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生贄の花嫁(3)


 ――そう。あの時は確かに、彼と一緒に明日を夢見たはずだったのに。


 ぽたりと、自分の意志とは関係なく何かが落ちていく感触がして、千鶴はハッと目を見開いた。回想から引き戻された現実が、自分に迫る。

 自分でももう止められない勢いで振り下ろされていく、手の中の(かんざし)。生じた迷いを振り切れないまま、千鶴は強く目を瞑ってその先の手応えを待つ。


 ――どうして私は、それを切り捨てる方を選んでしまったのだろう。




「泣いて、いるのか」

「え……?」


 簪の切先は、届かなかった。その前に、猛がその手を受け止めたからだ。

 身動きできず、千鶴は声を詰まらせる。右の手首をギリギリと握り込められ、痛みに思わず顔を顰める。


「思い詰めた顔をしていると思ったが……なるほど、こういうことだったか」


 ()()()()()()()、という遅すぎる実感が千鶴を襲った。

 彼の言うことを信じきることができず、さりとて村の思惑通り彼を殺すこともできず。一体自分は、何をしたかったのか。



 ぐいと手首を引き寄せられ、抵抗もできずに千鶴は猛の身体の上に倒れ込んだ。取り上げられた簪が、彼の手の中でいとも簡単にポキリと折られる。

 殴られる、と千鶴は身体を固くして痛みを待った。……しかし、その衝撃はいつまで経ってもやって来ない。


「アンタがどんな生き方を強いられてきたのか……何となくだが、察しはつく。今は迷いがあることもわかっている。だが、アンタのこれからの人生は俺がもらう。大蛇(おろち)にアンタは、渡さない」


 ――やがて掠れた猛の声が、身を縮める千鶴の耳に届いた。強張った千鶴の身体を(なだ)めるように、猛の大きな手が彼女の背を撫でていく。


「その迷いも罪悪感も、すべて俺が背負う。すべては鬼の所為だと、俺を恨んでくれて構わない。それでもアンタは……俺のものだ」


 一定のペースで流れていく、その手が温かい。もう一本の手が、遠慮がちな手つきでそっと千鶴の目尻の涙を拭っていく。

 何故だろう。その彼の温度は、緊張も覚悟も諦めもすべて溶かしていくようで……いつしか千鶴は気を失うように眠りについていた。


○   ○   ○   ○   ○   ○   ○


 そうして千鶴が目を覚ましたのは、もう朝日がすっかり地面から離れた頃合いのことであった。隣の寝床はすでに空っぽで、昨晩の温もりは()うにない。

 あんな状況でよくも呑気に寝入っていていたものだと、慌てて床を飛び出す。


 だがそんな焦りとは裏腹に、十分な睡眠は彼女にすっきりとした爽快感を与えてもいた。それは、閉塞した村の中では一度も味わうことのできなかった感覚。

 何かが変わったわけでもないのに身体が軽くなったようなスッキリした心地に、千鶴は思わずゆっくりと深呼吸をする。


「ああ、目を覚ましたか」


 やがて微かな足音と共に猛が現れた。

 朝の鍛錬でもしていたのだろうか。長い黒髪は高く結い上げられ、剥き出しの首筋にはうっすらと汗が光っている。


「旦那様、おはようございます」

(タケル)で良い。よく、眠れたようだな」


 答えられずに(うつむ)く千鶴に、猛は軽く笑い声をあげる。そして大股に歩み寄ると、そっと身をかがめて千鶴に耳打ちした。


「昨晩のことは誰にも伝えていない。だから、アンタも気にするな」


 え、と思わず顔を上げるが、猛は笑ってくしゃりと千鶴の頭を撫でる。


「アンタが村に戻らなければ、きっとすぐ追手が来るだろう。目を覚まして早々に悪いが、すぐにここを発つぞ」

「お待ちください、どうして――」


 千鶴の言葉を最後まで待たず、猛はずいと目の前に何かを突き出した。


「握り飯だ、食っておけ。今日は長旅になるぞ」

「……」




 反射的にそれを受け取り、言葉が追い付かずに黙ったまま猛の顔を見上げた。彼の背中越しに、朝日が差す。

 朝の陽光を浴びて、目に眩しいほどに輝く真っ白な双角。そこに、昨日見た濁りはない。


「綺麗……」


 溢れ落ちたのは、完全に彼女の慮外(りょがい)の言葉で。だからこそ、素直な驚嘆に満ちていた。

 その場を立ち去ろうとしかけていた猛の動きが、ぴたりと止まる。


「綺麗、だと……?」


 ギクシャクとこちらに目を戻すその表情は困惑に満ちている。

 それを見て、千鶴はふっと思わず微笑みを洩らした。初めて目にする彼の表情。その素の反応に、今までの緊張が消えていく気がしたのだ。

 先ほどまでの気負いを感じることなく、千鶴はスッと真っ直ぐに猛の瞳を見上げる。


「ええ。猛様のそのツノ、真っ白で本当に美しいです。私、これより綺麗なものなんて見たことがありません」

「ば、馬鹿なことを……」


 狼狽(うろた)える猛の顔にどんどん血が昇っていく。だがそれは怒りのためではなく、どちらかというと困惑と照れの混ざるもののように見えた。




 ――ああ、この人を(あや)めなくて済んで良かった。


 その顔を見て、今更ながらにそんな感情を抱く。思い返せば、彼は始めから千鶴に対して対等に誠実に言葉を向けていてくれていた。

 そんな彼の態度に耳を塞ぎ、(うつむ)いて心を閉ざしていたのは自分の方だ。差し伸べられる手に気づくこともなく、何もかもを諦めて暗闇に自分自身を閉じ込めていた。

 振り返れば振り返るほど、己の愚かさが浮き彫りになっていくようで居た堪れない気持ちに(さいな)まれる。


「昨夜は――」

()()が千鶴の意思でなかったことはわかっている。謝罪は不要だ」


 謝罪を即座に遮られ、千鶴は一瞬言葉に詰まった。それでもそのまま話を終えたくはなくて、「では、一つだけ」とあらためて口を開く。


「――私、猛様を信じることにしました」

「っ……!?」


 思いも寄らぬ千鶴の言葉に、猛は驚きをあらわにする。そんな彼を前に、千鶴は晴れ晴れと笑ってみせた。


 ――そうだ、自分は心を預けられる相手をずっと探していた。

 それが無謀な願いだなんてわかっていたけれど。それでも孤独に震える千鶴の魂は誰かの温もりに、寄り添い合う優しさに、苦しいほど飢えていたのだ。


「ですから私、自分の意志で貴方様についてまいります」


 流されるまま、強いられるままではない自分の選択。

 たとえそれが過ちだったとしても、誰を責めることもなくその結果を自分で受け止めたい。自分に何が為せるのか、見てみたい。

 決意(おもい)(あふ)れるほど、心はどんどん軽くなっていくようだった。




「驚いた……アンタ、そんな風に笑うんだな」


 目を丸くして呟くと、猛は「うん、その方がずっと良い」とくしゃりと笑った。

 少年のような無邪気で輝かしい笑顔を向けられ、千鶴は頬が熱くなるのを感じて慌てて目を逸らす。

 暖かくてまっすぐで優しい……視線が自然に吸い寄せられてしまうような美しい笑みだった。


「千鶴が納得して里に来てくれるというのなら、こんなに心強いことはない。千鶴の選択に、感謝する」

「どこまでお役に立てるかわかりませんが……これからよろしくお願いします」


 「こちらこそ」と、猛の大きな両の手が千鶴の手を包み込んだ。

 一、二、三、四本――一人の身体から四つの腕が伸びているのはやっぱり不思議な光景だけれど、それでも不思議なだけで別に恐ろしくはない。


(むしろ猛様は、私の知っている誰よりも優しくて誠実で……素敵な方)


 そこまで思った千鶴は今までに感じたことのない熱が胸の(うち)からこみ上げるのを感じて、慌てて首を振った。心の臓がやたら早く鳴っている気がする。頭の芯がぼぅっとするような心許ない……でも甘やかな感覚。


 猛が手を離したことで、その感覚は潮が引くようにすぅっと消えていった。その正体を考えるよりも先に、猛が先を促す。


「急かすようで悪いが、それじゃあ早速出発しよう。――ああ、里の皆にアンタを紹介するのが楽しみだ」


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