愚かな自惚れ男をどうにかしたい私たちの友情
華やかなシャンデリアの光が降り注ぐ王立学園の舞踏会場。
そこは社交界の縮図であり、家格という目に見えない鎖が人々を繋ぎ止めている場所だ。
息苦しさと生き苦しさはあるものの、貴族である限りそこから逃れることは難しい。
「トリニティ、君の瞳は今夜も、夜露に濡れたスミレのように僕の心を震わせるね」
甘ったるい声とともに、伯爵家の次男ゼクスが私の前に立ち塞がった。
私は内心で深いため息をつきながら顔に微笑みをただ貼り付ける。そこに感情は乗せない。
まただ。またこの「クソ男」がやってきた。
「……お褒めにあずかり、光栄に存じますわ」
私は顔の筋肉を微塵も動かさず、短い言葉とともに練習した通りの微笑みを返す。
これは子爵令嬢である私、トリニティが編み出した生存戦略だ。
入学してから約1年間、私はこの男にずっと付きまとわれていた。
どれだけこの男を心底嫌悪していても、相手は伯爵家。
子爵家の娘が真っ向から拒絶すれば、実家の立場が危うくなる。それをどうにかできるほどの政治的立場も、財産も、私の家にはないのだから。
だからこそ、私は心を無にし、精巧な人形のように微笑むことしかできなかった。
それなのになぜか、私とこのクソ男が恋仲であるという噂まで学園では流れていて……。
そして、心底から残念なことに……このクソ男の自惚れは私の想像を超えているのだ。
「おや、照れているのかい? 頬を赤らめないように必死で堪える君の健気さ、愛おしくてたまらないよ」
……照れるって何? どこをどう見たらそうなる!?
このクソ男の頭の中はこんにゃくでできているんじゃなかろうか?
正直なところ、吐き気がするレベルで辛い。
好きでもない男からの……謎のセリフはあまりにも気持ちが悪い。
「……体調があまりよくないので、私はこれで」
「そうなのかい? では僕が君を送って……」
「いえ、一人で帰れますので。では」
私はその場を足早に立ち去る。淑女としてはどうかと思わなくもないけれど、今は一秒でも早くトイレに駆け込みたい。
このクソ男よりも汚物の臭いの方がまだマシかもしれないから。
その途中で背中から鋭い視線が私に向けられていることに気づく。
ちらりと振り返ると……そこにいたのは伯爵令嬢エラン。
この気持ち悪い男の……婚約者である。
その視線に気づかなかったことにして、私は舞踏会場を後にした。
数日後、私は伯爵令嬢エランに呼び出された。
それは予想通りでもあった。
「トリニティ様、忠告させていただきますわ。婚約者のいる男性との距離感には、身を慎み、十分に気をつけなければなりません。それが貴族の令嬢としての礼儀ですわ」
それはそう。まったくもってエラン様の言う通り。
その凛とした声には迷いがない。
ただ、彼女の声音は非難しているのではなく、真摯なものだと感じられた。
エラン様も伯爵家の方だ。
私にはどうすることもできない。できないのだけれど……私はこの1年間で、ずいぶんと疲れてしまったらしい。
「……エラン様。仰ることは痛いほど理解しております。ですが、ゼクス様は伯爵家の方。私のような子爵家の者が、はっきりと拒絶することは……かなり難しいのです。私にできるのは、ただ不敬にならないよう、微笑んで耐えることだけ……肯定も、否定もできぬ身なれば……」
つい。そんなつもりではなく。
やってはいけない反論を思わずエラン様に返してしまったのだ。
やってしまったと思うと同時に……私の微笑みの仮面が崩れた。
そして、涙が頬を流れる。止まらない。
……あのクソ男さえいなければ私はもっと学園生活を楽しめたのに!?
私の瞳から流れる涙を見て、エラン様は目を見開いた。
エラン様は物語に出てくる冷酷な悪役令嬢などではなく、真面目で優しい方だ。
だからさっきの忠告にも棘はなかった。
「……そのようにお辛い思いをなさっていたなんて。わたくしの婚約者が申し訳ありません……どうか、悲しまないで」
「……あ、いえ。これはその……どちらかというと、怒りの涙でございまして……」
人間、泣くのは悲しい時だけではないのである。
領地で奔放に生活していた頃の私であれば、間違いなくあのクソ男を殴っていた。
私を淑女という名の檻に閉じ込めるためのこの学園では、それができないから……辛いのである。
「怒りの……?」
「ええ。なぜかずっと付きまとわれていて、どうにか避けようとしても近づいてくるし、気持ち悪いセリフを並べてくるし……だからといって殴る訳にもいきませんし……」
「まあ、そんな……できれば殴ってほしいくらいの人ではあるけれど……」
「ですよね! ……あ。申し訳……」
「いいわよ、気にしないで。気持ちはすごく分かるもの。あなたも迷惑していたのね。わたくしとは異なる方向で」
「異なる方向……?」
「だって……わたくしをエスコートして会場に入ったら、そこから二歩で置き去りにするような方なのよ? 何度も何度も……いったいどれほど、閉じた扇であの目を突き刺したいと思ったことか……」
「ですよねぇ!」
いつの間にか、私とエラン様は互いの手を取り合って近づいていた。無意識に。
なんということだろうか。
エラン様は私の気持ちを理解してくれる方だった。
エラン様はエラン様で、婚約者の不実と、周囲の噂に振り回されていた被害者の一人だったのだ。
「男なんて、自分の見たいものしか見ない愚かな生き物ね」
「家柄を盾にされるのが一番困りますよ。家柄以外に何もないクセに」
「本当にそう。何のために学園に通っているのか分からないくらい……成績も悪くて」
「成績も? いったい何のために生きてるんでしょうね……? どうしてそれで自惚れることができるのか理解できません……」
「あの方、息をしなくなればいいのにと割と本気で思っているわ……」
「そこまで!? 流石は婚約者というべきでしょうか……」
「やめて……できれば破棄したいくらいなのに……」
私とエラン様はあのクソ男の悪口でひたすら盛り上がる。
こうして……私とエラン様は友人となった。
それ以来、私たちは密かに友情を深めていった。
そして、時は流れ……夏休み前のパーティー当日。
いつものようにあのクソ男はエスコートしたエラン様を入口から二歩で置き去りにして、私へと近づいてくる。
私はこっそりエラン様と目を合わせて、互いに小さくうなずき合った。
「トリニティ、大丈夫かい?」
私は言葉もなく、ただ微笑みを貼り付けて返す。そこに感情は乗せない。
「もう心配はいらないよ。エランに……毎日のように責められていると聞いた。僕に任せてほしい」
エラン様とは毎日のように、このクソ男の文句で盛り上がっていただけである。
その時の言葉遣いはやや乱れがちだったことは否定しない。
傍から見れば……私とエラン様が罵り合っていたようにも……見えなくはなかったかもしれないけれども!
それを多くの方が誤解して……ろくでもない噂が流れていることも知っていた。
私とエラン様はその噂を知りながら……そのまま放置したのだ。それだけ。
「皆、聞いてくれ!」
クソ男がいきなり叫んだ。
「エラン・ガーネット! 貴様が嫉妬に狂い、僕の愛するトリニティに陰湿な嫌がらせを繰り返していたことは全て把握している! そんな醜い心の持ち主は、我が伯爵家に相応しくない! 今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
会場が騒然となる。
「……あいつ、婿入りじゃなかったっけ?」
「成績、かなり悪いからな……もちろん地頭も……」
「理解できてないだけだろう……」
「……ということは、彼女の隣が……」
「待て、そこには俺が……」
「いや、私だ……」
「……くく。計画通り……」
エラン様はお美しく、お優しく……そして真面目で優秀なのだ。
どうやらクソ男だけがそのことを理解していないらしい。エラン様、めちゃくちゃ他の男に狙われてるじゃないか。一人、ヤバそうなのもいるし。いったい誰なの?
でも、私の目が黒いうちは……碧眼だけど……エラン様を誰にも渡さない!
そんなことを私が考えているとも知らずに、自分に酔っているクソ男が大げさな仕草で私の方へと手を差し出す。
「さあ、トリニティ! もうエランに怯えることはない! 君を苦しめていた悪女は排除した! 家格の差も僕が必ず埋めてみせる! さあ、さあ、恥ずかしがらずに僕の胸に飛び込んでおいで! 愛しい人よ!」
……長いセリフが気持ち悪くて限界だけれど、ここは我慢するしかない。
私は一歩、踏み出す。そうするとクソ男が嬉しそうに笑顔を浮かべ――
バカじゃないの?
――その横をしずしずと通り過ぎて、私はエラン様の前に立った。
「エラン様、おめでとうございます!」
「ええ、トリン。本当に、嬉しいわ! ようやく婚約破棄ができたのよ!」
二人で手を取り合って、心の底からの笑顔を交わす。
貼り付けた微笑みではない、本当の笑顔を。
「……え?」
クソ男がギギギ、と首から錆びたような音をさせつつ、私とエラン様を振り返った。
「ト、トリニティ……?」
「……私、一度も名前を呼んでいいと認めたことがないのに……」
「きっと爵位が上だから問題ないと思っているのよ。本当に恥ずかしい方……」
「こ、これは……いったい……」
「……まだ分かってないみたいですよ?」
「永遠に分からないのではないかしら?」
「確かに!」
私とエラン様は互いの手を握り合ったまま、クソ男を振り返る。
このクソ男は……残念としか言いようがないけれど、本気で信じていたのだ。
私が家格の差ゆえに想いを隠し、エラン様に虐められながらも、クソ男からの……救いを待っていたのだと。
バカじゃない? いや、バカだろうけれど。
そのおめでたいまでの勘違いっぷりに、私は爆笑したいのを我慢していた。
「やっておしまいなさいな、トリン」
「いいんですか? エラン様の方が……ずっと恨みは深いはずですし……」
「トリンの方がきっとよく刺さるわ。わたくし、婚約破棄だけで天にも昇るような嬉しさがあるもの。とどめは任せるわ」
「では、僭越ながら……」
私はにやりと笑みを浮かべる。
貼り付けた微笑みではない、いろいろな笑顔を出せるって最高である。
エラン様という後ろ盾を得た今、エラン様と同格の伯爵家など、どうとでもなる! 勝ったな!
「私が心から尊敬し、お慕いしているのはエラン様です。貴方の独りよがりな思い込みには、入学以来ずっと吐き気すら催しておりました」
「は、吐き気……?」
「そうです。気持ち悪くていつも辛かったのです」
「で、でも……僕にはいつも笑顔で……」
「……笑顔? 理解不能です。私、貴方には最低限の微笑みしか向けたことがないと思うんですよね? 相手にしたくないなぁという気持ちを込めたかったけれど我慢していただけで」
「バ、バカな……そんなはずは……君は僕に微笑みかけて……」
「それは『早く消えろ』という意味の微笑みですわ」
私の隣でエラン様がクスクスと、優雅に扇で口元を隠して笑った。
「残念でしたわね、ゼクス様。貴方が心から望んだお相手であるトリンは、私の最も親しい友人ですのよ?」
「あ、エラン様と仲良くなれたのは貴方に対する不平、不満、気持ち悪さや悪寒、どれほど嫌いかという悪口があったからこそですので、そこには……貼り付けた微笑みと同じくらいの感謝はしています」
「そうね。ゼクス様がいなかったら、ここまで仲良くはなっていないかも。ふふふ」
エラン様の笑顔が素敵すぎた。
男子生徒たちがあちこちで陥落しているように見える。
だが貴様らには渡さん! そう簡単に私が認めると思うなよ!
そんな楽しそうな私とエラン様の前で、クソ男は立ち上がることもできずに両手と両膝を床についたままだった。ダメージはデカそうなので満足である。
その後、クソ男であるゼクスの転落は早かった。
婚約者として有力な後ろ盾であったエラン様を公衆の面前で侮辱した愚かさ。
さらに子爵令嬢にすら拒絶された醜態。
それが面白おかしく、瞬く間に社交界中に広まった。
伯爵家は学園を管理している王家からも不興を買い、クソ男は籍を抜かれ、伯爵領の片隅へ「一代官」として追放された、らしい。
詳しいことは分からないし、興味もない。
数ヶ月後の冬休み。
冬でも雪が降らない私の実家の領地邸では珍しく、暖炉に火を入れていた。
「あら、今朝はそんなに寒かったのかしら?」
「違いますよ、エラン様」
エラン様は私の実家にまで遊びにきてくれる。泊まりで、である。
そういう仲……本当に親しい友人として過ごしていた。
「そこに燃えてるのは……」
「あら? 便箋かしら?」
「そうです。あのクソ男からの手紙ですよ」
「まあ! 手紙が届くなんて……いったい何が書いてあったの?」
「さあ?」
「さあって……」
「読まずにそこへ入れたので」
「ああ、そうね。それがいいわ」
私とエラン様は顔を見合わせて、クスクスと笑う。
心から笑える日々。
それを取り戻したのだと。
暖炉の火の中に消えていく何かを見つめながら、私は思ったのだった。
男たちの身勝手な幻想に振り回される季節は、もう二度とやってこない。




