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第2話

自宅前に着くと、父親が仕事に向かう自動車がすでに停まっていた。

「ただいま。」

玄関で靴を脱ぎながら室内に声をかけると、父親と母親のブルゾンのような「おかえり」という声が返ってきた。

「いつか、お弁当箱出してね。」

自分の部屋に行く前にリビングによると、ダイニングキッチンから母親の声がかかる。

「うん。」

鞄から弁当箱の包みを取り出して、母親に渡した。

「あ。あなた、またミニトマトを残して。」

弁当箱にころりと転がるトマトを見て、母親が苦言を呈する。

「苦手なんだもん。」

「全くもう。昔から変わらないんだから。」

初夏の一日、鞄の中にあったトマトを流しに捨てながら、母親はため息を吐いた。

「トマト以外に彩りって、難しいのよねー。」

母親のぶつぶつと呟く声を聞こえないふりをして、いつかは廊下を出る。その扉の前で、新聞を持った父親とすれ違った。

「遅かったな。」

「…うん。」

受験に失敗してから、父親とは何を話せばいいかわからなくなっていた。美術高校の受験を反対していたぐらいだから不合格と言う結果を喜んでいるのかな、などと考えてしまうともう居たたまれない。

「…。」

「そうだ、いつか。」

いつもなら会話を終えるタイミングで言葉を紡がれて、いつかは内心で驚く。

「何?」

「今度、皆で旅行に行かないか?」

父親の提案に、母親も顔を出して「いいわね」と賛成する。

「近場の温泉にでも、車で。」

「…考えとく。」

曖昧な返事をしてしまうが、それでも精一杯の強がりだった。本当は絶対に行きたくない。沈黙の車内を想像すればするほど、胃が痛かった。

今度こそ本当に階段を上って自分の部屋へ向かう。階下で何か言いたげな父親の視線を感じていた。


制服を脱いで、ハンガーにかける。一度、床に放置して皺にしてしまったのは経験済みだ。

部屋着に着替えて、いつかはスマートホンを片手にベッドに寝転んだ。小学生のころから使っているパイプ製のベッドがギシリと軋む。

スマートホンの画面をタップしてゲームアプリのログインボーナスをもらい、ネットやSNSを巡って過ごす。ふと英語の課題が出ていたことに気が付いて、何となく起き上がり勉強机に向かってみた。英文を日本語に訳しているうちにわからない単語が見つかり、電子辞書を備え付けの本棚から取り出した。トン、と指先が一冊の画集の背表紙に当たる。

「…。」

電子辞書と共に、その画集を取り出した。もう何度も何度も見返した大好きな絵画たち。初めて見た一枚はネットで見かけ、そしてたった一冊この画集を作品として出版していることを知った。

美術書の絶版は早く、いつかはそれでもあきらめきれずに街の書店や通販で探し続けた。そして見つけたのは、地方の小さな本屋さんだった。

ホームページからアドレスを見つけ、初めて自らの手で取り寄せをした。満を持して届いた荷物は厳重にビニールに包まれ、開封するときにその手が震えたことを覚えている。

画集に収められた作品は美しい色彩と共に、目映い光や瑞々しい空気感を感じられるものだった。好きな作品のページを何度も見返すものだからそのページが割れてしまい、その都度、いつかは丁寧に画集を修復してきた。

いつかの創作活動の原点だった。

こんな絵が描きたいと、心から思った。

パラ、とページをめくるたびに目に涙が滲む。スランプだなんて陳腐な言葉でごまかしたくない。だけど、今、デッサンすら満足のいく作品を仕上げることができないのは確かだった。

最近、ため息ばかりを吐いている気がする。うまく笑えているのか心配になって、いつかは自らの頬に触れるのだった。


夜、いつかは夕食の席で家族旅行には行かない旨を告げた。

「お父さんとお母さん、二人で行ってきなよ。私は大丈夫だから。」

父親はがっかりしたように眉を下げ、母親は困ったように首を傾げた。

「そんなこと言わないで、行きましょうよ。」

「気分じゃない。」

いつかが箸を置いて、食器を片付けようと席を立つとぽつりと父親が呟いた。

「…そうやって、いつまでふて腐れてるつもりだ?」

「!」

父親の言葉に、怒りと羞恥心が一気に沸点に達した。

今、口を開けばきっとみっともないこと言ってしまう。

いつかは唇を痛いほどに噛みしめて、聞こえなかったふりを貫いてその場を後にした。

逸るような思いで部屋に戻り、クッションを顔に押し当てて声を出さないように泣いた。あんなに流した涙は、まだ尽きない。


翌日はいつかの涙を模したかのような雨だった。

新緑には恵の雨とて、今の気分をより鬱屈としたものにするには充分の湿っぽさだ。

傘の花が咲く通学路を下を見ながら歩いていく。高校に近づくと、不意に肩を叩かれた。

「はよー。いつか。」

「おはよう。」

「はー。朝から、前髪まとまらんくてブルー。」

視線を持ち上げると友人がいて、いつもと同じ代り映えのない会話を繰り返すのだ。

憂鬱の一日を終えて、今日も美術室へと向かう。

扉に手をかけようとした刹那、室内で話す美術部員のおしゃべりの中で自らの名前を聞いてその動きを止めた。

「そういえばさ、いつも教室の隅っこで絵を描いてる人いるじゃん。柚木さん?だっけ。」

「あー、いるねー。」

「あの人いるとさ、部活中盛り下がらない?私たちを見下してる気がしてさ、ほら、私は真面目にデッサンしてますー、みたいな。」

「それな。」

「そんなに好きならさ、なーんで美術高校に行かなかったんかね。近くにあるじゃん。」

「行かなかったんじゃなくて、行けなかったんでしょ。」

くすくすとした嘲笑に挟まれて、いつかの心を抉る一言が放たれる。

「そんなにうまくないもんね、絵。そもそも完成すらさせてないし。」

まるで重い鈍器のようだと思った。言葉は繰り返しいつかの心を殴りつけ、ひと思いにとどめを刺さない。せめて鋭利な刃物で気付かないうちに殺してくれればいいのに。

手足の先が冷えて、感覚がなくなっていくのがわかった。どうやって呼吸をしていたのかわからない、まるで陸に上げられた魚のようだった。

いつかは美術室にいる部員に悟られぬように静かに踵を返して、走り出した。通りがかった教員に廊下を走るなと咎められても、その足は止められない。

傘を昇降口に忘れて、雨に濡れながら駆けて行く。雨粒が旋毛に落ちて、額を伝って頬を滑り、顎から落ちる感触が気持ち悪い。

ああ、吐き気がする。

胃の中のものが逆流して、喉奥にせめぎ合う。我慢していたものの、ついに限界がきてゴミ捨て場の隅で吐いてしまった。

胃酸が喉を焼いて痛い。吐瀉物のつんとした臭いに涙目になる。こほこほと咳き込んでいると、不意に視界の端に見慣れた色彩が映った。

古紙回収の日だったのだろうか濡れた新聞紙や雑誌に紛れて、何故かいつかの大切な画集がそこにあった。

「どうして…!?」

震える手で古紙をまとめるビニールひもを解いて、画集の表紙に触れる。画集は雨に濡れて醜い皺が寄り、ページをめくろうとするとその水分の重みで破けそうで怖かった。

自分の物だと確信を得たのは、お気に入りのページの修正痕だ。

いつかはぼろぼろになった画集を胸に抱えて、重い足を引きずるようにして歩く。時間をかけて帰宅すると、いつかはリビングに向かった。今日も父親の車がすでに駐車場にあった。工場勤務の父親は今週、早番だと言っていたことを思い出す。

「おかえり、いつか…って、どうしたの?びしょ濡れじゃない!」

母親がいつかの存在に気が付いて、慌てて洗面所にタオルを取りに行こうとする。

「お母さん。」

それを引き留めて、いつかは手にしていた画集を見せる。

「これ、捨てられていたんだけど。」

「それは…、」

言い淀む母親にたたみかけるように、いつかは声を荒げた。

「どういうこと?何で、こんなことをするの!?」

「捨てたのは、僕だ。」

背後から父親の声がかかり、いつかは振り返る。

「なんで?」

「いつか。学校、辞めていいぞ。」

父親は大きなため息を吐きながら、いつかを見る。

「学校を辞めろ。絵を描くのを止めろ。何もしたくないなら、生きるのをやめなさい。」

「…!」

「君は高校の受験に失敗してからおかしい。このままでは…―、」

いつかは言葉を飲み込んだ。揺らいだ世界は血のような赤色に染まっていくのを感じていた。光が点滅して、喉の奥で鉄の味がする。

「いつか、」

肩に触れようとする父親の手を振り払って、いつかは玄関に向かって駆け出した。靴を履き、外に出る。ここじゃないどこかに行きたかった。

「いつか!」

母親の叫ぶ声が聞こえる。

「放っておきなさい!頭を冷やしたら、どうせ帰ってくる。」


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