懇願
寿限無さんは僕を駅近くのカフェに連れていった。
結婚披露宴もできる高級なホテルの2階にあり、店内のインテリアは木目調で統一され、美しく落ち着いていた。客席の間はパーテーションで仕切られている。ファストフード店よりもかなり値段設定が高く、僕と獅子谷くん、高山くんとではまず来ることはない喫茶店だ。
ウエイトレスは濃いグレイのスーツを着て、蝶ネクタイを締めていた。
「ケーキセットをください。飲み物は紅茶。ケーキはモンブランを」と寿限無さんは注文した。
ケーキセットはラーメンが2杯は食べられる金額だった。僕はコーヒーだけを頼んだ。
「割とお高めだね」と僕が言うと、寿限無さんはこくんとうなずいた。彼女はしずしずとして、僕と目を合わせてもなかなか話し出さなかった。
僕もそれ以降は沈黙をつづけた。
注文した品をウエイトレスが運んできた。
僕はコーヒーにミルクを注ぎ、スプーン1杯の砂糖を入れてかき混ぜた。
「このお店のコーヒーはとても美味しいのよ」やっと寿限無さんが話し始めた。「私は紅茶党なんだけど、ここではたまにコーヒーを飲むの」
僕はコーヒーをひと口飲んでみた。苦味と酸味がくっきりと感じられた。それが美味しいのかどうかはよくわからなかった。
「確かに美味しいね」と僕は出まかせを言った。
彼女は紅茶をゆったりと優雅に飲み、フォークでマロンクリームをすくい取った。
僕は少し焦れた。高級喫茶の味をゆっくりと楽しむような気分ではなかった。きらりさんとふたりならかまわないが、相手が寿限無さんではよくない。
「用件を言ってほしい」
「ちょっとおしゃべりしましょうよ。小鹿くんはアニメが好きなんだよね。私、アニメの話もできるのよ。あなたがカラオケで歌ったアニソン、知っているのがあったわ」
「割と真剣な話というのを済ませてほしい」
彼女はティーカップをソーサーに置き、小さなため息をついた。
「単刀直入に言わないと、小鹿くんの機嫌を損ねてしまいそうね。いいわ、言う。私とデートしてほしいの」
「デート?」
僕の脳内で高く鋭く警報音が鳴った。
この人はなんでこんなことを言い出したのだろう。
僕には恋人がいる。
寿限無さんもそのことはよく知っている。
そして彼女は高山くんとデートを繰り返したあげく、一昨日彼を振ったばかりなのだ。
「お断りします」
「おわっ、いきなり断られた。もうちょっと迷ってよ」
「迷う余地はないよ。僕はきらりさんとつきあっているんだから」
「そこをなんとかお願いしたいの。一度だけでいいから」
寿限無さんは胸の前で両手を合わせ、上目遣いで僕を見た。
僕は彼女の視線を避けて、焦げ茶色をしたコーヒーの表面に目の焦点を合わせた。
「寿限無さんはなぜ高山くんを振ったの?」と僕はたずねた。
「タイプじゃなかったから」と寿限無さんは即答した。
高山くんの嘆きを思い出して、僕は物悲しい気持ちになった。
「タイプじゃないなら、どうして何回もデートしたの? 高山くんはきみが大好きだったんだよ」
「告白されるまではデートしたっていいかなと思ってたの。もしかしたら気が変わって好きになるかもしれないし」
そう言われてしまうと、それ以上追及はできなかった。恋人のいない男女が遊ぶのは、個人の自由だ。誰に遠慮することもない。
「でも高山くんを好きになることはなかったわ。彼に告白されたとき、私が誰を好きかがはっきりとわかったの。その瞬間に、好きな人の面影が浮かんだのよ」
僕の脳内のアラームがさらにかん高く響いた。
「私は小鹿くんみたいな男の子がタイプなの」
彼女はテーブルに身を乗り出し、顔を僕の間近に寄せた。
「徹頭徹尾あなたみたいな男の子が好きなの。童顔で可愛くて、でもからだは締まってて筋肉質だなんて、理想の姿がまさに現実になっているのよ。私はあなたことが心底から好きなの!」
言われた瞬間に、僕は断りの文句を考えた。
シンプルに答えよう。すぐにそう決めた。
「ごめんなさい」
「断らないでよ。つきあってとは頼んでないわ」
「告白とつきあってはセットかと思ってた……」
「まあ普通はそうだろうけど、小鹿くんにきらりがいることは私も承知しているわ。あの子を捨てて、私を選んでとまでは言わない。そこまで高望みはしていない。あなたたちはうまくいっているみたいだし」
一度だけデートして。それだけでいい、と寿限無さんは言った。
「僕は浮気したくない」
「浮気じゃないわ。かわいそうな女の子に、一度だけあわれみをかけるだけ。そんなの浮気じゃないでしょ?」
「きらりさんは浮気だと思うかもしれない」
「あの子には秘密で会いましょう」
「なおさら浮気っぽいよ」
「そう思うならそれでもいい。とにかく一度だけデートして。きらりとは百回でも二百回でもデートできるでしょ。私とは一度だけ。お願いよ」
ふーっ、と僕は深く息を吐いた。
「どうしてそんなに僕にこだわるの? 僕の外見がちょっと好きってくらいで」
「ちょっとじゃない。ものすごく好き。死ぬほど好き。最近は毎晩あなたのことを考えているの」
「僕なんてつまらない男だよ。成績はたいしたことないし、将来の夢も人よりすぐれた芸もない」
「あなたのルックスが最高なのよ! 内面なんてどうでもいい」
寿限無さんはそう言い切った。
「私はルックス至上主義なの」
彼女の目は僕に向かって見開かれ、大理石に刻まれた像のようにまばたきもしなかった。
「恋の始まりはルックスよ。あなただってきらりの顔と胸に惹かれたんでしょう?」
「僕は彼女の内面も素敵だと思っているよ」
「それは結果的にそうなっただけでしょう? あの子とつきあったのは、顔が綺麗で胸が大きかったからだよね」
否定はできなかった。それは確かに真実だった。
「私は死ぬほどあなたに恋してるの。一度だけでいいから思い出が欲しい」
「きみの想いが強ければ強いほど、デートするわけにはいかないよ」
「私、もう一度プールへ行きたいの。小鹿くんの水着姿を目に焼きつけたい」
「ごめん、行けない」
寿限無さんの目がにじみ、やがて大粒の涙が頬を流れた。
「どうしても?」
「どうしても」
彼女は泣きながら不敵に笑った。涙をぽろぽろ流しながら笑う女の子を初めて見た。
「わかった。プールに行くのはあきらめる。でもこの後、一緒に公園を散歩して」
「散歩?」
「そう、散歩するだけ。それが終わったら、もうこんなわがままは言わない」
僕はまた長く深いため息をついた。
「お願い」と彼女はだめ押しするように言って、頭を下げた。
涙がテーブルの上にぽたぽたと落ちている。それを見ているうちに、この懇願を今日だけは受け入れて、やっかいごとを済ませてしまおうという気になった。
寿限無さんは泣きやんでしばらくしてからレジへ行き、支払いを済ませた。僕がお札を出しても、けっして受け取ろうとはしなかった。
カフェから出ると、彼女は有無を言わさず僕の手を握った。




