第4話
「お客さん、終着ですよ。」
眠りの底にいたいつかの意識が、無粋な声に浮上するのがわかる。重い瞼を持ち上げると、そこには添乗員が立っていた。周囲を見渡すと、もう乗客は全員降りた後のようでいつかたった一人だった。
「す、すみません。」
いつかは慌てて身支度を整えて、バスを降りた。時間は早朝のようで、東の空が金色に輝いていた。
何の前知識もない土地で、いつかはどこに行けばいいかわからずにとりあえず歩き出す。いつも重く感じていたセーラー服の生地が、今は少し軽い。自分のことを知る人がいないというのは、気分が良かった。
ふと鼻腔を潮風の香りがくすぐった。近くに海があるのだろうか。
風が生まれる場所を探すように、すん、と鼻を効かせながらその在処を求めて歩を進める。
途中、猫がゆっくりと道を遮っていった。いつかの顔をちらりと見ると、興味なさそうにまた前を向いて路地裏に行ってしまう。
金色の朝日に向かってミャアミャアと海鳥が鳴き、徐々に波の音さえも拾えるようになってきた。
「…見えた。」
視線の先、建物の隙間から青く広がる海原が窺い知れた。もっと広く感じたくて、いつかは鹿のように駆けていく。
そして開けた先、堤防に上がる錆びた鉄製の階段をゆっくりと踏みしめた。
「…。」
見渡す限りの水平線が美しく、視界の縁で丸みを帯びて地球が球体だということを改めて知った。
「海だ。」
太陽の光が水面に反射して、ダイヤモンドを散らしたかのようだった。その目映さに、いつかは思わず目を細める。
遠くでフェリーのような大きな船が浮かび、低く汽笛を鳴らしている。
「っ、あはは!」
随分と遠くまで来たものだ。自然とこみ上げる笑いに、いつかは口元を手のひらで覆う。そのまま鳩のようにくくくと声を漏らして、いつかはスカートの襞を風に孕ませるようにくるりと回転して、膨らませた。足と足の間に吹く風がくすぐったくて、気持ちが良い。
鼻歌を口ずさみつつ、淡く霞む海岸線を辿っていく。温かな光が肌を温めて、頬が上気するようだった。
「…、」
海だけを見つめてた視線をふと陸地に戻すと、離れた場所に立っていつかのように海を眺める少女を見た。
少女は長い睫毛の先、真っ直ぐに海の果てを見極めている。色素の薄い髪の毛はアンバーブラウンに輝き、潮風に煽られて僅かに揺れていた。
視線を縫い合わせたかのように、目が離せない。
少女は瞳を伏せ、そして再び海を見据えてそして。何気なく、海にその身を投げた。
「え、ちょっと…!?」
水飛沫が柱のように立ち、海面には白い泡が幾重にも浮かぶ。
いつかは慌てて、少女が飛び込んだ場所まで急ぎ駆けた。ばっと音を立てるように勢いよく海を覗くも、少女は浮かび上がってこない。
「お、溺れ…、嘘、」
いつかは戸惑い、迷い、それでも何故か彼女を助けねばならないと思った。画集はハードカバーだ。置いていって風に飛ばされることはない、と願う。
少女の後を追って、いつかも海に飛び込んだ。
鈍い水音が立つ。海水の温度に一瞬心臓が跳ねた。初夏とは言え、季節が二ヶ月遅れの海は冷たい。まとわりつくセーラー服が水を吸って重く、それでもいつかはその重みを利用して水中深くに潜る。小学校の六年間、通っていた水泳教室の教えが今、役に立った。
瞼を開ける。眼球が塩分に滲みることなく、水中を見渡すことが出来たのは火事場の馬鹿力だろう。青い、限りなく青い世界にアンバーブラウンの光を見つけた。
いつかは水を蹴り、少女の元へと急ぐ。やがて手が届き、少女を背後から抱えるように水面を目指した。
「っは、あ…は…、」
海水から顔を出して、肺一杯に酸素を補う。それは少女も同じようだった様子で、けほけほと咳き込んでいる。
「はー…、はあ…、」
ゆっくりと呼吸を繰り返して、いつかは少女を抱えながら水面に浮かんだ。耳の奥にまで海水が浸食して、音が鈍って聞こえる。太陽が浮かんだ空が視界いっぱいに広がった。蒼穹は高く、深い。生きている。良かった、二人とも生きていた。