帰還せし者 (The One Who Returned)
夜が第二の皮膚のようにライネックスを包み込んだ。
一歩、また一歩。その足取りは以前とは違っていた。
重いわけでも、軽いわけでもない。
ただ……「確かな」ものへと変わっていた。
足下の濡れた地面は、もはや野生の森ではない。街の片隅——放置された境界線。泥、割れたコンクリート、伸び放題の雑草が川沿いの道に広がっている。遠くで街灯が明滅し、彼の立つ場所をかろうじて照らしていた。
寒さはもう、以前ほど身を刺さない。
かつては恐れの対象だった暗闇さえ、今は……「馴染み深い」ものに感じられた。
川で焼かれたような胸の痛みは残っているが、呼吸は次第に整っていく。
まだ、感じることができる。
あの水。
窒息の感覚。
すべてが終わりかけた、あの瞬間を。
指先がぴくりと動いた。
「……俺は、死んだんだ」
彼は呟いた。
だが、死んではいない。
それこそが問題だった。
普通の人間は、あんな状況から戻っては来られない。
普通の人間は、皮膚の下を這い回るようなこの「力」を感じたりはしない。
足下で、かすかな亀裂の音がした。
ライネックスは立ち止まり、視線を落とす。
アスファルトの破片が、彼の踏みしめた圧力だけで砕けていた。
瞳が細められる。
「……見間違いじゃなかった、か」
彼はゆっくりと屈み、泥とコンクリートが混じり合う湿った地面に手を置いた。
今度は、集中する。
恐怖ではなく、胸の奥にある「黒い脈動」に。
一瞬——何も起きなかった。
だが、その時。
かすかな震え。
砂利が動き、一粒の石が彼の指先に向かって転がってきた。
ライネックスは息を呑む。
本物だ。
俺は、ここにいる。
小さな笑みが形作られた。安堵ではない。もっと鋭い何か。
「……いい。これでいい」
立ち上がった時、彼はようやく気づいた。
制服が、無残に裂けていることに。
ずぶ濡れで、泥と水、そしてかすかな血の跡に汚れている。
重く、台無しになった布地が肌にまとわりつく。
袖を掴む手が強まった。
「……クソッ……」
一瞬だけ、人間らしい感情が戻ってきた。
死への恐怖ではない。もっと矮小な、日常的な懸念。
なんて言えばいい?
厳格な父の声。心配性の母の瞳。
『何があったの?』
その声が、すでに聞こえるようだった。
ライネックスは顔を背け、顎を引き締める。
話せるわけがない。死んだなんて。
自分の中の何かが……変貌してしまったなんて。
指に力を込めると、掴んだ布地があり得ない形に歪んだ。
「……転んだって、言えばいい」
彼は囁いた。
そんな子供騙しの嘘、母さんにはすぐに見抜かれる。
いつだってそうだった。
その考えが脳裏をかすめ、一瞬だけ表情が和らいだ。
だが、すぐにそれは消え去った。
思考は再び「彼女」へと向かう。
母。
あの疲れ果てた笑顔。
自分を待ち、信じてくれている存在。
瞳が硬質に冷え切る。
「……遅くなった」
彼は動き出した。
そして、走り出す。
本来出せるはずのない速度で。
水たまりを蹴立て、夜道に足音が響く。遠くの街の光が、秒速で近づいてくる。
心拍があの「異質なエネルギー」と同期していく。
一歩ごとに、より強く。より制御され。より——危険に。
そして——
彼は止まった。
唐突に。
本能が警鐘を鳴らしていた。
空気が……重い。
視線を前方の路上に落とす。
足跡だ。
新しい。
自分のものではない、複数の、ブーツの跡。
路肩の泥に深く刻まれた、その痕跡。
ライネックスの胸が締め付けられる。
「……早く来すぎだ」
一週間も早い。
爪が手のひらに食い込む。
記憶がフラッシュバックした。
嘲笑。脅迫。
『来週だ……』
嘘つきめ。
呼吸は静かになっていく。
だが怒りは研ぎ澄まされ、完璧に集中していた。
「……大人しく待っていればよかったものを」
彼は低く囁いた。
頭上の街灯が一度瞬き、それから安定した。
暗闇の中で、彼の瞳が淡く発光する。
恐れも、躊躇もない。
あるのは、ただ一つの「殺意」だけだ。
ライネックスは再び踏み出した。
もはや迷いはない。
目的はただ一つ。家へ。
光り輝く市街地へと続く足跡を追いながら、彼の中の何かが完全にシフトした。
それはもはや守るための力ではない。
彼は——「狩る」準備ができていた。
街の光が近づく。
冷たく、命の通わない光。
ライネックスは足音を消し、慎重に、冷徹に歩みを進める。
足跡はまだ続いている。生々しく、はっきりと。
彼の家の方角へと。
指先が疼き、黒いエネルギーが皮膚の下でうごめく。
奴らは近い。
理由は分からないが、確信があった。
通り過ぎる車のヘッドライトが闇を切り裂き、彼の影を路面に伸ばす。
細く、歪み、異形を孕んだ影。
それは一瞬で元に戻り、彼は歩き続けた。
そして——
「……カバン……」
声が漏れた。
遠く、他人事のような声。
通学カバンがない。川か、あるいはどこかに落としてきた。
教科書も、ノートも、すべて。
一瞬だけ、普通の少年としての感覚が戻ろうとする。
母さんになんて言おう。疲れ果てた彼女の顔が浮かぶ。
「……関係ない」
彼はそれを、完全に切り捨てた。
市街地の音が戻ってくる。遠くの喧騒、誰かの話し声、犬の吠える声。
慣れ親しんだ通り。古い家々。微かな明かり。
ここは彼の「庭」だ。家はもう、目と鼻の先。
その時——
一匹の犬が路傍にいた。
痩せた、茶色の犬。
「……また、お前か……」
声がほんの少しだけ和らいだ。
覚えがある。ある日の午後、余り物を分けてやった犬だ。
以前は尻尾を振り、懐いてきたはずの……。
一瞬、彼の瞳に人間らしさが宿る。
犬が彼を見た。
動きを止め、尻尾をぴくりとさせた。
そして——
吠えた。
激しく、攻撃的に。
そして、怯えるように。
牙を剥き、体を低くして、後ずさりしながら吠え立てる。
ライネックスは凍りついた。
「……何……?」
鳴き声は悲痛なまでに鋭い。何かを警告するように。
あるいは、彼を——恐れている。
瞳から温もりが消え、代わりに冷徹な何かが入り込む。
「……お前までもか……」
声が沈む。空虚に。
犬は悲鳴のような声を上げると、背を向けて闇の中へ逃げ去った。
ライネックスは沈黙の中に立ち尽くす。
何かがおかしい。自分が、自分ではないような感覚。
だが、止まることはできない。
家へ。真実へ。
見慣れた家々が見えてくる。窓の向こうに灯る、平穏な光。
だが、一軒だけ——「自分の家」だけが違っていた。
ライネックスは立ち止まる。
家の前に、人が集まっている。
動く影。低く、不明瞭な話し声。
胸が締め付けられる。恐れではない。それよりもずっと、悪い予感。
頭の中が、静かではいられなかった。
怒り。不安。内なる闇の囁きが大きくなる。
「……そこに、いるのか」
声はほとんど聞き取れないほど小さかった。
ゆっくりと、拳が握られる。
周囲の空気が再び重さを増した。
一歩、また一歩。
彼の視線は、家の前の人影に釘付けになる。
「かつての自分」という残骸が、遠くへ滑り落ちていくのを感じながら。
近づくにつれ、人影の正体が判明する。
近所の人々だ。不安げに、顔を見合わせ、囁き合っている。
「……どけ」
冷徹な声。
人々が驚いて振り返る。
その表情は、一瞬で変わった。
衝撃、同情、そして——恐怖。
誰かが道を開けた。
ライネックスは迷わず突き進む。
そして——見てしまった。
母だ。
地面に横たわり、動かない。
あまりにも、静かに。
彼の世界が、止まった。
「……母さん?」
声がわずかに震える。
傍らに膝をつき、触れるのを躊躇うように手を浮かせ……そして、そっと腕に触れた。
冷たい。
「……何があった」
答えはない。
だが、わずかな動きがあった。
彼女の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「……ライ……ネックス……」
胸が痛いほどに締め付けられる。
「……ここにいるよ」
声が柔らかくなる。以前の、彼のような声に。
一瞬だけ。
彼女の唇がかすかに弧を描いた。力ない微笑み。
「……遅い……じゃない……」
囁くような、か細い声。
「……俺……」
言葉が続かない。喉が塞がる。
自分の中の「何か」が、感情をせき止めているような、奇妙な感覚。
母の手が弱々しく動き、彼を求めた。
彼は即座にそれを掴み、握りしめる。
「……ケーキ……」
彼女は静かに囁いた。
「……今日……作ったのよ……」
ライネックスは凍りついた。
ケーキ。誕生日。
完全に、忘れていた。
何かが、内側から「パキリ」と音を立てて砕けた。
「……母さん……」
泣きたかった。泣くべきだった。
だが、涙は出ない。
ただ、重苦しい圧迫感だけがある。
心臓が、かつてのように機能していないかのように。
すべてと同じく、変貌してしまったかのように。
「……喋っちゃだめだ。すぐに良くなる」
だが、自分の声には、自分ですら信じられないほど説得力がなかった。
背後で、近所の誰かが言った。
「……轢かれたんだ」
ライネックスは振り返らない。
「……車に。見知らぬ車で、止まりもしなかった……」
沈黙。重く、冷たい沈黙。
「……誰だったのか、暗くて見えなかったんだ……」
ライネックスの手に力がこもる。
表情は変わらない。
だが、瞳の奥で、もっと深い暗闇が蠢いた。
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。救急車だ。
母の指が、弱々しく彼の指を握り返した。
「……ライ……」
彼は顔を寄せる。
「……大好き……よ……」
それが、最期の言葉だった。
手の力が抜け、滑り落ちる。
そして——すべてが消えた。
世界から音が消え去った。
サイレンが到着し、人々が駆け寄り、彼を母から引き剥がそうとする。
だが、ライネックスは反応しない。
ただ、見つめていた。
物言わぬ彼女を。
心は……空っぽだった。
翌日、空は灰色に沈んでいた。
静かで、冷え切った日。
黒い服に身を包んだライネックスは、簡素な墓の前に立っていた。
周囲では誰かが話している。悔やみの言葉。同情の声。
そのどれもが、彼には届かなかった。
棺がゆっくりと下ろされ、土がかけられる。
覆い、終わらせ、完結させる。
ライネックスは動かない。
喋らない。
泣かない。
ただ地面をじっと見つめていた。
「……そうか」
声はほとんど聞こえないほど冷静だった。
あまりにも、冷静すぎた。
自分の中の何かが、ようやく「定まった」のだ。
悲しみではない。嘆きでもない。
もっと冷たく、もっと深い、何か。
両拳を、ゆっくりと握りしめる。
「……やっと、わかったよ」
墓地を風が吹き抜けていく。
最後の一欠片となった「以前の自分」が、彼女とともに埋葬される中、ライネックスはそこに立ち尽くしていた。
もはや、変わることはない。
もう、揺らぐこともない。
復讐、再起、あるいは破滅。
彼が歩むべき道は、漆黒の闇の中に、はっきりと示されていた。




