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第1話

キャンバスの上で、色が濁っていくのがわかった。


「次の数学、自習だって。」

高校二年生の初夏。柚木いつかは窓際の席で片腕を太陽に焼かれながら、ぼんやりと外の景色を見下ろしていた。そんなところ、友人に声をかけられて教室に視線を戻す。

「そうなんだ。ラッキー。」

いつかは目を細めて、口角を上げて相手に笑顔に見える表情を作った。そこにいた友人たちも、口々に喜色の声を上げている。女子生徒のみが通うこの高校で、同年代の男子がいない気楽さから、些か派手なはしゃぎ声だった。

他愛もない会話を交えている最中に、邪魔をする授業のチャイムが鳴る。一泊遅れて教室に入ってきたのは、学年主任の教諭だった。

「えー、自習だからと言って騒がないように。」

数学の課題のプリントを配布しつつ、教諭は箸が転げただけでも笑ってしまうような年頃の女子たちに注意を促した。

「時々、様子を見に来るからなー。」

はーい、と気のない返事を生徒たちから受け取って、教諭は退室した。途端に席を立つ者や、鞄からメイク道具を取り出すような者も現れる。いつかの元へも友人たちが数名集まり、配られた数学のプリントの問題を割り振った。それぞれが数問を解き、残りは写し合おうという寸法だ。

「じゃあ、三問から五問までがゆっちでー…、いつかは六問からね。」

「ОK。」

またあとでね、と言って手を振って別れ、いつかはプリントの用紙に向き合った。カリカリとシャープペンシルの芯を刻むように数字を書き込み、式を成立させていく。

数分で解き終えたプリントを裏返し、いつかは机に頬杖をついた。見つめる先の校庭では体育の授業でフットサルを行う生徒たちの声や審判の笛の音が響き、空を見れば白い飛行機雲が描かれて蒼を分断している。

初夏の鳥たちは積極的に翼を羽ばたかせて、チチチ、と鳴いた。緑色の色濃い木々の間を鬼ごっこするかのように、枝から枝へ飛び移っている。

今しかない、きっとこの時間は青春と呼ぶのだろう。そしてきっと、私はその貴重な青春を無駄に浪費している。


放課後。いつかは教室で友人と別れ、別棟にある美術室へと部活動に向かった。

古い木製の渡り廊下は歩むたびに、ギシギシと軋む。屋根を内側から見ると雨漏りの跡が幾重に連なり、黒く変色していた。

校舎の二階にある美術室へとたどり着くと、すでに到着していた美術部員数名が机にお菓子を広げておしゃべりに花を咲かせていた。

「お疲れ様でーす。」

互いに思ってもない挨拶を交わして、いつかはイーゼルを立てる。カルトンに画用紙を固定して、鉛筆デッサンの準備を進めた。

教室の隅にあるゴミ箱を運んできて、椅子に腰かけて鉛筆にカッターの刃を当てた。サリ、と木が削れる音が響き、ゴミ箱に鉛筆の薄い皮膚のような屑が吸い込まれていく。納得のいく削り口にいつかは頷き、その鉛筆を武器のように手にして画用紙越しに石膏像と向き合った。

シャッシャッと画用紙の上に鉛筆の黒鉛が滑っていく。デッサンをしていると時間の流れが速く、みるみるうちに時が溶けた。他の部員が真面目に部活に取り組まない間、いつかはたった一人でデッサンを繰り返していた。


どうして、見たものをそのまま描くという行為がこんなにも難しいのだろう。

もっと、もっとこの世界を美しく切り取りたいのに。


「…っ!」

一瞬滾った激情が鉛筆の芯にダイレクトに伝わって、鈍い音を立て根元から折れる。その振動が手のひらに伝わって、いつかは思わず鉛筆を床に落としてしまった。転がる鉛筆を見て、そして周囲が夕焼けの朱色に染まっていることを知る。

「…。」

いつかは小さなため息を吐いた。

出会う予定がなかった友人たちとつるみ、通う気のなかった教室で、興味のない授業を受ける。

私はあの日から、絵を一枚も完成させられずにいる。


「下校時刻が近いから、もう帰りなさい。」

美術部の顧問である教諭に声をかけられて、いつかはようやくデッサン道具の片づけを始めるのだった。

児童に帰宅を促す『夕焼け小焼け』が町内放送を流れている。少し間延びしたその曲は見方を変えれば、少しホラーだった。

昼間にあんなにも賑やかだった鳥たちも自分たちの根城へと急いでいる。影が長く伸びる住宅街はどこか寂しく感じられた。

とある住宅の前を通りかかると、夕食の支度をする香りが鼻孔をくすぐった。ゴボウや油の香りに、今夜は豚汁なのだろうかと勝手に献立を想像する。

不意に聞こえた笑い声に我に返ると、ブレザーに身を包んだ他校の女子高生たちが仲良さげに肩を並べて歩いていた。その制服を見て、いつかの心臓が嫌な音を立てって軋んだ。足元がぐらぐらと揺れるような錯覚に陥る。思わず立ち止まり、いつかはその波と女子高生たちが去るのを待った。

いつかのことなど気にせず、彼女らは横を通り過ぎていく。最接近した瞬間、いつかはひゅっと息を飲んで呼吸を止めた。まるでいばらの小さな棘が身を苛むような感覚。女子高生たちが遠ざかるのを感じて、ようやく止めていた呼吸を再開した。

特徴的な灰色のブレザーに身を包んだ彼女たちは、美術高校の生徒だった。それはいつかもかつて、中学生の頃に希望した高校だ。

苦しさに、涙が滲む。

いつかは美術高校を受験したものの、合格を勝ち取れなかった。合格発表で受験番号を見つけられなかった日から、息苦しさが抜けない。

いつかは今、黒いセーラー服を着ている。その濃く暗い色は、技術試験のときにキャンバスの上で濁っていった色によく似ていた。


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