不吉な巫女の覚悟(1)
十年以上離れることのなかった場所から離れて行く――そんな状況にふと感傷を覚えて、千鶴は何気なく後ろを振り向いた。
歩んできた細い道は山の中に呑み込まれ、その先はすぐに見えなくなっている。見回してもここに、彼女の知る景色はもうない。
それなのに不安よりも高揚が身体を巡るのは、どういう訳だろう。まるで千鶴を戒めていた鎖が一本一本ほどけていくような心地だ。
「どうした、少し疲れたか」
物思いに少しだけ歩みが遅くなった千鶴を慮って、猛がその顔を覗き込んだ。慌てて首を横に振る。
「いえっ、すみません、大丈夫です。あまり村から離れたことがないので、見慣れない景色に見惚れてしまいました」
「まぁ村から離れたといっても、まだ小さな山をひとつ越えただけだがな。疲れたなら遠慮なく言ってくれ。女性の足では色々辛かろう」
「オレの水筒、まだいっぱい水入ってるぞ。千鶴姐、飲むか?」
二人の会話に、無邪気な声が加わった。鬼の集団の中でも一際に若い少年、隼人の声だ。
千鶴より三つ下の彼は、鬼たちの中で一番に千鶴に懐いた存在であった。まるで仔犬のように彼女にまとわりつき、『千鶴姐』の役に立とうと細々と動き回る。
「ううん、大丈夫。でも、気遣ってくれてありがとう」
「そう? もし何かあったらすぐに言ってよ。オレ、役に立つからさ!」
そう言って胸を張るその姿は、ある一点を除けば頑是ない子供にしか見えない。だが、その一点が彼の素性を雄弁に物語っていた。――そう、額に聳える一本のツノだ。
周りの大人たちと比べても遜色のない立派なツノ。実際、それが表すように彼の身体能力は目を瞠るものがある。
それ故に、彼は猛の弟分として今回の一行に加わることを許されたそうだ。
「足が痛くなったならオレ、千鶴姐を担いで歩くことだってできるぜ!」
「あらあら」
「馬鹿なことを言うな、隼人。よしんばその必要が生じたとしても、その役目を負うのは夫である俺だ」
「なんのために腕が二本余計についていると思っている」――そんな言葉と共に、千鶴の首に猛の太い腕が回された。
ぐい、と引き寄せられて、千鶴の頬が猛の厚い胸板に触れる。自分のものではない温かな体温の気配にすっぽりと包まれていく。
そのことを意識した途端、千鶴の頬がカァッと熱くなるのがわかった。誰が見ても自分の顔がのぼせ上がったように一気に真っ赤になったのが見てとれることだろう。
恥ずかしくて落ち着かなくて、逃げ出したくなる。それなのに、その温もりから離れたくないという欲が頭をもたげる。このままこの温度に溺れてしまいたいという、はしたない願望に飲み込まれてしまいそうだ。
「はいはい、新婚さんはオアツイってやつですか。じゃ、二人で仲良くやってれば!」
感情の渦に呑み込まれて声が出ない千鶴を見て揶揄うような笑い声を上げると、隼人は一行の先頭へと駆け出して行った。
どうやら彼なりに気を遣ってくれたらしい。千鶴はまだしばらく、真っ赤に染まった顔を上げられそうになかったから。
――そうしてその場には、千鶴と猛だけが取り残されたのであった。
もちろん正確にいえば、二人きりではない。なにせ旅の道中の真っ只中だ。辺りを見回せば声の届く範囲に他の者たちも大勢居る。
だが、千鶴の気持ちとしては二人きりにされたようなものである。まだ顔の熱だって冷めてないのに。
「やれやれ。アイツ、いつの間にあんなマセた口を聞くようになったんだ」
困ったように頬を掻いて、猛が苦笑いを浮かべた。
「悪いな、周囲は俺たちの婚姻を歓迎しているんだ。形式上の婚姻だとは伝えたはずなんだが……不愉快な気持ちにさせていたら、すまない」
「いえ、不愉快だなんて! 皆さん歓迎してくださってるって、よく伝わってきます。その……猛さまこそ、私なんかが相手で申し訳ないんですけど……」
「まさか。むしろ光栄なくらいだ」
ニヤリと白い歯を見せる猛にどう反応を返したらわからず、千鶴は曖昧に頷いて視線を落とした。
鬼たちが自分を受け入れていることが、千鶴にはどうにも理解できなかった。仮にそれが自分に利用価値があるからだとしても、彼らはあまりにも優しすぎるのだ。
千鶴の分の旅の荷物は周囲が分担して背負っているし、彼女が傷つかないようにと歩きにくい道や茂みは先頭を担う者が丹念に切り拓いてくれる。猛や隼人だけでなく、ここに居る者すべてが千鶴に対して好意的で思いやり深い。
そして、彼らの優しさは至って自然体のものであった。
千鶴を新しい仲間として受け入れ、小さくてか弱い彼女が道中で苦労しないように、と真摯な気遣いをもって起こした行動。
だからこそ、その優しさが却って怖い。
この温もりに甘えて、突き放された時に傷つくのが怖い。
だって自分は不吉な存在だ。それを知られたら、きっと彼らも千鶴のことを疎む。
優しくされればされるだけ、そのことを考えて怖くなる。失うことばかり想像してしまう。