第6話
港町の集落を抜けて、森近くまで来た。いつかは何となく距離を取りつつ、少女の後を追う。何となく、こん、と白い小石を蹴ると、いつかの代わりに少女との距離を詰めた。さわさわと木の葉が揺れて、新緑の色が目に優しい。
「着いた。ここ。」
少女に連れられてきたのは大きなお屋敷とも言える、住宅だった。広い庭に、青い屋根の家はまるで絵本に出てきそうな洋館だった。少女は濡れたボトムスのポケットから取りづらそうに古い鍵を出して、玄関の鍵穴に差し込んだ。ガチリ、と重い音が立ち、錠が落とされる。木製の扉が開くと、軋む音が立った。随分と築が深そうだった。
広い玄関ホールには無駄な家具が置かれておらず、随分と生活感を感じさせない。それどころか、この家に少女と自分以外の人間の気配を感じなかった。
それぞれ、学校やもしくは仕事に行ってるのだろうか。
どちらにせよ、大人に今、いつかの存在を問われるのは面倒だったので都合が良い。随分とずるい考え方だと、いつかは自分自身に呆れた。
「一人暮らしだから、気を使わなくていーよ。」
いつかの考えを察したのかどうかは不明だが、少女は絶妙なタイミングでこの家の住人がたった一人だということを告げる。
「…そうなの?え、でも…この大きな家で?」
「まあね。金持ちだから。」
さらりと少女は言い、虚を突かれたようにいつかは目を瞬かせて、笑ってしまった。
「自分で言うんだね。」
事実だよ、と少女も口角を上げる。しばらくクスクスと二人で笑い合った。
「風呂場、使うでしょ。タオルと、着替えの服は出して置いてあげる。」
「ありがとう。」
いつかは背中を押されて、浴室に押し込まれる。少女自身もびしょ濡れだったが、一番風呂は譲ってくれるらしい。
最初の印象から比べると、もしかしたら案外良い奴なのかもしれないと思う。
お湯を貯めた猫足のバスタブに、いつかはその身を浸す。その温かさにいつの間にか強張っていた体の力が抜けるようだった。じんと手足の指先が痺れるようだった。
昼風呂で曇りガラスから差し込む白い光に、湯気が粒子のように見える。見上げた天井からぴちょんと一粒、雫が落ちた。
「何だか変なことになったな…。」
昨日まで別の街にいて、逃げてきた先で風呂に浸かっている。
それでも、少女の厚意に触れていつかの心が解れたのは確かだ。思わず、声をついて笑ってしまう。
「何、笑ってんの?」
「!」
不意に扉越しに少女から声をかけられて、いつかは肩までお湯に浸かった。
「…何でもない、よ。」
「そう?ここにタオルとか、置くから。」
「ありがとう…、」
名前を呼ぼうとして、いつかは少女の名前すら知らないことに気が付いた。
「あのさ、名前…?」
「えー?ああ、そういえばお互いに名乗ってなかったな。」
脱衣所から出て行こうとしていた声が、再び扉の前まで戻ってくる気配がした。
「雪野叶。私の名前。」
「雪野?名字、微妙に被ってるね。私は、柚木いつか。」
ふーんと呟く少女、もとい叶の声がする。
「じゃ、名前で呼ぼうか。紛らわしいし。」
「ええ…?叶さんってこと?」
いつかは些か、照れながら叶の名前を口にする。初対面の人の名前を呼ぶのは、若干の抵抗があった。
「くすぐったいから、さんはいらない。」
「…叶?」
「何、いつか。」
一方で、叶には何の抵抗感もないらしい。さらりといつかの名前を呼ぶ。そして、何かに気が付いたのか、はは、と笑った。
「どうしたの?」
「いや…、いつかと私の名前って、随分とめでたい響きだと思って。」
いつかと、叶。
いつか、叶う。
まるで、対の言葉のようだと思ったことをよく覚えている。
いつかは自分の名前が嫌いだった。
いつか、いつかっていつだよ、といつも心の名前で叫んでいた。いつかじゃなくて、今、自分は必要とされたいのに。
それが叶と出会ったことによって、希望の名前になった。