終わりとはじまり1
夕暮れを迎えた湖は、沈みゆく太陽の光を反射して黄金色に輝いている。その幻想的な風景に胸を打たれながら湖畔の遊歩道で佇んでいると、そよ風に肌寒さを感じてぶるっと肩を竦めた。
日中は陽射しのおかげで暖かかったが、夕暮れ以降は一気に肌寒さが増す。夜まで残ると思っていなかったエミリーは、上着を持参しなかったことを内心後悔した。
それを顔に出したつもりはなかったが、微細な変化を読み取ったリュシアンが上着を脱ぎ、肩に掛けてくれた。
「気が利かずにすまなかった。せめてこれを着ていてくれ」
「ですがそれではリュシアン様が寒いでしょう? 風邪を引いてしまいます」
「心配には及ばない。上着がなくとも暖を取る方法はある」
「え? ――っ!?」
エミリーの背後に立ったリュシアンに肩を抱き寄せられ、ぽすん、と彼の胸板に後頭部が当たった。さらにもう片方の手を腹に回され、彼に体重を預けるように促される。
「こうしていれば二人とも寒くないだろう?」
背を屈めて耳元で囁かれ、直に吹き込まれる甘い声に心臓が跳ね上がった。体温がブワッと上昇し、全身に鼓動が響き渡る。
「あの、リュシアン様……っ」
上半身を捩ってリュシアンの顔を見上げると、至近距離で視線が交わる。とてつもない美貌にあてられて言葉を失うと、顔を傾けたリュシアンが「ん?」と恋人を甘やかすように問いかけた。
「寒いならもっと近付くといい。遠慮はいらない」
きゅっと手に力がこめられ、彼の体に密着する。リュシアンに抱き寄せられた体勢のまま、彼の香りと体温に包まれて思考が弾け飛んだ。
(だめだわ、もう、何も考えられない……っ)
抗議する気力も体力も削がれ、諦めたエミリーは大人しく身を委ねた。周りにいる恋人たちも同じように身を寄せ合っていて、間もなく始まる花火を心待ちにしていた。
「始まるようだな」
ひゅるるるる、と花火が上がって周囲から歓声が沸く。夜空にパッと開いた大輪の花火は、色とりどりの光を放って湖へ零れ落ちていく。
眩い光が僅かな時間で煌めく光の粒子となって消えていく様は儚くも美しく、ゆらめく湖面に映り込む花火にも風情があった。
次々と花火が打ち上げられ観客が盛り上がる中、少しだけ身を捩ってリュシアンをこっそり見上げた。花火に照らされた彼の横顔にぎゅうっと胸を締め付けられた。
目の前に広がる美しい景色も、リュシアンが側にいることも、全てが夢のようだった。
(でも、もうすぐ夢のひとときが終わる。そしたらリュシアン様に伝えなきゃ。私はもう……お役御免だって)
身に余る幸福の中、迫りくる別れの足音に胸が引き裂かれそうになる。これまで何度も自分に釘を刺し、彼に惹かれまいと戒めていたのに。
(ふふっ。私……いつのまにかこんなにもリュシアン様を好きになっていたのね)
けれどエミリーは友人であり、それ以上の関係は求められていない。彼は近い将来他の令嬢を選んで婚約するだろう。そうなればこれまで通り親しくすることはできなくなる。
それに元々、彼が女性への苦手意識を克服するために始まった関係だ。エミリーははじめから彼の婚約者候補の対象外で、今更それに傷付くなんて思わなかった。
「素晴らしい光景だったな。最後に君と見られてよかった」
リュシアンの声にハッとした。いつのまにか花火が終わり、周囲は歓声と拍手に包まれていた。熱気冷めやらぬ中、エミリーは内心打ちのめされた。
(『最後に』、か。やっぱりリュシアン様もそのつもりなのね)
一縷の希望さえ抱かせない、誠実ともいえる彼の言葉に苦笑した。私は一体何を期待するつもりだったのだろう? 己の浅ましさに嫌気が差した。
エミリーはリュシアンから離れて振り向き、穏やかな笑みを浮かべた。
「リュシアン様。秋祭りのエスコートをしていただき、ありがとうございました。リュシアン様と楽しい時間を共有できて幸せでした」
「こちらこそ君と秋祭りを共に過ごせて幸福だった。心に残る思い出をありがとう」
既に過去のものとして割り切っているリュシアンに叫び出したいほどの寂しさを覚えた。平静を装い、己の腹の前で手を組んだエミリーは、覚悟を決めて口を開く。
「今日一日リュシアン様の婚約者役としてエスコートを体験し、安心しました。文句のつけようがないほど素晴らしかったです。もう私の手助けは必要ありませんね。練習は終わりにしましょう」
(これで全部おしまい)
自分の意思と関係なく涙が溢れそうになり、指先を握り締めて耐えた。笑え、と心の中で強く言い聞かせる。
リュシアンに協力するために始まった友人関係だったが、与えるよりも与えられたものの何と多いことだろう? 気付けば、溢れるほどの喜びや幸福をもらっている。たとえ異性として意識されることがなくても、十分にお心をいただいたと思う。
じっとこちらを見つめていたリュシアンは、「分かった」と重々しい声で承諾した。
「君の申し出を受ける。練習は今日で終わりにしよう。君にはこれまで数えきれないほどの手助けをしてもらった。惜しみない協力に最上の感謝を捧げる」
「身に余る光栄です」
リュシアンと疎遠になっていくことに寂しさを感じつつ、これ以上苦しい想いを抱えながら隣にいることはないのだと、安堵が広がっていく。目的は達成したし、もはやこの場に留まる理由はない。
「花火も終わりましたし、私たちも帰りましょうか」
早々に帰寮を促したが、なぜかリュシアンは一歩も動こうとしなかった。緊張した面持ちで何かを躊躇っている様子だ。
「? どうかしましたか?」
人混みで気分が悪くなったのかもしれないと心配になった。彼に近付いて顔色をよく見ようと頬に手を伸ばすと、その手を握ったリュシアンが熱い眼差しを送ってきた。
「……練習が終わったなら、オレと新しい関係を築いてもらえないだろうか?」
「え?」
「エミリー。どうかオレの恋人になってほしい」
花火が終わって観客がぞろぞろと市街地へ戻る中、耳を疑った。
(まさか。聞き間違いよね?)
戸惑いつつリュシアンを見上げる。エミリーの困惑を察したリュシアンは少し怯んだ様子を見せたが、諦めず、強い意思を示すようにはっきり告げた。
「オレは君との関係を友人で終わらせたくない。これからも二人の時間を過ごしたいし、君に側にいてほしいと願っている」
「えっと……それは練習のために婚約者役を続けてほしいということですか?」
「そうではない。練習でも役でもなく、ただ本物の恋人になってほしいんだ」
想定外のお願いにパチパチ瞬きした。
相手がリュシアンではなく、秋祭りに誘ってくれたクラスメイトの令息が相手であれば、本心であると素直に受け入れられただろう。
けれどリュシアンは多くの女生徒たちにとって憧れの存在で、手が届くはずもない高嶺の花だ。彼が本気で愛を請うているとは到底思えなかった。
(もしかして……そういうことなの?)
急激に胸の内が冷えていく。
家柄の良し悪しに限らず、貴族の令息たちの中には学生時代に限った恋人を持つ者たちがいる。もちろん婚約者がいる場合には関係を公にできないので、人目を忍んで逢瀬を重ねる期間限定の恋人だ。
仮に婚約者のご令嬢がそれに気付いても、たいていは知らないフリをして目を瞑る。青春を謳歌するためのお遊びに過ぎないからだ。
誠実を絵に描いたようなリュシアンが軽薄な誘いの言葉を発したことに驚愕し、はじめて彼に失望した。




