7.見送る男と再生する女
前半部分の時系列が6話と前後しているので混乱させてしまったらごめんさい。
マルケス子爵別邸、王都を囲む運河の波止場の一つに面した私室でゼノス・ゴードン・マルケス・ド・マルケスは、窓辺に立ち、霧に煙る運河を見下ろしていた。
だが、その目は景色をとらえているようで実は何も見ていない。彼の頭の中を占めるのは、昨夜投げ込まれた一通の短い書簡……ヴァレリアの帰国を告げる、たった四行の礼状だった。
いつも通り鋭い筆跡で綴られた言葉は、彼女の中では何一つ終わっていないと諦めの悪い折れぬ心を表しているように思えた。
三度読み返したそれを、静かに暖炉へ放って灰にする。炎に呑まれた紙が纏う赤い焔は、いたく美しかった。
目の奥に焼き付いた赤い輝き。
……確かに。
その面影を追いたくなるほどに美しい女だったかもしれない。
特にわかる気もなかったクラレンス・ホーソーンの気持ちが理解できた気がして、ゼノスはくだらないと薄く苦笑いを浮かべ瞼を閉じる。
何にしろ、極彩色の翅を持つ蝶は鳥の餌になる前にせめてもの情けと追い払った。
ヒラリヒラリと、何処へとでも飛んでいくがいい。
再び目を開けた時、測ったように背後から声が掛けられた。
「ヴァレリア様は、もうお帰りになるのですね」
憂うような語句とは対照に、老執事のヨハンの声は平坦だ。
「その様だな」
振り返ることなくゼノスは応える。
「何も知らず、恨む先を間違えるのもまた……一つの幸せなのかもしれません」
「恨まれた先は、随分と不幸な話に思えるが?」
嘲りか憂いか、短い笑いがこぼれた。
「道ですれ違った程度の相手に、勝手に恨まれたとしても問題ありますまい」
ヨハンにとっては、とことん小物扱いのようだ。
背後の者に気取られぬよう、小さく息を吐く。
「しかし、よろしかったのですか?」
何をだ。と、聞くまでもない。
ヨハンの意図するところは、レプトンだろう。巨万の富を招くと思われたハルツェンの絹を易易とオークレイに譲った理由を問いたいのだ。
「パン屋には、パンを焼かせろ。と、言うだろう?」
天秤は常に揺れている。
上だけ目指して、前を見るのを怠るような歳ではない。
「キルシャローが持つ船団は、最早船団ではなく艦隊だ」
それに対してマルケスは、外海に向けての船は持たない。手堅く、確実に。港の税だけで生きてきた。
荷揚げ権の中に、他人の船が揚げる時も、手数料名目で2~8%を取れる陸揚げ手数料徴収権というものがある。マルケスはそれを5%と定め、毎年港の総取引額×5%が懐に入ってくる。より多くの利を求め暴れ回るキルシャローの陰に隠れてマルケスは静かに蓄えてきたというわけだ。
「帝国ですか」
「海賊だよ」
国旗を掲げているわけではない船は、断定が難しい。どこの国の領海で頻繁に出没しようと、どこの国の造船の特徴が各所に見て取れようと、私掠行為を国家的に支援していたとしても。
通商破壊行為をする船は、もれなく海賊なのだ。
「マルケスは港で栄えた土地だ。ささやかに、港を守ることが一番だろう」
ヴァレリアも良い情報屋を抱えていたみたいだが、国同士の関わりにまでは手が届かなかったらしい。
さもありなん。
国取りに血気盛んだった時代ならいざ知らず、今の時代そうそう国主が身罷ることはない。それが、シヨン公国となれば余波の広がる範囲が違う。
マルケスは窓の外に目を据えたまま、ゆっくりと告げた。
「ヨハン。明日の朝、ヴァレリアの乗る船が南の波止場を出る前に、私自ら見送りに行く。馬車を用意しろ。目立たぬよう、紋章は外せ」
執事は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。
運河網が発達したポーレでは、駅馬車ならぬ運河船が組織化され定期運行されている。
各々目的に沿った波止場があり、ヴァレリア赤い髪を黒いヴェールで押さえ、旅装のマントに身を包んだ姿で、沖合に待機する快速船専用の波止場にいた。桟橋の端に立ち、定期航行船に荷物が積み込み終わるのを待つ。
今は薄く霧に煙る運河だが、これから徐々に陽射しが強まり、霧も晴れ、運河の向こうの街並みもハッキリ捉えることが出来るだろう。
少しだけ、自分の行く末が明るくなった気がしてヴァレリアの硬かった頬が柔らかくなった。
「お嬢様、お待たせしました」
トリーに促され船の方を見れば、手放せない荷物の入ったトランクを手にしたジルがタラップの横に立ちこちらを見ている。
「行きましょう」
霧が薄まりつつあるポーレの空を見上げたヴァレリアは、何かを振り切るような機敏な動きで身を翻し船に乗り込んだ。
ヴァレリアが乗る予定の三本マストの快速船は、港内の沖合に錨を下ろし、好条件待ちとなっている。陽が傾き始める前にはポーレを離れることができるだろう。
陸上作業員が舫綱を係留柱から外す。
ゆっくりと船が岸から離れ、外港に向かって動き出す。その様を見届ける人物がいた。
船が完全に陸から離れ、川の流れに乗る。鎧戸が閉まる音に御者は鞭をふるい、馬留めに置かれていた馬車が動き出した。
◇
タリシュカの港町は、ポーレの洗練された王都とは異なる活気と雑多さに満ちていた。海風がどこかの船から降ろされたスパイスの匂いを運び、荷積み人たちの作業する声が石畳の通りに響く。
ヴァレリア・クイン・ハンターは、ハンター家の本邸の最上階にある広間にいた。窓から見える港には、交易船がひしめき合い、今日も王国に富を運び入れている。
ポーレに単身乗り込んだものの、その成果は散々で。彼女の名声も、今や地に落ちたも同然。
しかし、ポーレでの失敗を経た彼女の瞳は、さらに鋭く。折れぬ強さを携えて活気づく港を眺めていた。
ヴァレリアの肩には、一族の名誉、そして未来がかかっている。今の彼女の瞳が映すのは、過去の失敗ではなく、未来の可能性だけ。
赤髪が朝陽に映えて、燃え盛る炎のような光を孕む。真新しい陽の光を一身に浴びて気持ちを新たにするのは、帰国してからの一つの儀式のようなものだ。
――――まだ、終わってはいない。
自らに課した重圧に、どれだけ肩が震えようとも。
ヴァレリアは窓から身を離すと、広間を出て自身に与えられた執務室へと向かった。
ハンター家当主であるヴァレリアの父は、オリエンス皇国を含む東方の国との交易で海に出たまま戻らず、次期当主たる兄は、海賊から受けた被害で被った借金の整理など資産管理に忙しく商売まで手が回らない。姉はすでに嫁ぎ、外から資金援助を婚家に睨まれない程度に行ってくれている。家政を取り仕切りつつ、母は、精力的にタリシュカの社交界で活動中だ。
残されたヴァレリアは、ポーレでの失敗を一時的な後退と割り切り、ハンター家の再興に向けた新たな一歩を踏み出していた。
ヴァレリアの書斎机には、染料生産の契約書、毛織物の輸出計画、大陸東部への新たな交易ルートの地図と、タリシュカの商人ギルドとの交渉資料が山積みとなっている。
「ヴァレリア様、商人ギルドの代表との会合を明日に設定しました」
ノックの音とともに返事を待たず執務室にスルリと入り込んできたジルは、ヴァレリアが座る机の傍らまでやってくると紙の束を差し出した。彼は常に、ヴァレリアの計画を支えてくれている。
「染料生産の大手、プロスペラス商会が興味を示しています。彼らは大陸東部の市場でシェアを拡大したいと考えているようです」
「プロスペラス商会……」
彼女は、提案書であろう書類を受け取り、目を通す。
「藍色染料の独占供給が、特に魅力的なのかと」
そこには、藍色染料の需要予測と、毛織物の輸出ルートの提案が詳細に記されていた。
「いいわね」
ヴァレリアの唇に、利益を算段した笑みが浮かぶ。
「有難う、ジル。よく見つけてきてくれたわ」
ヴァレリアは机上に地図を広げると、指で提案書にあったルートを辿っていく。指先は、大陸東部の港町に行き着いた。
「プロスペラス商会を味方につければ、ブライア家のシェアを奪う足がかりができる」
ポーレでの失敗は、ヴァレリアの矜持をいたく傷つけた。だが今は、その傷が彼女の野心をさらに燃え上がらせている。
「ポーレでは、貴族社会のしがらみに足を引っ張られたけど、タリシュカなら違う。私は、……私のやり方で、勝つ」
強く、しなやかに。
常に前に進もうとするヴァレリアに、ジルはわずかに目元を緩め、頷いた。
そして、新しく掴んだ情報を告げる事に苦さを感じる。
「ヴァレリア様。その事で、なのですが」
口を開いたジルの少しだけ切り替わった空気に、ヴァレリアは片眉をあげて先を促す。
「ポーレの情報屋に新たに連絡を取り、キルシャローの動きを報告させています。どうやらキルシャロー船団の積荷に絹糸と織物が加わったとか」
「絹ですって?」
驚きと嫌悪で、ヴァレリアの眉が一瞬きつく寄った。
尽く。
そう、尽く。
自分の計画を追うようにして潰し、マルケスに手をひかせ、ポーレの社交界からもハンター家が扱う商品の等級が怪しいと囁き貶めた許し難い名。
その奴らが、新たな品目に加えたのが遠く東方の国から来るのが当たり前だった絹。
「どういう事……」
しかし、絹。
絹とは、どこから出てきたのだ。
「絹は、どこから?」
「ポーレ北部のハルツェンからと。ハルツェンが蚕糸業を軌道に乗せ、マンスフィールドが織布業を始めたようです。侯爵夫人の生家がハルツェンなので、その繋がりかと」
「そう、なのね」
マンスフィールドとキルシャローが手を組んだということ?
この二つは、互いに不可侵であったのではないの?
いや、もしかして。
ハッとした顔で、ヴァレリアは自分の口を押さえた。
「私が狙った隙は、敢えて作られたものだったということ?」
ジルからの返事は無い。否定も肯定も出来ない状態なのだろう。事前の情報が少なすぎて、判断に困っている。ただ、今という結果だけ見れば、それは周到に準備された計画だったということなのだろう。ジルの失態と責めることはできない。彼は常に最善を尽くしてくれている。
「そう……」
小さく息を吐くとヴァレリアは目を閉じ、蟀谷を押さえた。
あの時。マンスフィールド侯爵夫人からの招待状に応じていれば、何かしら状況は変わっていたのだろうか。
「……いいえ」
無かった未来を考えても仕方がないわ。
顔を上げたヴァレリアの表情は、思いのほか柔らかかった。
「キルシャローについて。今後は、無理のない範囲で追って頂戴。優先ではないわ」
「了解しました」
ジルの返答に僅かに口角を上げるとヴァレリアは再び地図に目を落とす。
「プロスペラス商会を抑えれば、次のステップは大陸東部の交易ルートになる」
「交渉が成功するよう、情報を集めます」
ポーレでの失敗は、ヴァレリアに見えない部分での貴族社会の複雑さと、軽率な男を利用する危険を教えてくれた。だが、それは同時に、彼女のすべてを受け止めて癇癪を起こす素直さを是正し、堪えて思考し続けることを学ばせた。
「私は必ず、ハンター家を大陸一の商業勢力に押し上げてみせる」
「そのためなら、自分はどんな手段も使いましょう」
主の決意に応えるように言葉を続けるジルに、ヴァレリアはくすりと笑った。
「犯罪はダメよ」
「ギリギリで」
ジルに向ける眼差しに、彼の行動に対する疑いと気を許した相手に対する信頼が滲む。
「任せるけれど、……いつかポーレに戻る時に、貴方がいないのは許されないわ」
トリーと、ジルと。
いつか力をつけ、再びポーレの地を踏む。ハンター家再興と共に新たにヴァレリアの中に加わった目標だ。
「……御意」
即答しなかったことには、目をつぶってやろう。
これも一つのヴァレリアの中に起こった変化だった。
「もう行っていいわ」
ヴァレリアに一礼し、ジルが部屋を後にすると、彼女は再び地図に目を落とした。
「“時には、引き下がる方が良いこともある。慎重さが勝るからだ”」
差出人不明の手紙に書かれていた言葉を呟く。
快速船がタリシュカに着き、港へ入港するため小型帆走艇に乗り換えようとしたところで乗組員からポーレで乗船前に手紙を預かったのだと差出人の名前がない手紙を渡された。
手紙を預けた人物は、身なりから何処かのお屋敷の使用人のようで金貨一枚を報酬にヴァレリアが船を降りるタイミングで手紙を渡してほしいというものだったらしい。
ひと目でわかる上質な白い紙で作られた封筒。あて名は、ヴァレリア・クイン・ハンター。確かに自分宛てだった。裏を返せば、パールがかった封蝋に押された花の封蝋印。
この花……、ニゲルかしら?
この意匠の紋章はない。個人のシールも大元は家の紋章に一つ何かが加えられたものだ。となれば、非公式なやりとりの時に使われるものだろう。
トリーやジルは怪しんだが、ヴァレリアは封を切り中の手紙を読んだ。便箋もやはり上質な薄い紙で、ほのかに森の中のような爽やかな香りがした。
封筒の段階でわかる。この手紙を書いた人物は身分のある……多分、貴族階級に属する人間で性別は女性だろう。封蝋印や、便箋の香り付けなど細やかな気遣い、綴られた文字の優雅な曲線。どれもこれも美しく隙がない。
ただ、一文。
『時には、引き下がる方が良いこともある。慎重さが勝るからだ』
手紙の内容は、それだけだった。
だが、ヴァレリアには十分伝わった。
ヴァレリアの行動は間違っていないのだと、タリシュカに退くことで何かしらの利が守られたのだと。そう暗に伝え、丸まりそうになる背中を労り撫でられたような、そんな気がした。
手紙は捨てられることなく、大切に机の引き出しに仕舞われている。
ヴァレリアは立ち上がると窓辺に歩み寄った。そこから見える港の景色が、喧騒が、彼女に新たな息吹と明日に向かう力を与えてくれている。
「いつか戻るわ。ええ、必ず」
ヴァレリアは独り言を呟き、誰かを思い浮かべてか唇に薄い笑みを浮かべた。
遅くなりました。
ヒデェ風邪をひきました。
一瞬、9月にやった567の悪夢が過ぎりましたが
微熱だったのでセーフ
でも、微熱も続くと体力削りますね……。




