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嚆矢

 鈴と飛鳥は、襖を開き続ける。

 なかなか、“普遍的潜在意識”とかいう階層にはたどり着くことはできず、それはつまり、未だ二人が人間の知覚でしか物事を感知できていないことを意味していた。

 しかし、二人は天児、人を超えた存在だ。人を超える情報を許容できる器を持っていれば、また人を超える情報を知覚する感覚も有している。神の器として業天を纏って間もないため、人の域を抜けづらいだけである。いつかは必ず、襖の先へとたどり着く。

 こうして、一つまた一つと襖を開けている。イメージするんだ、奥へ、奥へと潜っていく様を――。

 都合、一〇〇〇を超えた襖を開いた辺りだろうか。

 鈴の視界は、光に埋め尽くされた。

 ――否、光というよりは、総ての世界の事象が同時に発生しているとでもいうのか。だがそれもどこか、違うような。

 この場には総ての空がある。

 この場には総ての海がある。

 この場には総ての地がある。

 この場には総ての天候がある。

 この場には総ての季節がある。

 この場には総ての環境がある。

 この場には総ての過去がある。

 過去現在、森羅万象、三千世界のあまねく全ての景色が、そこにはあった。

 高天原から見渡せる、いつもの星空。かつて夏の日に見た、大花火。そして幸福な日々。それだけには止まらない。無限に広がる砂漠、果てしなく続く空、一面に広がるオーロラ……。どこかで、命が生まれた。誰かが死んだ。雲が流れた。雪が降った。太陽が昇った。雲を突き抜けるモノがあり、大地を走るモノがあり、氷塊を割り進むモノがある。大空へ羽ばたく命があり、サバンナを駆ける命があり、北極の海を泳ぐ命がある。多くの人がいて、また多くの命がある。

 これを何と表現すればいいのかはわからない。

 だが確かに、鈴の立っているそこは大地だ。しかし総ての大陸が見渡せる。歩いているのは海だ。しかし総ての海が見渡せる。見上げているのは大空だ。しかし総ての大空が見渡せる。その総てでありながら、ここはそのどこでもない。

 生命すべてが歩む様、万象すべての心理が脳に飛び込み、己の脳を満たしていく。

 しかし、それも当然か。ここは神の世界。並みの人には知覚できぬ深層心理のさらに奥、“普遍的無意識”のその奥――世界のすべてが共有される世界の深層心理――“普遍的万象無意識”ともいえるものが、この場には存在する故に。

 それはつまり、世界の全てが見渡せるということだった。

 この場所を一言で表すならば、この世界の森羅万象ありとあらゆるものが事細かに描かれた巨大な曼荼羅。

 かつて悪い子供を注意していた『神様は見ているよ』という老人の言葉が、これほど的確な表現だとは思ってもみなかった。それほど圧倒的なまでの情報が、この空間には満ちている。

 この場はありとあらゆる場所であり、また如何なる場所ではあり得ない。

 距離など存在しない。時間もない。平面立体、そのような概念もない。いわばここは、直線を超え、平面を超え、立体を超え、そして時間や空間、物理法則といった人の知る概念を超越した場所にあり、またこの場にいる限り、己自身もその概念の干渉を受けない。

 すなわち此処は異界の場所。神話に於いて、地上の遥か天上にあるとされる天津国(あまつくに)――神の住まう場所というわけだ。

「思ったよりも早かったね。もう少し時間がかかると思ったよ。」

 どこからか、声がする。

 その声はどこから聞こえたものであっても、鈴や飛鳥には意味をなさない。この場に於いては、人間の唱える概念も法則も総ては通じない。距離という概念も存在しないため、どこであろうと、語り掛けた者は語り掛ける相手の隣にあることと処理される。

「あんたが、神か」

 鈴が問うと、彼は姿を現した。

 描かれた古代の神々が纏うような服装に、結った長い髪。若々しく綺麗な肌、優しい表情。おおよそ人が思い浮かべる神という存在が、今目の前にいる。心なしか、彼の服は鈴の業天“白煌”と似通っていた。

「初めまして。ぼくが嚆矢(こうし)――“天神”の創設者だ。」

 嚆矢というのは、物事の始まりや、起源を意味する言葉だ。古くに、中国で開戦のしるしに“かぶらや”を敵陣に射たことを起源とする言葉である。

 大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”の創設者、嚆矢。

 なるほど。彼、嚆矢は、己がこの“天神”と何かしらとの間に起こる戦、その開戦のしるしとなる“かぶらや”を放つ切っ掛けになるものであると自称しているのか。

 鈴には“嚆矢”という単語の知識はない。にもかかわらず、それが元から知識として持っていたかのように理解ができた。それもまた、この場所――天津国(あまつくに)の特性だ。

 何故ならこの場所は、過去現在森羅万象、大三千世界。総てが存在する“この世”そのもの故に。

 しかし変だ、彼もてっきり桜花のように昔じみた言語を使うと思っていただけに、嚆矢がいわゆる現代言語を使うことに違和感を感じる。

 もしかしたら、嚆矢が話しているのは、かつての日本言語であるのかもしれない。だが、鈴にはその意味が事細かに理解できる。それもまた、言うまでもないこの場の特性だ。

 だからこそ、彼の言葉は現代言語を話しているように感じたわけだ。

「飛鳥くんも、久しぶりだね。」

「お久しぶりです、嚆矢さま」

「畏まらなくっていいよ。この場では、ぼくもきみも同じような存在さ。」

 それで、と嚆矢は鈴を見る。

 鈴を見る――というのも変な話だ。

 この場に於いて距離という概念が存在しない以上、向きという概念も存在しない。嚆矢の前に存在していた飛鳥は、嚆矢が話を振ろうとする鈴と入れ替わるように移動した。かといって、飛鳥からしてみれば移動したようには感じないし、鈴からしてみても元の位置からは変わらないように感じている。

 嚆矢の意識が鈴に向けられた、と言うべきか。

「きみが時神鈴……だね。なるほど――。」

 見定める様に鈴を見た嚆矢は、素晴らしいと感嘆した。

「『助ける。今、助ける。必ず、助ける。 その手は必ず離さない。もしも離れてしまったら、それでも必ず再び掴んで見せる。もし掴めないほど離れてしまったとしたならば、それでも意地で助けて見せる。そう、例え時を止めてでも――』ああ、どこまでも世のため人のため。常人離れしたものではあるけれど、どこまでも優しい願いだね。」

 必ず助ける、もう二度と失うものか。これは鈴の本質であり、今となっては助けるという願いに染まった鈴の宿す神の本質でもある。

 そして必然、この祈りを手にれるためには、経験しなければならないものがある。

 何よりも大切なものの喪失。そして後悔。

 すなわち、奇しくも風間辰人を失うことこそが、鈴にとっての業。天児として目覚めるために必要な最低条件。また、飛鳥を失いたくない、助けたいと思ったからこそ、天児として目覚めることが出来たというわけだ。

「ちなみにそこの彼女の願いも、どこまでも人のためだ。」

 この場に居れば、鈴にも飛鳥の――そして飛鳥の宿す神の祈りは理解できる。

 ――もしもわたしを守ってくれるなら、あなたの願いを叶えてあげる。わたしの総てをあげるから。輝いているあなたが好き。煌めくあなたが好き。どこまでも白く純粋なあなたが好き。だからどうか、離れないで。わたしはあなたの背中を支えたい――

 これこそが、飛鳥の願い。

 そして必然、この祈りを手に入れるためには、経験しなければならないものがある。

 危機、己を守る存在との出会い。そして恩返し。

 負の状況で本領を発揮する鈴の祈りとは異なり、彼女の祈りはどこまでも暖かい。

 離れたくないという強い思い。危機から救われるという恩を受け、芽生える愛。それに連なる、恩を返したい、彼を支えたいと願う献身の情。

 誰かに助けられ、その誰かに恩を返したいと願うことこそが、彼女の業。

 いじめ問題から助けられ、その恩を返そうと献身する。それこそが、彼女の条件を満たすために運命とやらが導いた事象であったわけだ。

「いいね、きみたちは。実に素晴らしく、美しい。言ってしまえば、狂気的なまでの優しさを持っている。人はそんなにも、誰かのためを思うようにはできていないハズなんだけどね。他の天児にしてもそう、どこか、自分の利を願う節がある。それがないということはつまり、どうやら君たちはかなり高位の御霊を秘めているようだ。」

 ならばと、嚆矢は言った。

「君たちはまるで、夜明けの象徴、雨上がりの空。まさしく我らの希望の光。こうあるべしと正義を示す、その姿勢。そしてどこまでも他人のために、自己もいとわぬその精神。これ以上に神として相応しい器はないよね。」

 自分たちはそんな大層なものではない、思う鈴と飛鳥だが、彼がお世辞を言っているようにも思わない。ならばきっと、自分たちはそういうものなのだろう。

 不思議と、そう思った。

「日本の近代文学の歴史において、明治三〇代の中期にね、“明星派”と呼ばれた派閥がある。彼らは芸術至上主義的浪漫主義――小説に理想を求める非現実主義だった。小説はともかく、理想を求める非現実的主義者……それはまさに、君たちの在り方そのものだとは思わないかい。」

 明けの明星とは、夜が明けた時に見える金星の事だ。

 必ず明ける夜。そこに輝く金星はおそらく、これから始まる一日がいいものであると言う希望の象徴に相違ない。

 誰もの幸せを祈り、助けたいと願う鈴。

 助け助けられ、互いを想い合うことを願う飛鳥。

 非現実主義といえるほどに理想を求める彼らの姿は、まさに明星。彼ら二人をこれほど的確に表現する言葉が他にあるだろうかと思うほど、相応しい言葉である。

「うん、いいね。これは実にいい。君たちには第一級災害直接殲滅活動部隊を組んでもらおうと思っていたんだけどね、その名も今決定したよ。“明星”だ。君たちを、大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”第一級災害直接殲滅活動部隊“明星”に任命する。今後は是非とも、そう名乗ってくれ。」

 満足気に頷く嚆矢。文句などはないし、それが神の意向ならばと鈴と飛鳥は承諾した。

 これで用は済んだのだろうか。鈴が思っていると、嚆矢は思い出したように鈴を見た。

 そういえば、君に聞きたいことがある。

 彼の最後の問いかけに、鈴は何も答えられなかった。


       ☆


 ――気付いた時には、鈴と飛鳥は、自分たちの家の前にいた。

 二人は気付かないうちに手を握っていたようで、互いに顔を見合わせてから手を離した。

 なんだか気恥ずかしく、二人は顔を逸らす。

 いつの間に此処へ戻ったのだろう、とは思わない。

 あの天津国という神の世界は、この世界の深層心理。如何なる場所にもつながっている上に、距離という概念が存在しない。それ故、天津国を出る際に好きな場所に出られたとしても、なんら不思議はないだろう。

「……帰ろっか」

 耳まで赤くしていた飛鳥は、そういった。

「……そうだな」

 二人が分かれ、互いの玄関の前に立った時だった。

「あのさ、鈴くん」

 飛鳥が口を開く。

「ん、どうした」

「あのね、わたし、夜が好きになれそうだよ」

 それは、いつか行った会話の続き。

 鈴は夜が好きだといった。いつか明けるから。いつか希望は訪れるから。

 飛鳥は雨が好きだといった。いつかは晴れるから。いつか希望は訪れるから。

 だから、鈴は言った。

「俺は、雨が好きになれそうだ」

 それだけ聞くと、飛鳥は真っ赤になりながらも笑って、さっさと歩いて玄関を閉めた。

 俺も帰るか。そう思って玄関を開けると、飛鳥は再び玄関を開いて顔だけをこちらに向ける。

「また、明日ね!」

 初めはポカンとした鈴だったが、我に返って言った。

「おう、また明日。学校で」

 家に帰ると、美月から「一度帰ってきてたわよね?」と言われて、そういえば帰ったらすぐに結界に閉じ込められたんだったな、と一日を思い返す。

 階段を上りベッドの上に寝ころんだ鈴は、その手を天井にかざす。

 今日は疲れた。疲れたけれど、それ以上に得るものがあった。

 ぐっと、広げた手を握る。

 この拳で、俺にも守れるものがあるんだ。それを感じ、強く願う。

「助ける。今、助ける。必ず、助ける。そう、例え時を止めてでも――」

 必ず、助けるんだ。

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