生贄の花嫁(2)
――ことの発端は三日前、千鶴の住む村に鬼の集団が現れたことから始まる。
大小様々なツノを生やした、筋骨隆々で荒々しい鬼たち。その中でもいっとう異様な気配を纏っていたのが、猛だ。
誰よりも立派なツノと、鬼の中でも唯一四本もの腕を持つ男。村の入口に鎮座していた大岩をいとも容易く投げ飛ばしてみせた異形の彼を前に村人たちは恐れおののき、ひたすら頭を下げて命乞いをすることしかできなかった。
そうしてあっという間に村を制圧した彼が要求したのが千鶴――今年の冬に水神様に捧げられる生贄の乙女の身柄だったのである。
「俺が怖いか」
形ばかりの祝言を終え、猛と二人きりとなった部屋。そこで、猛は無愛想に切り出した。初めて交わす言葉としては、いささか不穏当な一言だ。
少しだけ思考を巡らせてから、千鶴はゆっくりと口を開く。
「……いえ、怖くはございません」
そっと面を上げた彼女は、猛の額に生える二本のツノをまっすぐに見つめる。そこから目を逸さぬまま、千鶴は慎重に言葉を探した。
「ただ、戸惑ってはおります。私は、幼き頃より生贄になることを定められていた身。余所者である私がこの村で暮らしていけたのは、生贄の未来が約束されていたからで……だからこそ、このような境遇になったことにまだ心が追い付かないのです」
知らず知らずのうちに、千鶴は袖に覆われた腕のアザをさすっていた。そこにある、なによりも水神の生贄であることを如実に語る呪いの刻印。
――ああ、私もこの人たちと同じだ。ただ少しだけ他の人と「違っている」だけで、周囲から爪弾きにされ、後ろ指を指されてきた。
そう感じてしまうから。ただツノが生えているというだけで何も考えず彼らを怖がることなんて、自分にはできそうにない。
千鶴の反応に意外そうな視線を向けると、猛は静かに「そうか」と呟く。
「其方を強引に連れ出すことになってしまったことは、申し訳ないと思っている。だがもう、なりふり構っている余裕がなくてな。俺たちにはアンタが……千鶴が、必要なんだ」
「私が……ですか? それは生贄として? それとも、生き血が必要なのでしょうか」
「違う。というか、どうしてそんなことを平然と訊ける!」
もっとも考えられることを口にすれば、猛は何故か狼狽えたような声を上げる。
「ああ、くそっ……これだけでアンタの村での扱いが透けて見えちまうな……」
千鶴に向けたものではない小さなその呟きは、妙に温かくてこそばゆい。初めてのその温もりに、千鶴は落ち着かなくてもぞもぞと身じろぐ。
しばらくして気を取り直したように居住まいをただして、猛はあらためて千鶴に向き直った。
「俺たちが求めているのは、アンタの巫女としての力だ」
「私にそんなものはありませんが……」
思いがけない言葉に、千鶴は困惑する。しかし、猛は動じなかった。
「それだけその身を大蛇に狙われておきながら、何を言う。アンタに高い霊力があることは、間違いない」
「大蛇というと……水神様のことですか」
「ハッ、あれが神とは笑わせる。あれはただ長く生きただけの、沼のヌシに過ぎない。豊穣はおろか、天候を操ることすらできまいよ」
今度こそ、千鶴は言葉を失った。今まで信じていたものが、根底から覆される感覚。
はく、はくと薄くなった空気を必死で吸いながら、千鶴は喘ぐように言葉を絞り出す。
「それでは、私を生贄に差し出せば村が豊かになるという水神様のお言葉は……」
「お前を喰いたくて仕方ない大蛇の、くだらない嘘だな。……まぁアンタほど霊力の高い存在を腹に納めれば、確かに神に近い存在にはなるだろう。だが、嘘と血で染まった邪な存在の行きつく先は決まっている――災いだ」
「…………」
蒼白になって黙り込む千鶴を前に、「そうなる前にアンタを見つけられて良かった」と猛は淡々と述べる。しかし、その言葉は彼女にとって何の慰めにもならない。
しばらく沈黙が続いてから、猛は気まずそうに再び話を切り出した。
「アンタの巫女の力は、俺たちの鬼の祟りを和らげてくれる……そんな託宣が出た」
「鬼の、祟り……?」
反射的に千鶴の視線が猛の額へと向く。よく見れば、白刃のように鋭く見えるそのツノには薄ぼんやりとした黒い煤のような靄が纏わりついていた。
それがツノの輝きを損なう汚れのように感じられて、何気なく手を伸ばす。靄は簡単につまめ、そして少し払っただけで中空に消えていった。
猛の目が、驚きに見開かれる。
「ツノの痛みが消えた……!? まさか、本当に託宣の通りとは……!」
「どういうこと、ですか」
「このツノは、俺たち一族に時折現れる特徴だ。ツノのある者は身体能力に優れ、武芸に秀でることが多いんだが……その代わり頻繁にツノの痛みに襲われることになる。ツノを持つ者は大概、寿命で死ぬことはない――何故だと思う?」
「戦での死が多いから、でしょうか」
「違う。皆、痛みに耐えきれずに自害を選んでしまうからだ。……俺の親父も、そうだった。俺たちはこの痛みを鬼の祟り、と呼んでいる。かつて鬼殺しを生業にしていた俺たちの祖先が受けた祟りだそうだ」
言葉を続けながらも、猛は確かめるように何度も自分のツノを触る。
「見ての通り、俺には鬼の特徴が色濃く出ている。その分、痛みも殊更に大きい。親父の年までは生きられないだろうと思っていたが、ここまで痛みが消えるとは……これなら、他の里の者たちも救われる」
そう言うと、猛は千鶴に向かってがばりと頭を下げた。
「こんな風に攫っておいて虫の良い話だとはわかっているが、お願いだ。アンタのその力で、里の皆を救ってくれないだろうか」
「そんな……」
顔を上げた猛のその熱い視線に灼かれて、千鶴は所在なげに視線を落とした。こんな風に誰かに必要とされたことなど、今まであっただろうか。
初めての感覚に、胸の内がぽかぽかと温かいもので満たされていく。そんな気持ちを戒めるように、腕のアザが疼いた。生贄としての本分を忘れるなと、思い知らせるように。
「悪いが、アンタが否と言おうと里には来てもらう。だが、それ以外のことで無体はしないと約束しよう。――形式上俺たちは夫婦になったが、アンタが良いというまで俺は必要以上に触れないし、アンタが不足なく暮らせるようにできることは協力する。欲しいもの、やりたいことがあったら言ってくれ。アンタの……千鶴の好きなことは何だ?」
「…………」
答えられず、千鶴は曖昧に微笑んで誤魔化した。――好きなことなんて、今まで考えたこともない。答えられるはずもなかった。
返事を返すことのできない千鶴を気遣うように、猛は言葉を重ねる。
「じゃあ、質問を変えよう。アンタはどんな時間が好きだ? 美味いものを食う時間、仕事を終えて布団に入る時間、朝日に照らされて一日が始まる時間……何でも良い」
「そう、ですね……」
考え込んだ千鶴の口から、ふと思いがけずに言葉がこぼれる。
「母に教わった舞を思い出しているとき、でしょうか」
「ほう、舞を」
「ええ。もともと母は、旅の巫女だったそうです。それで、元気だったころは神事で使う舞を教えてくれて……もう、亡くなって何年も経つんですけれど」
「そうか。それは素敵な時間だな。アンタのその強い霊力はそのお袋さんから継いでいるのかもしれない。――しかし、思い出すだけなのか? 実際に舞うことは?」
猛の問いに、千鶴は黙って首を振った。
実際に身体を動かすなんてしたら、村長から奇異なことをするなと折檻されてしまう。生贄である千鶴の一挙手一投足は常に誰かの視線にさらされていた。
彼らは過剰なまでに千鶴が勝手なことをするのを恐れていたのだ。
何かを察したらしい猛が、静かに「そうか」と呟く。
「……それならいつか、その舞を踊って見せてほしい」
「ええ、そうですね」
その返事は、千鶴の口から思いがけずするりと出たものだった。
そんな明日が二人にないことなど、誰よりもよくわかっていたはずなのに。
そんな幸せな生き方があっても良いと、叶わぬ夢を見てしまったのだ。