空腹とラーメン
山を下りるとアスファルトの舗装道があり、自動車が走っていた。エンジンの駆動音が近づき、去っていくのを聴いたら、日常空間に帰ってきたんだという感慨が胸の内に広がった。
私鉄の駅に向かいながら、きらりさんは「お腹が空いたわ。ラーメン食べない?」と言った。
僕もお腹はぺこぺこだった。
登山というハードなスポーツに加えて、初めてのセックスをし、僕はエネルギーを消費しきっていた。
「食べたいね」と僕は答えた。
がっつりとお米を食べたい気もしたが、ラーメンの食べ歩きは彼女の趣味だ。それにつきあうのは彼氏のつとめだと思った。
彼女がスマホで調べて、帰宅の途上にあるよさそうなラーメン屋さんを見つけた。
店名は『塩ラーメンしかありません』。
「個性的な名前のお店だね」
「わたし、猛烈にこのラーメンが食べたい」
僕はきらりさんの意向を徹底的に尊重したい。
「決まりだね。行こう」
私鉄に乗り、JRに乗り換え、目当てのラーメン屋さんの最寄り駅で下車した。そこは江戸時代風の街並みが残っている観光地で、駅前は大勢の人でにぎわっていた。
きらりさんが地図アプリを確認し、歩き始めた。僕はその隣を行く。
黒い瓦屋根の家屋が多い。確かに歴史情緒のある街だった。
徒歩15分くらいで目的の店に到着した。
そこで僕は愕然とした。
ざっと見て30人以上の長い行列ができている。この後ろに並ぶには、僕は疲れすぎ、お腹が空きすぎていた。
「これはすごい待ちになりそうだね」
「待ってでも食べたい」
きらりさんは何がなんでもこの店のラーメンを食べたいようだった。
僕はかなり嫌だった。
やめようよという言葉が口から出かかり、きらりさんの願いだぞと思い直す。
激しい葛藤があり、脳内で悪魔と天使が戦った。
悪魔は「いくらカノジョの願いだからって、すべて叶えてやる必要はないさ。こんな行列の最後尾についたら、空腹で倒れちまう。牛丼でも食べに行こうぜ」とささやき、天使は「初体験をさせてくれたカノジョの希望だよ。空腹くらい我慢して叶えてあげなくちゃ。絶対にラーメンだよ」と主張する。
悩んだあげく、僅差で天使が勝った。
僕の空腹なんかどうでもいい。きらりさんの言葉を優先する。死ぬほど空腹だけど、本当に死にはしないだろう。
「いいよ。待とう」
「疲れてるのにつきあわせてごめんね。でもわたしは、これを食べずに帰ることはできないって気分になっちゃったの。つきあってくれてありがとう」
きらりさんは複雑な表情をしていた。僕に対して悪いなあと思っているが、ラーメンを食べたい、そしてやっぱり僕につきあってほしいと願っていることがその表情から読み取れた。
その顔を見て、自分を捨てて我慢する決意が固まった。
僕たちは長い長い行列のいちばん後ろについた。
「チョコレートを持ってるよ。食べる?」
「いらない。こうなったら最高の状態でラーメンを食べたい。空腹は究極のスパイスだよ」
「そうね。それ、絶対に正しいわよ」
行列は少しずつしか進まなかった。
待っている人たちの会話から、店内には6席しかないことがわかった。
麺は太くて腰があり、茹でるのにけっこう時間がかかるらしい。
しかもお客さんは味わいながら大切に食べるので、回転が遅いのだ。
僕のお腹はぐううと鳴った。
「ごめんね、カナタくん」
「あやまる必要なんてまったくないよ。僕はラーメンが食べたくてしかたがないんだ」
嘘は言っていない。
だが、言葉にしていない想いがある。
僕は早く食べたいのだ。
早く、できるだけ早く。
本当はラーメンよりお米が食べたいが、こうなったらなんでもいい。とにかく食べ物を摂取したい。
お腹と背中がくっつきそうだ。
「今度、カラオケをやるんだよね?」
きらりさんは話題を変えた。
彼女もかなりお腹が減っているはずだ。ラーメンとは関係のない話で空腹をまぎらせようとしているのかもしれない。
ゴールデンウィークの最終日に、男女6人でカラオケをやって交流しようということになっている。
参加者は僕ときらりさん、すみれ、寿限無さん、獅子谷くん、高山くん。
全員と知り合いなのは僕だけという事情があって、幹事をつとめている。
「なんか合コンみたいだよね……」ときらりさんがつぶやく。
合コンとは社会人や大学生が男女の出会いのために行うお酒を飲む会だと思うが、今回のカラオケの趣旨は確かに合コンみたいなものだ。
獅子谷くんと高山くんには明確に下心がある。
「ねえ、カナタくんはわたし以外の女の子と仲よくしたりしないよね?」
「もちろん。きらりさんが僕のいちばんの女の子だからね」
すみれとは不仲になるつもりはないが、きらりさんの前であまり親しげにふるまう気はない。
寿限無さんと単なる同級生以上の仲になるつもりはまったくない。
すみれと寿限無さん、獅子谷くん、高山くんがどのような関係になるのかは、未来になってみないとわからない。
僕はよいカップルが生まれたらいいなと思っている。
特にすみれのしあわせを願っている。
すみれは僕の大切な幼馴染だ。彼女がいなかったら、僕のこれまでの人生はまちがいなくもっと暗くじめじめしたものになっていただろう。
僕は彼女を愛している。恋愛的な愛ではない。おそらくは友愛だ。
すみれをしあわせにしてくれるなら、獅子谷くんでも高山くんでもどちらでもかまわない。
僕はすみれとそのパートナーを応援したい。
カラオケ交流会をきっかけにして、すみれがしあわせになってくれればうれしい。
待つこと1時間40分。
耐えがたいほどの長い時間を待ちきって、ついに僕らの順番がめぐってきた。
店内には香ばしい煮干しの匂いが充満していた。この店の売りは、煮干しで出汁を取った透明スープの塩ラーメン。それだけしかない。
僕ときらりさんは並んでカウンター席に座った。
メニュー表なんてものはなかった。
本当に塩ラーメンだけしかないのだ。
その店では大盛りにする選択肢すらなかった。
「ラーメンふたつ」と注文している人がいた。
大盛りがないので、がっつりと食べたければそうするしかないのだ。
「ラーメンふたつ」ときらりさんは迷うことなく頼んだ。
「ラーメンふたつ」と僕も少し考えてから言った。僕は割と小食の方だが、いまは猛烈にお腹が空いている。胃に麺をたっぷり注ぎ込みたかった。
さらに待つこと10分。
僕たちの前に待ちに待ったラーメンがやってきた。
スープは麗しく、澄み切っていた。かすかに黄金色。
麺はうどんのように太かった。清々しいほど小麦色。
ごく薄くスライスされたチャーシューが3枚乗っていた。生ハムのように鮮やかな色。
メンマは見たことがないほど太く長く、1本だけ。
薬味の青ネギがたっぷりと散らされている。
まさにこだわりのラーメンという感じだった。
まずひと口、れんげでスープをすくって飲む。
絶品としか言いようがなかった。
舌がとろけるような美味いラーメンを2杯、きらりさんは豪快にすすり、最後の一滴まで一気に完食した。
僕は熱い麺にふうふうと息を吹きかけて冷ましながら、ゆっくりと食べた。
超空腹に超絶美味を流し込む。
それはセックスと同等の快楽だった。
きらりさんの倍くらい時間はかかったが、僕も完食し、店を出た。




