1.恋に迷った男と捨てた女
クラレンス・ヴィクター・ホーソーン・ド・レヴァントは、ポーレ王国の若き伯爵だ。金髪が陽光に映え、鋭い青い瞳が人を射抜くような美丈夫である。
ご婦人方から秋波を送られること数しれず、本人も自身の美貌に絶対的な自信を持つ。
身分があり、さらに容姿にまで恵まれた者の傲慢さか、クラレンスは、どこか他者を顧みない苛烈さがあった。
名門貴族らしい傲慢さ。と、言うのは簡単だが、華やかさばかりではない貴族社会で彼の性格は少しばかり難がある。憂慮したクラレンスの父親は、穏やかで知的な令嬢だと評判が高いシャナンをクラレンスの婚約者へとあてがった。
シャナン・マーゴ・リード。
リード家は、ホーソーン家と並んで引けを取らない名門である。
彼女の黒髪は、星がささめく夜の帳を思わせ、深い緑の瞳は森の静寂を宿しているように見えた。聡明であるが故に一歩引く、そんなシャナンは、自身が先代伯爵に息子の伴侶にと請われた理由を正しく理解していた。
一方のクラレンスも性格に難はあれど、自分の出自に誇りを持つ男である。この婚姻は、家同士の同盟を固めるための義務の象徴のようなものだと捉え、互いに愛情はないものの、佳き日を迎えるために表面的な交流を重ねていっていた。
一見、穏やかで良好な関係を築いているように思われた二人だが、ある舞踏会で全てが変わる。
その夜は風がなく、空気は冷たく澄んでいた。
◇
夜汐の月影日に宮殿で開かれる夜会は、シーズンの幕開けを告げる重要で華やかなものだ。
自国のみならず近隣国からも招待客が集まり、新たな顔合わせや古い友情を確かめ合う者、販路を開こうと交渉に務める者。社交界入りを祝ったり、祝われたり。昨今のうわさ話を交換し、その真偽を問うたりと賑やかで忙しい。
クラレンスに伴われ、シャナンも夜会に参加していた。
彼女の身を包むのは、深緑色の瞳を引き立てるために選ばれた深く暗い森色のボールガウンドレスである。昨今、社交界で何かと話題にのぼるクチュリエールであるマドモアゼル・ジュジュがシャナンのためにデザインした一点もののドレスだ。
上品の枠からはみ出さない程度に美しく露わにされた若く瑞々しい肩のライン。軽くシェイプされたウエストラインが描く細やかな曲線は、彼女の楚々とした魅力を優雅に引き出し、胸元と袖口に銀糸であしらわれた刺繍はため息が出るほど繊細で、職人の技量の高さをうかがわせる。
過剰な美をすべて切り捨て、計算され尽くしたシンプルな美は、シャナンが内包する知性と気高さを見事に表現し、昇華していた。
首元に柔らかく煌めく細いシルバーのネックレス。ゆるく波打つアップスタイルにまとめられた黒髪の流麗なラインに、さりげないアクセントを添える耳元を飾るイヤリング。
万民が好み、ひれ伏すような美ではなかったかもしれない。しかし、真っすぐ芯の通った美しさを持つ彼女の穏やかな微笑みは多くの者が好ましいと感じるものだっただろう。
だが、クラレンスが求める選良思考には彼女の知性美は含まれなかったようだ。彼は、なぜ彼女が自分の婚約者に選ばれたのか真に理解はしていなかった。
夜会とは、交渉の場でもある。
父の跡目を継いだばかりであるクラレンスは、シャナンを引き連れ挨拶回りに余念がない。
そんな中、一人の女性がクラレンスの視線を奪った。
ポーレの貴族たちには、やや異国風に映る深紅に金の刺繍が施されたドレスを見事に着こなす燃えるような赤髪と琥珀色の瞳を持った女性。
ざわりと空気が揺れ、肌が粟立つ。その得体のしれない感覚をシャナンもクラレンスも別の意味で味わった。
洗練された魅力を放つミステリアスな彼女の名は、ヴァレリア・クイン・ハンター。ポーレの南にある隣国、タリシュカから招かれた貴族令嬢であった。
彼女の自信に満ちた鮮やかな微笑みは、わかりやすく人の心を打つ。
「まるで情熱の女神が人となったようだ」
クラレンスも心を打ち抜かれた一人だったらしい。
空気に溶けるようなクラレンスの呟きをあれが女神とは……。と、シャナンは瞬き一つで聞き流す。
元から異なる質の相手である。見ているものが違いすぎると婚約者に対し思った程度であった。
異国の美に心を奪われたクラレンスは、たちまちシャナンへの関心を失い。彼女を置いて直ぐ様ヴァレリアを囲む輪の中に加わった。
彼は公然とヴァレリアを称賛し、彼女を伴って舞踏会の場を闊歩しだす。シャナンはその様子を貴族たちの会話に耳を傾けつつ静かに見つめていた。
◇
夜汐の舞踏会から半月、シャナンとクラレンスが最後に連れ立って参加した舞踏会から三日ほどして、クラレンスはシャナンを自邸に呼び出した。広間には暖炉の火が赤々と燃え、壁には代々のホーソーン家の肖像画が並んでいる。呼び付けておきながら待たせていた相手の前に、クラレンスは詫びることなく尊大な態度で腰を下ろした。
「シャナン、悪いが我々の婚約は解消だ。元から性格の合わない者同士、ともに歩むには無理がある」
切り出された言葉を受けても、シャナンの表情が揺らぐことも顔色が変わることもなかった。
「それに見た目もだ。多過ぎる装飾は見苦しいと私も思うが、最低限に減らした装いでああも違いが出るのは敵わん。ヴァレリアの華やかさ。あれこそが私の求めていたもの。君では、私にふさわしくない」
そこで初めて、シャナンの首が僅かに傾けられ、ゆっくりとした瞬き一つ分、目が伏せられる。
一瞬の思議。
そんな仕草だった。
だが、クラレンスにはその思惟する姿を自分と縁を切られたことに対する悔しさだと思い込んだ。首を戻し、真っすぐクラレンスを見つめるシャナンの緑の瞳には、常と変わらぬ冷静な光が宿っていることに気が付かずに。
「ヴァレリアとは、ヴァレリア・クイン・ハンターで相違ございませんか?」
円味のある形の良い小さな口が短く言葉を紡ぐ。
「ハッ……名を聞いてどうする」
やれやれと笑うクラレンスの声には、どこか相手を見下すような響きが潜んでいた。
「この婚約の意味をどうお考えで?」
しかして怯まず。シャナンの声は、静かに続く。
「……っ、そういうところが君は愚かなんだ」
この婚約は、ホーソーンとリード、両家の同盟の強化。事業提携、技術協力、交易路の共有、資金援助。そういった協力関係をより強固に、また新しく起ち上げる。そうクラレンスは考えていた。
ゆえに、挿げ替えも可能ではないかと。
隣国の貴族であり、織物や香辛料の交易で栄えたハンター家の才女であるヴァレリア。
優美な身のこなしと結びつかないほど、情熱的に『タリシュカの交易の未来』を語る彼女に魅了されたクラレンスは、シャナンとの婚約を白紙に戻し、ヴァレリアと婚約を結び直しても何ら問題はないと判断してしまった。
常に穏やかで、何事にも動じず、時に差配に口を出すシャナンと違いヴァレリアは、あの夜会のひと時だけでホーソーン家の港湾施設を利用した香辛料や絹の輸入事業を提示し、タリシュカの香辛料を王国で独占販売できれば、ホーソーン家の名声が高まるとクラレンスに名誉と利益まで約束したのだ。
ヴァレリア。彼女こそが、理想の伴侶だ。
クラレンスは、なぜ彼の父がシャナンを選んだのか。もっと深く内省し、義務としての歩み寄り以上にシャナンという人間を観察すべきだった。
「一を聞いて十を知れ。私がふさわしくないと言ったのだから、相手を気にするより君が自身の中で至らなかった部分を思い起こすのが筋だろう」
思わぬ言い草に、シャナンの瞳が僅かに開いた。
この場合の事由の証明は、シャナンではなくクラレンスが行うべき事柄である。よもやまさかの展開だが、指摘することなくシャナンは黙って受け流す。驚きに見開かれた瞳も既に戻っていた。
「やれ、あの公爵領では新たな鉱脈が見つかり鉱石資源がどうの、あの伯爵領では新たな技法の織物が織られるようになっただの、あの国の香辛料は今が買い時だのと小賢しいことにはよく回る口をしているくせに肝心なことは頭が回らないと見える」
鼻で笑うクラレンスのこれが本性と厭おうとは思わない。貴族とは、それが虚勢であっても自信に満ちた生き物でなければ多くを守ることが出来ないのだから。
とはいえ、これは少々……。と、前伯爵を慮り彼女の中の天秤にかける。
可、不可。是か否、良識と常識。斟酌、考慮、未来と影響、潜考。
一を聞いて十を知れ。その言葉通りに、シャナンは思考の海から論理の刃を掴み取る。
目の前の男に、振り下ろすために。
ゆっくりとシャナンの唇が弧を描いた。
「それは、失礼致しました」
ヴァレリア・クイン・ハンター。
隣国タリシュカの新興貴族ハンター家の次女で、家の交易事業を再興するため王国に来た才女。彼女の目的は、海賊の襲撃や競合貴族家の市場支配により衰退しつつある織物と染料の交易網を拡大し、ハンター家を大陸の商業勢力に押し上げること。
シャナンの頭の中に入っている情報は、彼女の独自の情報網からもたらされたものだ。
彼女の本命は、マルケス子爵だと思ったけれど、なるほど……。ホーソーン家もマルケスに比べたら規模は小さいながらも東部に港を持ち、船団も持つ。利用価値の低い予備の駒とでも定めたのかしらね。
ポーレ王国は、内陸と港湾都市を結ぶ交易路の中継地であり、中でもマルケス家は王国南部の主要港を支配するオークレイ家の手を逃れた唯一の港を持ち、交易船の運航権と資金力も持つ。
マルケス家の港湾使用権と資金の確保、ハンター家に負債があるならその返済、そして新商船の建造を可能にする。こんなところかしら。
シャナンの情報網は、学者、商人、使用人という異なる層を組み合わせた多層的な繋がりだ。彼女の穏やかな態度は、情報収集の意図を気づかせない。そうして糸を巡らせ、編むように作られた緩やかな協力関係の集合体は、貴族社会のあらゆる情報を網羅した。
シャナンは、もたらされた情報の断片をパズルのように組み立て、点と点を結ぶことで全体像を構築していく。感情や先入観を排除し、客観的な事実に基づいた彼女の分析は、それだけでは意味をなさない断片的な情報を戦略的な知識に変換した。
レヴァント前伯爵がシャナンを望んだ真の理由は、この俯瞰したものの捉え方がホーソーン家を安定させ、さらなる繁栄に導くだろうと考えたからである。
「あなたがそう決められたのなら、わたくしに異論はありません」
落ち着いた声で応じるシャナンに、クラレンスは鼻白んだ。
「ですが、最後にお聞きしたいことがございます」
「聞きたいこと?」
クラレンスの眉がわずかに上がり、胡乱げに彼女を見つめる。どこまでも物静かな女だと興ざめしたのに、貴族として生まれついた他者を警戒する本能が警鐘を鳴らしたのだ。しかし、相手はあのシャナンである。何を聞かれようと、言われようと、うまくあしらう自信があった。
「まぁ、いいだろう。言ってみるがいい」
クラレンスの瞳に浮かぶ挫折を知らぬ男の傲慢さと、口元に張り付く自惚れた笑み。どちらも彼の美貌に似合っていたが、一つ間違えば虚飾と成り果てる。
自分という才覚を認め、立場を請われた。貴族の務めというより、自身を評価されたことにシャナンはホーソーン家に身を捧げる覚悟を決めていた。
しかし、関係とはどちらか一方だけでは成り立たない。
これは、去る自分の前伯爵に対する義理立てであり詫びだ。
「わたくしを愚かと言ったあなたが、如何にわたくしより優れているか。三項目で構いません、わたくしにお聞かせ願いますか?」
「なに?」
シャナンの意図が読めず、クラレンスは眉を顰める。
前伯爵はシャナンに、早々にクラレンスの手綱を握ってほしかったのだろうが、人生という長期戦に挑むにあたりシャナンはゆっくり距離を詰めていけばいいとクラレンスの判断に任せ、危うい場面にだけ口を出し、時に手を回してホーソーン家に負債がかからないように配慮した。
その結果がコレとは、シャナンもまだまだ未熟であったということだろう。
しかし。
――――で、あったとしても。
ホーソーン家当主となったクラレンスが関係解消を求めた。
シャナンとしては、応じる他ない。だが、与えられた役を途中で降りるならば、最後に幾つかクラレンスの考えを補正していかねばなるまい。それが自分に息子を、ひいてはホーソーン家を任せてくれようとした前伯爵への義理であり、詫びなのである。
「ああ、でも。生まれついての容姿や親の財に依存する貧富の差は除きます。わたくしを退けるあなたの価値をわたくしに教えてください」
彼女の瞳は冷静で、感情の揺れを微塵も見せていない。だが、いつの間にかシャナンを煩わしいと感じていたクラレンスにとって、自分の価値を示せなどと言ってくる相手はどこか滑稽で気分が良くなった。
クラレンスの笑みに軽薄さが滲む。
「なるほど、了解した。至らぬ君に、逃した魚の大きさを……私の価値を教えてやろう」
彼は顎を上げ、堂々とした口調で話し始めた。
こういった乗せられやすいところを真っ先に補正すべきだったとシャナンに自責の念を抱かせているとは知らずに。
「やはり一つ目は、私の統治力だろう。私はホーソーン家の領地を堅実に治め、繁栄を約束する。君は学識に優れるが、書斎の知識は実務の場では役に立たない。私の統治は、領民の忠誠と安定を生み出している」
無言で頷くシャナンを見て、クラレンスの心のなかに優越感が広がる。
「二つ目は、これを言わずして何とする……私の交渉力だ。私はわが国のみならず、他国の貴族や商人とも渡り合い、ホーソーン家の利益を最大化する。君は確かに賢いが、その賢さと高潔さが災いして近寄りがたい雰囲気がある。その穏やかな語り口も相手を話に引き込むには些か力が乏しい。君には、華やかさが足りないのだ」
シャナンの表情は動かない。ただ静かに、嵐の前の海のように深く静かに、クラレンスの独演に耳を傾けている。
「三つ目は」
彼は少し考え込み、続けた。
「三つ目は、私の決断力だ。私は、ヴァレリア嬢のような輝く可能性を見抜き、即座に未来を選ぶことができる」
そう、今、この時のように。クラレンスは自身の行いに間違いはないのだと印象付けるためにこの言葉を選んだ。
「父が選んだ君の聡明さには舌を巻くが、貴族の義務や名誉に縛られた君は慎重すぎて時代を切り開く大胆さがない。だが私は、自分の望む未来を選ぶ勇気を持っている。私の決断こそ、ホーソーン家を新たな高みへ導く」
胸を張るクラレンスの瞳は、夢を語る少年のように煌めいていた。
「……そうだろう?」
同意を求めるように問われたが、シャナンが返事をすることはなかった。
これが十代半ばで、同年代の友と明日を切り拓き、未来を語り合う場だったのなら、そのような主張も与太話としてまかり通ったかもしれない。けれど今は、実体のない話をする場ではないのだ。
広間に、沈黙が落ちる。
シャナンの心の奥に、冷たく横たわるのはどんな感情なのだろう。彼女は、色の失せた瞳で目の前の男を見るばかりだ。
そうして、しばらく彼を見つめていたシャナンだったが、暖炉の火がパチリと音を立てたのを機にゆっくりと口を開いた。
「クラレンス様。あなたの答え、確かに伺いました。これが最後の機会ですので、ほんの少しわたくしの考えを述べさせていただきます」
ようやく口を開いたかと思えば、何やら小難しい講釈を垂れるつもりなのかとクラレンスは眉を顰める。しかし、シャナンはそんな相手の変化など気にも留めず静かに言葉を続けた。
「まず、あなたが語る統治力。ホーソーン家の領民が従うのは、あなたの才覚ではなく、あなたの父君が築いた名声があればこそです」
肺を悪くし、クラレンスに爵位を譲った前伯爵は領地で静養している。良くなる見込みは少ないが、悪化を遅延させることは出来ると空気の良い土地に居を移された形だ。
都から離れた前伯爵だが、彼のもとに目通りを希望するものは後を絶たないという。それでも前伯爵の復帰を望む声が表立って大きくならないのは、前伯爵が事あるごとに息子を頼むと言っているからだろう。
彼の地道で堅実な采配は、目が眩むほどの利益を取引相手や領民に与えなかったかもしれない。しかし、飢えることなく蓄えを作らせる程度には安定した生活を彼らに与えていた。
「昨年、洪水の影響による領地の穀物不足が懸念された折には、わたくしが王都の交易組合と交渉し穀物供給を確保し難を逃れました」
民を守るのが貴族の務め。戦で剣を交えることが少なくなった昨今、外敵から武力で民を守るのではなく、領で働き生きる者たちに安定した生活を送らせることが一番の務めとなっている。
「あなたは確かに領民の前で演説しますが、統治とは、演説ではなく実行で示すものです」
クラレンスの眉間に一つ、深い皺が刻まれた。
交易組合の事は、クラレンスの記憶の中に確かにあった。洪水対策について予算を組まねばと過去の事例と突き合わせながら案を練っている間にシャナンが多方面に手を回し、気がつけば問題なく乗り越えれていたのだ。
「次に、あなたの交渉力。あなたは確かに貴族たちと親しく話します。ですが、それはあなたが軽薄な約束をばらまき、耳障りの良い言葉を並べるからに過ぎません」
思わぬ反撃に、クラレンスの唇が強く引き結ばれ、僅かに震え始める。それは怒りか、はたまた耐え難い屈辱か。
「先月の商工会議所との会談で、あなたが結んだ交易協定の条項に、ホーソーン家の港湾税収の三割を譲渡する内容が含まれていたのにお気づきですか?」
「なんだと?!」
どうやら気づいていなかったらしい。と、シャナンは、クラレンスに悟られないように短く嘆息を漏らす。
「その条項は、既に修正してありますのでご安心を。心配ならあとでご確認ください」
「ぅ……っ、……分かった。そうする」
浮きかけた腰をソファーに戻したクラレンスは、そのまま背凭れへと沈み込むように凭れた。瞬間的な動揺が、彼をほどほどに疲れさせたようだ。
だが、まだ続きがあるとシャナンは、感情の伝わらない平坦な声で続けた。
シーズン中は、連日連夜至る所で夜会が開かれ招待する側もされる側も慌ただしく忙しい。政治的な派閥もあれば、財界としての横のつながりもある。
下手をすれば、一晩に幾つもの夜会をハシゴするなんて夜もある。だから、取るに足らない会話なら忘れてしまうこともあるのだろう。それが、相手にとってとても重要な内容であったとしても。
「輝耀の舞踏会で、誰と何をお話になられたのか覚えてらっしゃいますか?」
「何の話だ」
輝耀の舞踏会は、夜汐の舞踏会の後の満月の日に開かれる夜会だ。多少のズレはあるものの、夜汐の舞踏会から約五日後に北の離宮で行われる。こちらも参加者が多く賑やかなものだが、夜汐の舞踏会以上に貴族たちの会話は商談に傾く傾向にある。
クラレンスとシャナンがこの半月で出向いた夜会は九つ。輝耀の舞踏会は夜汐の舞踏会から数えて三つ目だった。慌ただしくはあったが、忘れるほど昔のことでもない。
けれど、この男は忘れたのだ。
「あなたがカオール子爵と交わした援助の約束を、覚えておいででしょうか」
「カオール?」
一瞬、怪訝そうな顔をしたあと、果たして彼と会ったのか、何を彼と話したのか、思い出そうとしているのだろう。クラレンスの視線が虚空を漂う。
やがて、記憶が繋がったのかハッとした顔を見せた。
「私は、アントワーヌ・ルーションと何を約束した?」
「……」
会ったことと、何かを約束したことは思い出したようだが、内容は無理だったらしい。
今度は、情けないと隠すことなく息を吐く。
カオール子爵、アントワーヌ・ルーション。ルーション家は昔から国務院に務める重鎮であり、政治家としてこの国を支えてきた重要な家門だ。あの一族を国から出さないために、土地こそ小さいもののカオール領という領地を与えたと言っていい。
そんなカオール子爵が新たな事業として鉄道開発に着手しようとしていた。表向きは子爵が取りまとめる形だが、支援者が集まり絵空事がきちんとした形になる後半になれば国が援助を申し出、一気に押し上げる計画だろう。
その最初の資金繰りに一枚噛ませてもらえる話を輝耀の舞踏会で持ちかけられたのだ。
長期計画だ。すぐに利益が上がるわけでも援助した金額が戻ってくるものではない。それでも中長期的に見れば、悪い話ではなかった。
だから出資すべきだとシャナンは助言し、クラレンスもその気になって援助を約束したはずなのに、その誠意は何処かに置き忘れてきたらしい。
「あなたが忘れたその約束を、不誠実にならないよう私が履行しました」
こういった投資話は、速度が肝心だ。身元が明らかではない話には、裏取りと熟考が必要だがルーション家が中心で背後に王家が見え隠れする話に躊躇は必要ない。
今シーズン中に必ずルーション家で晩餐会が開かれる。招待客は、出資した家のみだろう。
シャナンも躊躇いなく自身の口座から余剰金をクラレンス名義で振り込んだ。
この金額については関係解消に伴い追々処理していくとして、鉄道開発についての権利はクラレンスに譲る。約束を忘れたのはクラレンスだが、話が来たものクラレンスなのだ。シャナンが出しゃばる問題でもない。
シャナンが主要経営陣の初期陣営となりたいなら、別でカオール子爵と交渉すればいいだけの話であるし、父親であるパヴィ伯にも話は来ていただろうと思い一口譲ってもらおうかと頭の隅で算段する。
「信頼とは、言葉ではなく結果で築くもの。交渉とは、相手の意図を見抜く力で決まります」
クラレンスの目が一瞬鋭くなったが、投資の約束を忘れたのも、交易協定の条項を見落としたことも事実だ。彼は黙って反論せず、ただ煮え湯を飲まされたような顔をした。
「最後に、あなたの決断力。ヴァレリア嬢の可能性を見抜いたとおっしゃいましたが……。確かに彼女は魅力的でしょう」
優雅でありながら、何処か開放的で暴れ馬のような破天荒な魅力を振りまく彼女は、言葉巧みに相手の自尊心をくすぐる野心家だ。
あの日、夜汐の舞踏会でのヴァレリアの動きに引っかかりを覚えたシャナンは、自身の情報網を駆使して、彼女の動きを捉えた。
確か、『レヴァント伯爵は愚かで扱いやすい』だったかしら。
この短期間内で入手したヴァレリアが王都の商人に送った手紙の中で、彼女はクラレンスを冷たく評価していた。
概ね間違いではないが、訂正したくもある。
クラレンスは扱いやすくはあるが、愚かではない。彼は正しい歩き方を教えたら、誰よりも早く歩くどころか即座に駆け出すことも出来る男だ。
彼を一時的な道具と見なしたヴァレリアと、一生を共にすると考えていたシャナンの見え方の違いだろう。
ヴァレリアが描く交易計画に、マルケス子爵は必要不可欠である。しかし、彼は交易に精通している分、計算高く慎重でもあった。
『愚かで扱いやすい』ね。
夜会の喧騒の中でマルケスに近づき、タリシュカの染料……特に、高級な藍色染料の市場価値を強調して興味を引いた手腕は鮮やかだと思った。本命との交渉がうまくいかなかった時のための予備の交渉相手として、ホーソーン家を選んだ事も手堅い判断だ。しかし、ホーソーン家を選ばなければ、もしくは、最初からホーソーン家を本命として選んでいたのなら、シャナンにとってもヴァレリアは良き隣人となれたであろう。
ぶり返してくる腹立たしさは、大事に育てようとした苗木を踏みにじられたことか。それとも同族嫌悪か。
この短い間に、随分と派手に動いてくれたものだわ。
彼女の瞳は冷静で、感情の揺れを微塵も見せない。
「ですが、決断とは情報に基づくものでなければ、ただの衝動です。知る者は語らず……あなたの選んだ未来が輝くものであるのか否か、時が教えてくれるでしょう」
シャナンは、微笑む。
常と変わらぬ穏やかで。
そこでクラレンスは気付く。
「クラレンス様、ご理解ください」
シャナンの穏やかな表面の下で、何か途方もなく巨大で、冷酷なものが蠢いていると。
「あなたが選んだその道が、光に照らされているものでありますように」
そう、その微笑みこそが……。
「……あなたに幸運を」
深淵に立つ魔女のように美しく…………
…………――――そして、彼女こそ完璧だった。
シャナンが去った室内で、クラレンスはひとり、茫然と暖炉の消えかけた火を見つめる。胸に残るのは、取り返しのつかない喪失感と芽生えた一抹の不安。
なぜ。
どうして。
それは果たして後悔か。それとも……。
彼は、その正体を知ることはなかった。




