだったが、彼女の行動パターンは流石に読めてきた。深追いすれば、刃の如き羽衣が己に四方から襲い掛かり、逃れられなくなってしまう。
よって、鈴はその場から交代する。
「流石だ、鈴。お前はかなり優秀な教え子だぞ。今まで何人かの天児を見てきたが、一度でも衣に触れられるヤツはいなかった。」
「そりゃ光栄だな。それでなんだ、これで免許皆伝か?」
「――まさか。今のお前は仮免許卒業と言ったところだ。ここからが本番、本試験を始めるぞ。」
彼女の動きは、今では手に取るようにわかる。今では彼女よりも速く動けるし、その姿を見失うこともない。今のが仮免許だとすれば、次の試験はどのようなものになるのだろうか。
「初めに伝えておくぞ。天児の使用する祝詞には大きく分けて、三つの種類がある。一つ、一撃必殺技を用いるためのもの。一つ、特殊結界を展開するためのもの。」
そして一つ、己の業天(祈り)を変化させるためのもの。
そこまで言って、衣は目を閉じた。
「妾独、人間に留まりぬ。請はくは衣と裳を許したまへ――移転、天の羽衣“荒塩”。」
彼女の言葉の真意を、鈴には理解できない。しかし、肌で感じた。この祝詞は衣が述べた最後の一つ――業天を変化させるための祝詞であると。
衣の業天、“倉稲”。
それは鉄壁ともいえる羽衣を駆使し、敵の攻撃を悉く無力化する、いわば守りの型。“守りたい”と願う彼女がもたらした、防御のカタチ。しかしおかしい。守ると言う行為には、敵の攻撃を無力化するということの他に、もう一つ手段があるだろう。
その手段とは――。
「今まで教えたものは最低限の動き、そして攻めの型だ。次は、生きるための型を学んでもらうぞ。」
その手段とは、敵を攻撃することである。
攻撃は最大の防御。やられる前にやれ。絶対防御などというものは“守りたい”という願いの一面でしかなく、所詮は受け身の型である。真に守りたいと願うなら、己の守りたいものを害する異物を悉く排斥すればいい。
ここに癌にかかった男がいるとする。彼は己の命を守りたい。そんな彼に、二つの選択肢が示された。
一つ、癌を抑える抗がん剤を飲むこと。
一つ、癌を完全に排斥するため手術をすること。
己を守るという行為において、前者がいわば、相手を害さず解決しようとする守りの型。後者がいわば、敵を攻撃し排斥し解決しようとする攻撃の型。
ただ抗がん剤を飲むと言う守りの型に、覚悟はさほど必要としない。そうしなければ死ぬと分かれば、誰でも延命の手段を取るは必然であるが故に。
しかし、手術という命の危険が絡むという攻撃の型は、誰もが望むわけではない。癌を排斥した上で延命するという利益の他に、己の命に危険の伴う手術という不利益を被らねばならないからである。これはすなわち、ただの延命とは異なり、己の死を覚悟した延命であると言うこと。
それは衣に関しても同じだ。攻撃の型に転じると言うことは、守るべきモノを守る盾を放棄する代わり、守るべきモノに触れさせず、確実に相手を葬り去るという決意の表れだ。攻撃は最大の防御。やられる前にやれ。リスクを背負う覚悟がある上で、己は最強の矛というカタチの最強の盾へと成り変わるということなのである。
繰り返すが、天児の強さはその精神によって左右される。
さほど覚悟を必要としない、鉄壁を誇る最強の盾。そして並ならぬ覚悟を決めて転じる、最強の矛。どちらがより強い精神を必要とするか――すなわち、天児として強い力を発揮できるかは、今更言うまでもないだろう。
今の彼女を、これまでの彼女と思ってはならない。
衣の業天は、祝詞により変化を始めた。羽衣はより細く、より多く。数百もの針のような暴虐的な形へと姿を変えていき、大切なものを守るための型が攻撃するための型へ変化したのだと目に見えて理解できる。また彼女の顔につけられた狐面も変化を始め、さながら鬼面のような恐ろしい形相へと成り変わった。
けれど変わらず彼女の業天は美しい。鈴に負けず劣らずの白銀で、穢れを知らぬ輝きだ。しかし鈴の輝きが永劫たる明けの明星、その輝きだというのなら、衣の輝きは未だ罪を背負わぬ刃、その輝き。それはすなわち、これより殺しの穢れを知り穢れに染まり、二度と戻らぬ刹那の輝き。
「これより祈りは守護より攻撃へと移行する。留意せよ、此の御姿では先ほど温くは無い。」
――怨敵退散。
怨敵退散、怨敵退散、怨敵退散、滅、滅、滅。
二度と奪わせぬ、二度と失わぬ、この幸奪うもの在らば、妾が其の者、皆悉滅しよう。
目には目を。歯には歯を。守るという願いを胸に秘めた女神は、鬼を狩るため鬼となる。
「鈴、征くぞォッ!」
衣が一歩踏み出した。
とん、という軽い音と共に踏み出した彼女だが、その迫る速度はもはやこれまでの彼女と比べものにすらならない。
「速すぎんだろッ!」
彼女が一歩を踏み出した刹那、彼女の姿を見失った。
見えなかった。わからなかった。
今のは彼女の羽衣が視界を邪魔したわけでも、彼女が他に何をしたわけでもない。
ただ純粋に速すぎた。ただ単に鈴が目で追うことが出来なかった。それだけだ。
故に、冗談じゃないと鈴は叫ぶ他ない。
鈴の特性は、己の加速、そして体感速度を加速した己の域に合わせること。ということはつまり、今の衣は加速した鈴ですら到底追えるものでは無かったということ。
これをふざけるなと言わずしてなんという。
速度という己の土俵を奪われた。それも、己の目で追えぬほどに。でありながら、彼女の土俵は速度に非ず、その攻撃にあるという。そんなのどうかしてる、冗談じゃない。
「けど……やるしかねぇなら、やってやる」
己の速度という土俵を奪われた。ああ、大変だ、もうどうしようもないってか。少し前までの俺なら思ってたかもしれないが、今は違う。それがどうしたと声を大にして言ってやる。自分の土俵を取られた?だったら取り返せばいいだけの話だろう。当たらなければ、攻撃などに意味はないのだから。
拳を握る。周りを最大限警戒する。足が千切れようと、必ずお前の攻撃を避けてやる。
――加速しろ。もっと速く、なにより速く。
願えば願うほど、鈴の業天“白煌”に埋め込まれた白銀の水晶が輝きを放つ。
ああ、願うならば応えよう。お前に力を与えよう。
胸に宿る神様が、呟いた気がした。
それとほぼ同時だ。
鈴の眼前に、細長い針が迫っているのを視認した。
マズイ。そう思うよりも先に体が動く。加速した鈴の視点からしても速いと感じるその針だったが、右へ跳ぶという咄嗟の判断により回避した。が、衣の攻撃がこの程度で終わるなどとは考えない。背中に殺気。未だ彼女の姿を視認できない以上、全方位から攻撃されて然るべきと考えるのが妥当だ。故、後方からの攻撃があっても疑問には思わない。
軽く足に力をこめ、後方宙返りを行った。宙返りを行うと、その過程で自分の真上から彼女の姿が視認できる。
なるほど、攻撃対象の真上に居れば全方位からの攻撃が可能となるワケか。
そんなことを冷静に考えながら、鈴は後方より迫った針を避ける。
当て損ねた針は鈴の立っていた位置を深く貫いた。アレが刺されば、おそらく生きてはいられない。今の姿になると、衣自身ほとんど加減が出来なくなるらしい。
加減の必要がないほど、俺は強くなったのだと思ってくれているのだろうか。だとしたら、嬉しいと思う。その思いに、俺も全力で応えたいよ。
一瞬の交錯、刹那の世界。
衣に応えようとする鈴。今度は、その鈴の思いに応えようとする者が、鈴の口を自ずと動かした。
「天地初めて発けし時、神ら、高天の原に天踏みて立てり――」
物質世界というものが現れない、そんな宇宙の初め、有であり無である世界に降り立つ神たちがいた。その神は、大地もなく、海も空も存在しないどこかに立っていたという。
ああ、これはつまりどういうことかと言えば、何らかの原理で宙に浮いていたか、もしくは、己の足場を己で創造していたということだろう。
それが後者であったとするなら、この祝詞はすなわち――。
「移行――業天“白煌”、天踏段」
――己の足場を創造することが可能となる祝詞である。
先に唱えた衣の祝詞が、願いの変化をもたらし業天を変革させるモノならば、彼の祝詞は己の願いを今まで以上に願い、業天を次の段階へと移行させるための祝詞である。衣のように特定分野に特化したステータスを、分野をずらすことにより別分野を特化するのではなく、低い分野を伸ばして隙を減らすモノ。それが、彼の業天“白煌”の移行――すなわち進化。
『天児の能力は進化する』
なるほど、いつか衣が言っていたのはこういうことなのかもしれない。
後方宙返りをする最中、衣を見つけた鈴は、後方回転を続けて再び地に足をつけることはしなかった。代わり――宙を踏み、空中に於いての方向転換を可能とした。
そも、彼の能力は加速。であるのに、何故彼はこの行為を可能としたのか。
此処に、“加速”という概念を成すには、二つの方法が存在することを提唱しよう。
現状彼が行っているように、自身そのものの速度を速めること。これが加速するための一つの方法。
そしてもう一つが、自身を除く森羅万象大三千世界の時の流れの減速――すなわち時の遅延化である。
それは加速ではないと述べる者もいるだろうが、しかし些細な問題だ。己が時の流れを感じるのは、己の動きと他のものの動きを比較してこそ生まれる感覚だ。万象総ての比較対象、その悉くが変わらず動き、唯一、己の主観の時間軸で行動できる者がいるとすれば、その者が世界を遅くしているのだとは、その者を除いては誰も考え至らない。故に、周りが――世界さえもが時間の遅延が発生していると判断できなければ、加速と認識される。時間を遅延している本人ただ一人を除いた総てが加速と認識している以上、それは加速として処理されるわけである。
そしてこの場合、時神鈴が行ったのは自身の加速に非ず。一定区間内の空気の時間遅延である。
足場となるべき空間内の物質を固定――すなわち限りなく停止に近い状態で遅延すれば、その場には、空気を構成する多くの分子や埃、水蒸気などが動くこともなく留まるだろう。本来、我々人間が空を歩めないのは空気が我々よりも軽いからである。しかし、空気が流れなければ、重い軽いなどとという事実にはまるで意味がない。空気が動かなければ、その空間内に物質が確かに存在する以上、足場が造れぬ道理はない。
水の上は歩けない。しかし、完全に固定された氷の上ならば歩けるだろう。水の量は変わらないが、凍結させてしまえば事態は変わる。空気中を歩ける歩けないというのも、それと同じ原理である。空気の時間自体を凍結させてしまえば、事態は変わる。
己の足場を構築した鈴は、空中を蹴り上げて跳躍、鈴の真上から後方へ跳んでいた衣へと接近する。
あれだけ速いと感じた衣が、今では止まって見える。それはきっと、彼の業天“白煌”が新たな位階へと達したためであろう。位階が変化したと同時、鈴は己をさらに加速させる。加えて、己以外の総てを遅延化し、遅延世界を構築した。
己のみならず、この世界の総てに影響を与える遅延世界、それを構築することがどれだけの難易度かは知らないが、しかし今の鈴は完全な遅延世界を構築することに成功していた。故、この愚鈍な世界に駆けるは、一閃の煌めきとなった彼一人。
一発ぶちかまして、お前の口から文句なしの合格だと言わせてやるよ。
鈴は空を駆け、その拳を振りかぶったその時だ。ほんの刹那という時間の中で、衣の口が笑ったように見えた。
おいおい、まさかこの遅延世界の中で動けるっていうのかよ、お前は。
一度の疑問が、鈴の自信に罅を入れる。ハッタリだろうがなんだろうが、一度抱いた疑問は取り除けず、故に鈴の遅延世界にも歪が生じた。
完璧な遅延世界を完成させていても、その精神が揺らげば不測の事態は免れない。
そして、いくら鈴の姿を追えないと言っても、その歪を逃すほど、衣は甘くはない。
「如何した。何を呆けている。」
即座に状況を判断し、加速した鈴を追った衣は、鈴の背後へと移動する。
鈴はその能力により、足場を構築して空中での方向転換を可能としている。しかし、衣にその力はない。ならば何故、空中での方向転換が可能に――と考えたところで、鈴の周りを囲む針のような羽衣が見えた。
彼女に足場はない。しかし、その羽衣を大地に突き刺し、蜘蛛の巣のように扱うことで方向転換を可能にしているのか――。
考え至ったところで、遅い。
鈴の遅延世界は精神の歪によって崩壊し、そしてその背後には衣の存在。
「確かに強力な力だが、ああ、如何せんお前の心が弱すぎる。」
これでは合格などくれてやらんぞ。
ギュルル、衣の業天である幾千にも別れた羽衣同志が摩擦で発火せんという勢いで纏まり高速回転し、火花を散らす。
「穿てよ刃――蒼天抉槍・錐揉」
さながら電動穴掘り器の如き形を取り、衣の纏う羽衣が鈴の背中を貫かんと迫った。
「ぐ――おおおおッ!」
背後の衣に向き直ると同時、鈴は足場を構築して後方へ跳んだ。しかし後方へ退くだけでは、彼女の錐から逃れることは叶わない。
その刃は空気を引き裂き、対象を必滅せんと更なる回転を増して迫るのみ。
これはおそらく、左右に避けたところで追ってくる。ならば鈴の取るべき行動は二つ。
再び遅延世界を構築し、衣の動きを遅くする。
しかしあれほどの遅延世界を構築するには精神の統一が必要不可欠だ。先は回避行動の後に構築したため精神の余裕があったが、今は攻撃を受ける直前で、しかも回避の方法がないときた。こんな状況で焦らず精神を統一するなど、今の鈴にはまだ無理だ。
ならばもう一つの選択肢を取る他ない。
正面からその技とぶつかって、突破するのみだ。
「らぁぁあああああああああああ――ッ!」
加速しろ、加速しろ。速く、なによりも速く。速く、速く速く速く――。
言ってみれば、彼女の技である“蒼天抉槍・錐揉”は幾何もの針を絡め合わせた巨大なドリルだ。ならば、その針の一つ一つをバラしてしまえば、中央から突破できる。
その針が一体何本あるのかは知らないが、鈴の速度ならば、余さずバラバラに解くことが可能である。
迫る無数の針は、さながら地獄を思わせた。
火炎地獄だの、血の池地獄だの、釜茹で地獄だの、地獄の種類は多岐に渡るが、これは中でも針山地獄。如何なる鎧も、如何なる盾も貫き通し、ありとあらゆる総てを蜂の巣にする鋼鉄の処女。
おそらく、一本だろうと刺されば終わり。刺されば抜けず、一つ刺さればその刹那に振り回され、残る針総てが避ける術もなく貫くだろう。
しかし、鈴の能力は加速だ。貫かれるなら当たらなければいい。ここでもし、彼女の針を捌き切れなければ、己の“助けたい”という願いはその程度であったということ。この局面を乗り切らなければ、どの道これから生き残れない。
決めただろう、もう迷わない。如何なる困難が待ち受けていようとも、迷わずその困難を突破する。必ず、大切な人たちを助けるんだ。
力を貸せよ、神。お前の力が必要だ。
極限の緊張の中、鈴はその業天を輝かせた。
どの針よりも先行し、鈴を貫かんと直進する針を、殴る。その矛先をずらし、まず一本。たかが針の一本を逸らすだけで、とんでもない量の冷汗が溢れたが、いちいち構ってなどいられない。
次いで迫る一本を手の甲で逸らし、二本目。次ぐ二本を回し蹴り、四本。次ぐ針たちはどんどんと増えていき、もはや電線の如く絡み合う。その悉くを回避し、鈴はひたすら前へと突き進む。もはや一つの塊となったそれらを正面から切り崩し、殴り、突破していく。
一〇本を退け、二〇本、三〇本――一〇〇、二〇〇、三〇〇――。
ただの一つのミスも許されない。何本弾けばいいのかもわからない。もはや無限ともいえる刹那の中で戦い続ける鈴は、絶望ともいえる状況にも関わらず魂を燃焼させる。
だが無情にも、彼の眼前には、たかが手足程度の数では逸らしきれないほどの無数の針が迫る。
ダメだ、耐えきれない。そう悟り確信するが、しかし鈴はまだ諦めない。
こんなところで死ねるか、終われるか。馬鹿にすんなよ生きてやる。背中に飛鳥が居たらと考えろ。ミスなど一つも許されない。あらゆる矛先を逸らしてやるから、お前は何も知らずにぐっすり寝てろ。悪夢は必ず覚めるから。夜は必ず明けるから。俺が守る。俺が助ける。いつもの朝を、一緒に迎えよう。そのためにも――絶対に、助ける。
「――ああああああああああッ!」
遅い、遅い、まだ遅い。これで限界ってのか、ふざけんな甘えんじゃあねぇぞ。なあ、俺ならまだまだやれる、こんなもんじゃねぇ。そうだろう、俺に宿る寝坊助よ。まだ目覚め足りてないだろお前、さっさとその目を覚ましやがれ。その力を貸しやがれ。
――すべてを貫く一矢を寄越せ。
ドクンと、心臓が跳ねた。
――攻むは稲妻。守るは堅石。此の身は天津神より賜りし天之麻迦古弓。なればこの腕は――。
祝詞が喉まで出かかるが、それをすんでのところで飲み込んだ。
これは、ダメだ。これはまだ、使えない。
咄嗟に判断した鈴は、以前オーガストへ一矢報いた祝詞を紡ぎあげる。
「撃ちてし止まむの鋭心以ちて臨む其の戦、攻む状は稲妻の如く。戦法正しく、今、誉の勝鬨を上げむ――」
俺に勝利を与えてくれ。必勝の祝詞により、鈴の拳はその瞬間、この世の“時間”という理から外された。
鈴の右手の肘から下は、曖昧な陽炎のようにいくつも重なり、ブレて見える。これこそが、彼の腕がこの世の法則から外れたことを意味しており、現在過去未来総ての拳がこの時間に収束していることを意味していた。
数秒前後の何処かの時間に行われるべき拳戟を、一度に総て叩き込む。
それが、鈴の必殺。己の拳をも犠牲にする、勝ちへの王手。
「滅裂・瞬牙ァァアアッ!」
――粉砕する。粉砕、粉砕、粉砕。幾つもの時間を使用して幾度も放たれるべき拳は、この刹那にひたすら対象を破壊せんと収束する。
眼前に迫る脅威を、大切なものを害する怨敵を、ありとあらゆる障害をこの拳が打ち砕く。
鈴の右拳に触れた針の悉くは、その拳を貫けない。そも触れる前に、数百相当の拳戟を受けて粉砕されていく。
彼の拳の前では、ありとあらゆる矛は無駄。ありとあらゆる盾も無駄。ありとあらゆる物体を時間を超越して砕き伏せるその様は、光陰すらも超えて突き進む矢の如く。
その拳が保つ限り、彼を止められる者はいない。
が、しかし。
「ぐ――」
ぶしゅりと、彼の腕から血が舞った。
それも当然か。彼の一矢は、僅かな時にのみ与えられる、必殺の拳。ほんの刹那の一撃必殺。当たりさえすれば確実に敵を破壊し、粉砕する最強の拳。――だが。刹那の間に敵を完全に滅する単発技であるが故、技のせめぎ合いにはまるで向いていない。対する衣の刃は、数多の鬼を穿つ無数の針。無数であるが故にその万能性は多岐に渡り、せめぎ合いにも向いている。もし鈴がその拳の射程圏内にまで近づけていたのなら、衣の敗北は確定しただろう。
しかし、鈴の拳は届かない。であるなら、鈴の敗北は確定したも同然である。
「くっそぉおおおおおお――」
負けられるか。やられるか。不屈の精神で突き出したその拳が、針によって弾かれた。迫る無数の針が、次々と白煌を貫いていく。身動きが取れないまま大地に叩き付けられた。
「――こはッ」
限界を迎えた鈴の身体は、指ひとつ動かなくなる。
呼吸することがやっとだった。
「なかなかやるな、鈴。流石の衣も、今のは焦ったぞ。」
纏う衣はいつもの羽衣へと戻り、変化した鬼面もまた狐面へと戻った衣が、鈴の隣に降り立った。
あまりに疲労の大きさに、鈴は返事を返せない。
「……呼吸がかなり荒いぞ。大丈夫か。」
今までにないほどの加速をした。新たな祝詞を紡ぎ、人ならぬ動きを行った。加え、時を遅延させたのだ。その疲労はこれまでの比ではないし、正直今にも肺がはち切れそうだった。
「結構、キッツイ……」
絞り出すように言うと、衣が鈴の隣にしゃがみ込む。
倒れこんだ鈴を寝かせる様に羽衣を動かし、顔に近づけた。
「涎を飲ませてやろうか。」
「は?」
一瞬疲労を忘れ、心臓が止まった。
何言ってんの、意味わかんない。なんで俺がお前の涎を飲むの、罰ゲーム?っていうかそれって疲労にも聞くものなんですかねぇ。
「衣の唾液には特別な力があるみたいでな。ハワードの果実ほどではないが、そこそこ傷や病を癒せるんだぞ。試してみるか」
「試しません」
真顔で即答した。




