第8話
叶が出て行ったリビングで、いつかは所在なさげに視線を泳がせる。
テラスに続く大きな窓から光が差し込む、明るい部屋だ。部屋のシンボルのような大きな時計は古く、振り子が一定のリズムで揺れている。大小様々な観葉植物が呼吸して、さながら森の秘密基地のようだった。
感じるマイナスイオンに身を浸しながら、いつかはソファに腰掛けてみる。
「…。」
ふかふかとクッションがよく効いて座り心地が良い。たしかに、うたた寝するにはもってこいだ。背もたれに背中を預けながら、いつかは家族のことを思った。
自分の身を心配してくれているはずだ。断言できるほどの信頼感はある。罪悪感を抱くほどの愛情もある。だけどあの家に、そして街にいたら心が壊れてしまうような危機感があった。
「生きるのをやめろ、か…。」
胸の筋肉に針が刺さるような痛みが走る。
父親にとって、今のいつかは生に値しない存在なのか。
美術高校の受験に落ちて、何者にもなれなかった劣等感と美術の道に進めない焦燥感が常に身にまとわりついて離れない。まるで、海岸の砂のようだ。不快さゆえに完全に取り除いたと思ったのに、ふとした瞬間にしつこく現れる。
何度、死ねば良いと自らを呪ったのに、いざ言葉にされると動揺して吐き気がした。
いつかは両手を広げて見つめる。わずかに震えていた。こんなときは画集を開くと決めている。好きな絵を見ると気分が落ち着き、深呼吸ができた。私の心の特効薬だ。
画集をぎゅっと胸に納めるように、抱擁する。
大丈夫。大丈夫。…きっと、大丈夫。
「…!」
キイ、と扉が軋み、開いた。お風呂から上がった叶が髪の毛をタオルで拭いながら、そこに立っていた。
「ん?何してんの?」
「何でもないよ。」
いつかは苦笑しながら、何気なさを装って画集をテーブルに置いた。
「いつか、お腹空かない?」
叶に問われ、いつかは自分の胃が空腹を訴えていることに気が付いた。
「減った。」
「朝ごはん、食べるでしょう。」
「いいの?」
叶は頷く。
「私だけ食べるとか、そんな鬼みたいなことしないよ。」
そして叶に誘われて、いつかたちはキッチン兼食堂に移動した。
「いつかは朝、パン派?ごはん派?」
まあパンしかないけど、と叶は言う。
「私もパン派。」
「なら、良かった。…あー、固くなってる。」
パントリーを覗いていた叶が小さく舌打ちした。
「何?」
「買い置きのフランスパン。カッチカチだわ。」
いつかは考え、叶に問う。
「フレンチトーストにすればいいんじゃない?卵と牛乳、砂糖はある?」
「ああ、そうすれば食べられるか。」
冷蔵庫を見て材料があることを確認すると、二人でキッチンに立った。
叶は器用に片手で卵を割る。目分量で牛乳と砂糖を加えて、混ぜて卵液を作ろうする。そして、ふと手を止めた。
「いつか、あと任せてもいいかな。」
「え?うん。」
いつかは首を傾げて、そして頷く。
「悪いね。片手だと、こぼす確率高くてさ。」
「あ…、そっか。」
材料が入ったボウルを任されて、いつかはかき混ぜていく。その間に叶はフライパンやバターの準備をした。
切ったフランスパンを卵液に浸けている間、叶は自らの右手について語ってくれた。
「いつかも、もう気付いてると思う。わたしの右手が動かないこと。」
「…うん。」
叶は右腕をさするように左手で撫でた。
「昔、交通事故でさ、神経がダメになっちゃったんだ。今では、指先が少し動くぐらい。」
左手で力ない右腕を持ち上げて、見せてくれた指先がほんの少し震えるように動く。そしてぱっと離すと、だらりと右手は垂れた。
「そう、なんだ。」
「まあ、飾りみたいなものだね。」
「触れてみてもいい?」
いつかの申し出に叶は目を少し見開いて、そしてにっと笑う。
「いいよ。」
冷蔵庫に寄りかかるようにして立つ叶の隣に、いつかも立つ。ほんの少し逡巡して、そして手を繋ぐように叶の右手に触れた。
その手の肌は少し冷たくて、指を絡めると徐々に温くなった。力ない指の一本一本の形を縁取るように確かめていく。撫でた爪は伸びてはいるものの、桜貝のように淡い色をしている。きゅっきゅっと緩急を付けて手のひらを揉んだ。そして指の間にある微かな水かきを、爪弾いた。
「…感触はあるの?」
「それも鈍いかな。今触れてるいつかの手は、ゴムみたいな触り心地だよ。」
ごめんね、と叶は呟く。
「何も謝ることはないよ。」
いつかはそっと叶の右手を放す。右手は重そうに揺れた。
「そろそろ焼けるかな。」
叶はひらりと翻るように、キッチン台に置かれたバットを覗き込む。卵液にひたひたに浸ったフランスパンを見て、満足そうに頷いて二人で焼く作業に入った。