成長と一抹の寂しさ2
まさかの発言に耳を疑った。
腕の隙間からそっと様子を窺うと、リュシアンがまっすぐこちらを見ていて心臓が跳ねる。
彼の慈しみのこもった眼差しが熱くて、ぼふん、と思考回路がショートした。
「エミリー!」
がくんと膝の力が抜けてその場に座り込む。
慌てたリュシアンが躊躇なく膝をつき、介助するようにエミリーの背中に腕を回して顔を覗き込む。
「どうした? 具合が悪いのか?」
真面目に心配されて罪悪感が募る。
リュシアンのご尊顔にあてられて気絶しそうになったと告白すれば、平手打ちどころではない戒めが待っていそうで真実に蓋をする。
「その……気が抜けて、ついでに腰も抜けてしまいました……」
これは半分本当。令嬢らしからぬへらっとした笑みを向けると、きょとんとしたリュシアンの表情がほっと和らぐ。
「怪我はないか?」
「はい。驚かせてしまい申し訳ございません」
まだエミリーの顔色を窺い健康観察したリュシアンは、なぜか空いている方の腕を膝裏に差し込んできた。
「!?!?」
「少し顔色が悪いな。おそらく疲労だろうが、しばらくベンチで休むといい」
「そっそっそれなら自分で歩けますっ!」
「却下する」
「!!!!」
きっぱりと譲らない意思表示をしたリュシアンは、エミリーを横抱きにした状態で立ち上がる。
抱えられたまま彼を見上げると、長い睫毛が下瞼に影を作っていた。視線に気付いたリュシアンがこちらに顔を傾け、薄い唇を開く。
至近距離で息を吸い込む気配がして、その生々しさに息を詰めた。
「首の後ろに手を回してくれないか? その方が安定する」
「!! ひゃいっ」
もはや正常な判断は不可能だった。
指示通り首の後ろに手を回すと、リュシアンはくっくっと喉を震わせて笑う。恥ずかしくて穴に埋まってしまいたかった。
短い時間がとてつもなく長く感じた。ベンチにそっと下ろされたエミリーはもはや息も絶え絶えだった。
「ありがとう、ございます……」と何とかお礼を伝えた後、うっすらと抗議の色を滲ませてリュシアンを睨んだ。
「リュシアン様……」
「ん?」
優しい声色と表情に――エミリーの一挙手一投足に意識を向けるリュシアンに、人生最大級のダメージを受けた。
瀕死に陥りつつ気合で態勢を整え、リュシアンを見据える。
「……私、少し怒ってます。分かってますよね?」
「無作法に触れたことなら謝罪する。だが、体調の悪い君を放っておくことはできない」
「そっちじゃありません! まあ、いきなり抱っこは驚きましたけど、救助活動ですし。それより、ご自分の美貌を自覚するように忠告しましたよね? リュシアン様にとって何気ない言葉や仕草でも、多大な影響を与えます。だいたい――……」
お説教モードに突入したエミリーは、大人しく耳を傾けているリュシアンの表情に疑念を感じた。
「小言を言われているのに、どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
怪訝な眼差しを向けると、リュシアンはハッとして口元を掌で覆った。
「っすまない。君が私を思って忠告してくれているのは分かっているし、茶化すつもりはない。ただ、私に対して畏まった態度を崩さないエミリーが、少し砕けた様子で素顔を見せてくれたことが思いのほか嬉しかった。友人として、いつもより近い距離にいることを許された気がして……」
少し照れくさそうな視線を寄越すリュシアン。
(え? 何それ可愛い。尊い。もう尊すぎて意識が……!!)
すぅっと意識が遠のいたエミリーは両頬に平手打ちをかまして正気を保った。いつかのリュシアンの真似だが、なるほど、戒めには効果抜群だ。
「エミリー!?」
驚くリュシアンの前に掌を突き出し「ストップ」する。困惑したリュシアンは眉間に皺を寄せ、エミリーの足元に跪いた。
「エミリー。なぜ己の頬を叩いた? 自分のことをもっと大切にしてほしい」
「……今のは戒めです。リュシアン様も同じようになさっていたじゃないですか」
「戒め? 何か戒めるようなことがあったのか?」
(あ、しまった!)
説明できない、できたとしても絶対したくない個人的な事情である。けれどやましいところがあるとは思われたくない。
困ってむむむと口ごもっていると、リュシアンの気遣う声がした。
「聞かれたくないことを詮索するつもりはない。だが、君の傷を見過ごすことはできない。私が手当したいところだが、君は光魔法の使い手だ。どうか自身に治癒を」
「この程度、全然――」
「頼む」
切実に、上目遣いで懇願されて「ヴッ」と奇声が漏れそうになった。
お願いの形を取ってはいるが、一歩も譲る気はないという固い決意を感じ取り、エミリーは渋々魔法をかけた。
{治癒}
魔法の発動と同時に頬の痛みが引く。その様子を固唾を飲んで見守っていたリュシアンが、ようやく安堵の息を吐いた。
「ありがとう」
(私が勝手にしたことなのに、何でお礼を言うの?)
リュシアンは表情を変えていない。しかし、切れ長の瞳が微かに緩んでいる。本当なら笑っている場面なのだろう。
考えてみれば、自ら望んで国宝級の美貌を持って生まれたわけでもないのに、気楽に人前で笑うこともできず、女性にはほぼ例外なく異性として期待を向けられるというのはかなり酷な話だと思った。
「……たいなぁ」
ぽろりと本音が漏れる。
「ん?」と不思議そうなリュシアンの顔を見て胸が締め付けられ、膝の上で己の掌を握った。
「リュシアン様に、気兼ねなく笑っていただきたいなぁって……」
人目を気にせずとまでは言えない。でも、たとえば婚約者や、気心の知れた友人の前では気兼ねなく笑ってほしい。
「今はまだ難しいですが、頑張って慣れますので。いつか、私の前でも笑顔を解放していただきたいです」
(人に求められ続ける立場のこの方に、安らげる瞬間を少しでも多く作って差し上げたい)
独り言のように零すと、リュシアンの瞳が驚きに染まった。友人であるとはいえ、ずいぶん踏み込んだ――図々しいお願いをしたことに気が付いて、とても焦った。
「すすすすすみません! 立場を弁えず、出過ぎたことを申しました。今のは忘れてくださいっ」
勢いよく頭を下げると、リュシアンが動く気配がする。立ち上がったリュシアンは隣に腰掛け、エミリーの頭の上に掌をのせた。
「エミリー。顔を上げてくれないか。私は何も気を悪くしていない」
「……っ」
ひどい失敗をして咎められるのを恐れている子供を宥めるような、落ち着いた優しい声だった。
「私を慮り、安易に踏み込んでこない君の思慮深さや慎ましさを好ましく思う。だが同時に少し寂しくもある。同性ほど気安く接することができない事情は理解しているが、これからも君の負担にならない範囲でありのままの姿を見せてくれたら嬉しい。君は私にとって、かけがえのない友人だ」
「リュシアン様……」
その場限りの気休めではない、心からの言葉に胸が震えた。顔を上げると、優しい眼差しを向けたままのリュシアンが頭の上から手を引いた。
リュシアンに与えられる温もりが心地よくて、それが離れてしまうことに言いようのない寂しさを覚える。けれどその感情は友人相手には相応しくない。
「ありがとうございます。リュシアン様も、私にとって――……かけがえのない友人です」
胸に走った鋭い痛みに気付かなかったフリをして、明るい笑顔を浮かべた。リュシアンの友人として彼の信頼に応え、求められている役割を果たしたい。
「女性苦手克服作戦について提案があります。私との会話には十分慣れましたし、そろそろ次のステップに移りませんか?」
「次のステップ? たとえば、他の令嬢と会話するということだろうか?」
「はい。自分からお声掛けするのは心理的なハードルが高いでしょうから、まず、挨拶を返すとか、簡単なところから始めましょう。お返事の際は「ああ」と頷いて視線を逸らすのではなく、ちゃんと相手の顔を見てくださいね」
「分かった。善処する」
神妙に頷くリュシアン。話が一段落し、二人の間にほっこりした空気が流れた。
「エミリー。この課題をクリアしたら、もうひとつの課題に付き合ってもらえないだろうか?」
「はい。何でしょう?」
「女性に人気の店を回って情報収集したい。できれば女性を案内するのに適した場所を下見するのにも付き合って欲しい。エミリーの意見を聞きたい」
「なるほど。それなら王都がいいでしょうね。色々見て回るのは時間がかかりそうなので休日にしましょうか。ご都合の良い日に合わせて外出申請をしておきますね」
「! いいのか? 十中八九断られると思っていた」
「えっ? どうしてですか?」
パチパチと瞬きするエミリー。リュシアンは余計なことを言ったと後悔した様子だったが、渋々口を開いた。
「君は人前で声を掛けるのを禁じていただろう? だから人目を気にして二人での外出など承服しないと……」
「!!」
(しまった――――!! そこまで気が回らなかったわ!!)
リュシアンと二人で過ごすことに慣れてきて感覚が麻痺していた。人目を忍びつつ、休日の王都でリュシアンと行動する――それはエミリーにとって最高峰の山に登るような挑戦だった。
何も考えず迂闊に承諾したことを激しく後悔していると、内心を察したリュシアンがしゅんと肩を落とす。
「やはりだめだろうか……?」
(ん”ん”っ)
懐いているさみしがり屋の子犬につれなくしているような罪悪感が湧いてくる。己の保身とリュシアンの笑顔を天秤にかけ、チーン!と後者に軍配が上がったエミリーは観念した。
「いえ。必要なことだと思いますので、僭越ながらご一緒させていただきます」
「! そうか、よかった。ありがとう。心から感謝する」
心底嬉しそうなリュシアンの三分咲きの微笑みを真正面から直撃し、エミリーは危うく昇天しかけた。