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ゲッカビジンが咲く頃に

作者: ウミン
掲載日:2026/09/11

 ゲッカビジンが咲いた夜、僕の心は決まった。


 *


 一時間に一本は、外に出る。


 叔父は肺を悪くしている。煙を立てられる家ではないから、吸うときは玄関を出て、引き戸のすぐ前に立つ。


 灰皿は、越してきてすぐ自分で買った。安いやつである。灰皿を買うという行為が、ここに住むと決めることだった。


 引き戸を閉めると、左後ろの上で明かりが点く。センサーの外灯だ。僕が出てくるたび、玄関先がオレンジ色になる。


 家の中は叔父の時間で動いている。薬と、食事と、通院の日と、夜中に起きる咳。それが優先で、それでいいと思っていたが、二十四時間そうしていると自分の輪郭がだんだん薄くなってくる。


 煙草を吸う数分だけ、僕は誰にも呼ばれない。


 その数分のあいだ、考えないようにしていることがあった。


 れいなのことだ。


 *


 初めて会ったのは、二月だった。


 半年ぶりに友人と集まった、ちょっと遅すぎる新年会。一次会で十分だったのに、誰かが「行こう」と言い出して、そのまま二次会になってしまった。ああいう店は得意ではない。声が大きくて、光が強くて、誰もが少しずつ嘘をついている空気が、僕には重い。


 だから、席についた子が誰であれ、正直どうでもよかった。


「ネイルかわいいじゃん」


 目に入ったから、そう言っただけである。彼女の爪は長すぎず、きれいに整えられていて、地の色に細い線が何本か入っていた。派手ではないのに、手が込んでいるのはわかる。


 彼女は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「最初にそれ言われたの、初めてかもしれません」


「そうなの」


「みんな顔とか、あと名前とか」


「まあ、指のほうが近いし」


 昼はネイリストをしているという。なるほど、と思った。自分の指を自分の名刺にしているわけだ。


 そこからしばらく、彼女は爪の話をした。この線を細く入れるのが難しい、乾く前に触ると全部やり直しになる、だからお客さんには動かないでと言うけれど、みんな喋りながら動く。そういう、どうでもいい話である。どうでもいい話をする人は、僕の経験では信用できることが多い。


 時間が来たとき、彼女が言った。


「このままいてもいいですか?」


 考えるのも面倒だった。


「いーよいーよ」


 それだけだ。あのときの僕は本当に何も思っていない。


 結局、閉店まで喋った。店を出るころには、いい子だな、と思っていた。


 *


 それから、月に一度くらい店に通った。


 金は使わない。素飲みである。ボトルも入れず、決められた時間だけ座って、決められた分だけ払って帰る。店の側から見れば、いい客とは言えないだろう。


 それでも彼女は、僕を見つけると必ず大きな声を出した。


「やっと会えたー!」


 二回目に言われたときは営業だろうと思った。三回目も四回目も同じ調子だったので、途中からどうでもよくなった。営業でもいい。言われて悪い気のする言葉ではない。


 席につくと、たいていこう聞かれる。


「疲れてます?」


「まあね」


「顔に出てる」


「出てないでしょ」


「出てますよ。目の下」


 そう言って、彼女はそれ以上聞かなかった。氷を足して、グラスの位置を僕の右手のほうへ少しだけずらす。僕が左手を膝に置いたままだったのを、見ていたのだと思う。


 元気なのに、大人びている。声は大きいのに、喋りすぎない。かわいらしさと美しさが同じ顔に入っていて、そのどちらを使うかを自分で選んでいるように見えた。


 同伴は、向こうから誘ってきた。


 断った。一度ではなく、何度も。


「今度ごはん行きませんか」


「店の女と飯食ってもなぁ」


「ひどい」


「ひどいか」


「ひどいですよ」


 笑って流していたが、本当の理由は違う。好きになってしまいそうで、嫌だったのだ。


 こちらの生活には、人を入れる隙間がなかった。仕事で手一杯、家のことも控えている。誰かを招き入れたら、たぶんどちらも中途半端になる。だから最初から入り口を閉めておいた。


 それでも三度も四度も断り続けるのは、申し訳なくなってくる。


 一度だけ、行くことにした。


 *


 待ち合わせの駅前に、彼女は十分前から立っていた。私服だと、思ったより小さく見えた。


 食事を済ませ、そのまま店まで歩く。それだけの時間である。


 道すがら、彼女は昼のサロンの話をした。今日は予約が三件で、最後のお客さんがデザインを迷って三十分延びて、そのまま走ってきたという。髪をまとめ直す手つきを見ながら、僕は、この子は今日もう八時間くらい働いているのだなと思った。


「よくやるね」


「え?」


「昼もやって、夜も出て」


「んー、お金のためですけど」


「それだけ?」


 少し黙ってから、彼女は言った。


「自分の店、出したくて」


「サロン?」


「はい」


「いつ」


「まだ言えないです」


 それで話は終わった。規模も、場所も、いつなのかも、僕は聞かなかった。聞けば踏み込むことになる気がした。踏み込みたくない理由が、こちらにあったからである。


 別れ際、彼女が「行きましょうね、また」と言った。返事はしなかったと思う。


 *


 二か月ほどして、僕の誕生日が来た。


 言った覚えはある。前に店で、何気なく月と日を口にした。そういう話はその場で流れていくものだと思っていた。


 その日、彼女は袋を持って席についた。


「はい」


「え」


「誕生日」


「覚えてたの」


「覚えてますよ」


 袋の中は、バカラのグラスだった。


 それだけではなかった。しばらくして店内の照明が落ち、細い花火を立てたケーキプレートが運ばれてきた。店の子が何人か集まって手を叩き、ツレが僕の顔を写真に撮る。


 甘いものは苦手である。ケーキは、ツレと女の子たちに食べてもらった。自分を祝う皿を人に配りながら、僕は妙に照れていた。


「なんで」


「なんでって」


 彼女は、少し困った顔をした。


「言ったのに忘れられてたら、悲しいじゃないですか」


 僕はその意味を、たぶん半分しか受け取っていなかった。ありがとう、と言って、飲み物を頼み直して、話題を変えた。


 嬉しかったのは本当である。ただ、嬉しさをそのまま外に出すのが、僕はうまくない。


 *


 そのあたりから、彼女は僕の話をよく当てるようになった。


 あるとき、仕事の話を少しした。愚痴ではない、と自分では思っていた。彼女は最後まで聞いてから、言った。


「ひとりで全部背負おうとするの、癖ですよね」


 的を射すぎていて、返事ができなかった。


「わかります。私もそうなので」


 そう付け足して、彼女は笑った。


 六つ年下である。知ったときは驚いた。若さを武器にするでもなく、隠すでもなく、ただそこにいる。


 話はよくした。ただ、僕は自分のことをほとんど話さない。聞き役に回るほうが楽だからだ。それなのに彼女は、こちらの言わないことをよく視ていた。


 *


 本名は、一度、聞いたことがある。


 覚えていない。


 覚えようとしなかったからだ。


 本気になってはいけない相手だと思っていた。客と嬢。それ以上でも以下でもない。仮に彼女がそうでない顔を見せたとしても、それはあの場所の技術かもしれない。そう考えて止めておくほうが安全だった。


 だから、聞いたその場で右から左に流した。名前を覚えると、その人が自分の生活の中に入ってくる。入ってこられると困る。困るのは、こちらの都合である。


 器が小さい。今でもそう思う。


 *


 六月の終わりに、叔父の病状が変わった。


 七月のあいだに話がまとまって、僕がこの家に入ることになった。引っ越しは八月の頭。仕事は持ってこられるが、店には通えない。距離の問題である。


 決まった日、僕は彼女に連絡した。


——ちょっと事情があって、遠くに引っ越すことになった。


——叔父の面倒を見ないといけなくなって。


——だから、もう店には行けないと思う。


 そして最後に、一行だけ足した。


——もう連絡しなくて大丈夫。今までありがとう。


 自分では、誠実なつもりでいた。行かない客に営業の手間をかけさせるのは悪い、という理屈である。本当のところは、そうやって先に切っておけば切られずに済む、と思ったのだろう。


 既読はすぐについた。返事は少し遅れて来た。


——え、遠いってどこ?


——大丈夫なの?


 連絡しなくていい、という一行には、触れてこなかった。


 *


 それから彼女は、二、三日に一度、必ず連絡をくれた。


——今日あつすぎた


——お店めっちゃ混んでた!


——叔父さん元気?


 何でもない文面ばかりである。返さない日もあったし、返しても素っ気ない日もあった。それでも途切れない。


 地震のあった朝には、朝のうちに来た。


——地震大丈夫!?


——毎回そなえないとって思うけど何もそなえてない


 一度、僕の返信が三日空いたことがある。そのとき彼女は、こう送ってきた。


——ねえ待って私としたことが!


——返信来てないと思って心配でLINE開いたら既読つけちゃってたごめん!!!!!


 猫が泣いているスタンプが続いた。


 大丈夫だよ、とだけ返した。


 店は続けている。夢のためである。彼女は辞めないし、辞めるつもりもない。だから、僕が行かなくなったことと彼女の生活は本当は何の関係もないのだ。関係がないのに、彼女は連絡をくれる。


 その意味を、僕は考えないようにしていた。


 *


 叔父の家の玄関先には、鉢がいくつも並んでいた。


 庭を作ったのは叔母のほうだ。その人は二月に亡くなって、それから半年、誰も手を入れていない。


 古い家は湿気がひどい。湿度が上がりやすい部屋に除湿器があり、計三台になる。動かすと一台で二リットル近く溜まった。それを毎日、風呂場まで運んで流す。面倒だったし、それ以上にもったいなかった。


 どうせ捨てるなら、軒下の鉢にやろうか。雨の当たらない場所にあるものは、この半年、一滴ももらっていないはずだ。


 それが習慣になった。夜、タンクを抱えて外に出て、鉢を順に回っていく。何の植物なのかは、どれも知らない。今でも知らない。


 その中に一株、妙なものがあった。


 平べったい葉が鉢から溢れて、壁際を這うように伸びている。葉なのか茎なのかもわからない。生きているのか枯れているのかも、判断がつかなかった。


 名前は、そのとき知らない。


 *


 八月の下旬。水をやり始めて二週間ほど経った夜のことである。


 煙草に火をつけて、二口ほど吸ったあたりだったと思う。灰を落とそうと手を動かした、その先に白いものが見えた。


 目を上げて、息が止まった。


 白い花が、四輪、咲いている。


 気づいた途端、匂いがわかった。甘い。けれど重くない。夜の空気に細い糸のように混じっている。ずっとそこにあったはずなのに、目に入るまで届いていなかった。


 手のひらより大きい。幾重にも重なった花弁が外へ反り返って、その外側から細い萼が放射状に伸びていた。暗い葉の茂みの中で、そこだけが別の明るさを持っている。


 あの、名前も知らない株である。


 思わず写真を撮って、AIに聞いた。これは何の花ですか、と。


 月下美人。


 返ってきた答えを、二度読み返した。言葉としては聞いたことがある。どこかで、何かの喩えとして耳にした覚えがあった。それが花の名前だとは知らなかった。


 続きにこうあった。夜に咲いて、一晩でしぼむ。


 一晩。


 目の前のものを見直した。あと数時間で、これは終わるのか。


 それから、花言葉を調べた。


 艶やかな美人。儚い美。儚い恋。


 そして——ただ一度だけ会いたくて。


 画面を見たまま、しばらく動けなかった。


 冗談みたいだと思った。誰が付けたのか知らないが、よくできている。夜にしか咲かない花に、そういう名前と、そういう言葉が付いている。


 半年、誰の手も入っていない株だ。枯れていると思っていた。僕がやったのは除湿器の水を捨てる作業で、世話と呼べるものではない。それでも咲いた。


 そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。


 通知ランプが、緑に光る。


 れいなだった。


 文面は覚えていない。何でもないことだったと思う。


 返事を打つ前に、僕はさっき撮った写真を送っていた。


——今、これが咲いてる。


 既読は、すぐについた。


——えっ、きれいだね。


——すごい! これゲッカビジンだよね。


——ゲッカビジン見て、私のこと思い出してくれたの? うれしいなにそれ。


 そこまで読んで、僕は引き戸の前にしゃがみ込んだ。


 彼女は名前を知っていた。僕は今さっき知った。


 思い出した、のでもなかった。


 忘れていなかった、のだ。


 考えないようにしていただけで、僕はずっと彼女のことを考えている。花を見て真っ先にスマホを掴んだのが、その証拠ではないか。誰に見せたいかなんて、考える前に手が動いていた。


——そうかもしれない。


 打てたのは、それだけだった。


 朝、見に行ったら、四輪ともしおれて垂れていた。


 *


 それからも、水をやり続けた。


 習慣は変わらない。ただ、あの株の前で立ち止まる時間が少し長くなった。


 家の中のことも変わらなかった。良くも悪くもならない日が続く。れいなからの連絡も、二、三日に一度、変わらずに来た。僕は前より少しだけ、ちゃんと返すようになっていた。


 あるとき、彼女がこう聞いてきた。


——ねえ、どんな花がすき?


 急すぎん? と返してから、少し考えて、レンゲソウ、と打った。田んぼいっぱいに咲いているのを子どものころ見た記憶がある。


——レンゲソウを初めて聞いた


——かすみ草しかわからない


 花瓶を探しているのだという。自分の店に置きたいが、どんな花にどんな形が合うのか、まるでわからない、と。


 僕は昔、祖母に生け花を少し教わっている。何を主役にして、何を引き立て役にするか。高さを出すのか、丸みを出すのか。それによって器も変わる。そう書き送った。


——むずかしいね


——色んな形見てみたけど全然わからなくなって、もう探すのやめた!!笑


 三日後には、そうなっていた。


 僕は笑って、いいんじゃない、と返した。


 会えないのに、会っているみたいな距離である。それが心地よくて、同時に、少し怖かった。


 *


 九月の頭。水をやり始めて、ちょうどひと月が経った頃だ。


 その日は台風だった。


 夕方から風が強くなって、夜には横なぐりの雨になる。倒れそうな鉢を壁際へ寄せた。あの株は大きすぎて、どうにもできなかった。


 深夜、雨が少し弱まったとき、煙草を吸いに外へ出た。


 引き戸を閉めると、左後ろで外灯が点く。


 咲いていた。


 一輪だけ。


 軒の下でも、横殴りの雨は吹き込む。風に叩かれて、株全体が斜めに傾いでいた。花はこちらを向いていない。横向きに、外へ突き出すように開いている。正面から見せてくれない角度である。萼の細い糸が濡れて光っていた。


 オレンジの光が、花弁の片側だけを染めている。


 僕が出てこなければ、この明かりは点かなかった。誰も見ないまま、暗いところで咲いて、暗いところで閉じていたのだろう。


 立ったまま、しばらく見ていた。


 この花は、僕が水をやったから咲いたのだろうか。それとも、もともと咲く時期だっただけで、僕は関係ないのか。たぶん、その両方だろう。誰にも見られないところで準備をしていて、そこにたまたま、除湿器の水を捨てる人間が現れた。


 準備をしていたのは、花のほうである。


 スマホが震えたのは、そのときだった。


——おつかれさま。そっち台風大丈夫?


——ねえ、前に連絡しなくていいって言われたけど、私、やめなかったでしょ。


——あれ、意地でもなんでもなくて。


——ずっと待ってるから。


——お店でも、お店じゃなくてもいいから。会いに来てほしい。急がなくていいよ。そっちのことが落ち着くのを、ずっと待ってるね。


 画面を、三回読んだ。


 返事を打とうとして、打てなかった。


 嬉しかった。それは間違いない。けれど嬉しいと思った次の瞬間に、自分がこの半年でしてきたことが全部並んで見えてしまった。同伴を何度も断った。誕生日の袋を、ありがとうの一言で受け取った。名前を覚えなかった。連絡しなくていいと言った。どれも、自分では理由があったつもりのことだ。


——ありがとう。


 結局それだけ送って、スマホをポケットに戻した。


 *


 台風は朝までに抜けた。


 翌朝、一本吸おうと外に出たら、足元に蝶がいた。


 黒い。翅を広げると、白い斑と青い筋が入っている。タテハチョウの仲間だろう。名前は知らない。


 近づいても逃げなかった。翅を半分だけ開いて、石畳に伏せている。死んでいるのかと思って指を近づけたら、ゆっくり翅が動いた。生きてはいるようだ。


 翅の縁が、ぼろぼろに欠けていた。


 病気とか怪我とか、そういうふうには見えない。ただ擦り切れている。飛び続けた結果だろう。何度も風を受けて、何かに当たって、そのたびに少しずつ削れて、それでも飛んで、昨日の風に落とされた。


 僕は家に戻って、砂糖水を作った。


 小皿にそのまま張ったら溺れるだろうと思い、ティッシュをちぎって浸した。青い縁の小さな器に入れて、外へ持っていく。


 蝶を指で慎重にすくって、上に置いた。


 しばらくして、口吻が伸びた。細い糸のようなものが、ティッシュの表面に触れている。吸っているのかどうか、よくわからない。翅は開いたり閉じたりしていたが、飛ぶ気配はなかった。


 一時間経っても、変わらなかった。


 二時間経っても、動かない。


 僕は蝶を、月下美人の鉢のところへ運んだ。理由があったわけではない。この家で一番、生きている場所だと思ったのかもしれない。葉の茂みの、風の当たらないあたりへそっと置いた。


 翌日、そこに蝶はいなかった。


 飛んだのかもしれない。そう思おうとした。けれど翅のあの欠け方を見ていたし、二時間動かなかったのも見ている。どこかに落ちたのだろう、というのが、たぶん正しい。


 *


 砂糖水を作ったこと自体は、間違っていないと思う。皿に張れば溺れるからティッシュに含ませた。調べて、考えて、手を動かした。やれることはやったつもりである。


 つもり、というところが問題なのだ。


 あの蝶に本当に必要だったものが何だったのか、僕は知らない。知らないまま、自分の思いつく範囲でできることをして、それで足りると思った。足りなければこちらの誠意は済んでいる、と思っていた節すらある。


——もう連絡しなくて大丈夫。


 あれも同じだった。


 相手の負担にならないように。行かない客に手間をかけさせないように。自分なりに、ちゃんと考えた末の言葉である。


 考えた末に、間違っていた。


 彼女が欲しかったのは、その配慮ではない。ではなかったことを、二、三日に一度、彼女はずっと言い続けてくれていた。文字にせず、ただ連絡を切らさないことで。


 届いていた。


 届いていたのに、僕は気づかないふりをして、玄関の前で煙草を吸っていた。


 *


 夜、いつものようにタンクを抱えて外に出た。


 月下美人には、花がひとつもない。しぼんだ萼がいくつか垂れているだけだ。それでも葉は濃くて、暗がりの中で壁に沿って伸びている。


 この株は、たぶんまた咲く。


 一晩で閉じるのは花であって、株ではない。半年放っておかれても生きていたのだから、そういうものなのだろう。


 ただ一度だけ会いたくて。


 あの花言葉は、たぶん、見る側の願いだ。年に数えるほどしか咲かないから、一度でいいから見てみたい。そういう気持ちに名前が付いている。


 でも僕は、もう二度見てしまった。


 一度だけでいい、とは、もう言えない。


 待っている、と彼女は書いた。


 待たせない、と返すのは今ではないだろう。この家のことがある。仕事もある。すぐには動けない。


 それでも決めた。


 必ず、会いに行く。


 急がなくていいことと、いつでもいいことは違う。理由をつけて先延ばしにするのは、もうやめる。あれをやると、こちらの気が済むだけで相手には何も届かない。砂糖水と同じだ。


 そのときは、まず名前を聞こう。


 源氏名ではないほうを。一度聞いて忘れたことも、正直に言う。今度は忘れない。忘れないように、その場でメモを取ってもいい。かっこ悪くてもかまわない。かっこよくあろうとして逃げるより、ずっといい。


 それから、花瓶の話をしよう。


 彼女は探すのをやめたと言っていた。何を主役にして、何を引き立て役にするか、一緒に決めればいい。あれは、ひとりで決められることではないのだ。


 スマホを出して、打った。


——落ち着いたら、じゃなくて、近いうちに会いに行く。


——日にち、決める。


 送信して、煙草に火をつけた。


 左後ろの外灯が、濡れた葉を光らせている。僕が出てきたから点いた明かりだ。煙はまっすぐには上らない。少し迷ってから、株のあるほうへ流れていった。


 通知ランプが、緑に光った。

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