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火星へ

彼の病が完治したのは、

事故から数年後だった。

特効薬は、

世界を変えるほどのニュースになったが、

彼の部屋は、何も変わらなかった。

歩けるようになっても、

すぐに外へ出られるわけではない。

長く寝たきりだった身体は、

重力を思い出すのに時間がかかる。

それでも、

彼は少しずつ立ち、

少しずつ歩いた。

彼女は、もういない。

それは、疑いようのない事実だと思っていた。

火星へ行く理由は、

確認ではなかった。

弔いだった。

星間ステーションは、

想像していたよりも静かだった。

行き交う人々の多くは、

火星生まれの身体を補助する装置を身につけている。

彼は、自分の身体が

ようやく「地球仕様」に戻ったことを意識した。

火星便の到着ゲートが開いたとき、

人の流れの中に、

一体のアンドロイドが立っていた。

火星の夜を思わせる、

淡い赤色の電子眼。

彼女に、よく似ていた。

偶然だ。

そう思おうとした、その瞬間。

すれ違いざまに、

そのアンドロイドが、かすかに口を動かした。

「……まことサン」

彼の名前だった。

振り返る前に、

火星行きシャトルの搭乗案内が鳴る。

彼は、立ち止まらなかった。

シャトルの座席に身を沈めると、

身体に、軽い違和感が走る。

重力が、少しずつ抜けていく。

地球は遠ざかり、

火星が近づく。

彼は、端末を取り出し、

何も書かれていない入力欄を見つめる。

送る相手はいない。

それでも、指は自然と動いた。

「今、向かってる」

送信先は、設定されていない。

シャトルが、加速する。

赤い光が、視界の奥に滲む。

それが、

彼女のいた場所なのか、

彼女の残したものなのか、

彼には、もう区別がつかなかった



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