50話 苦しいけど苦しくない
電話を受けた時点で既に夜十時を回っていた。師走の深夜だというのに、寒さは全く感じない。
とにかく全力でペダルを漕いでいく。脇目も振らず、ただ一点前だけを見据えて。人も車も少なかったので、信号も気にしなかった。
白鳥家にはあっという間に着いた。ただ様子がおかしい。
どの部屋にも照明は点いておらず、車庫には一台も車が停車していない。
俺は自転車を置いて、息も絶え絶えにインターホンを押した。
「ピンポーン」と切迫したこの状況にはそぐわない、間延びした呑気な音が鳴る。
暗夜に広がる静寂。一秒、二秒――。
インターホンからの応答はない。
まさか――。
不吉な予感が頭をよぎり、不安と焦りが一気に膨張した。
俺はそれを振り払うように首を振って、またインターホンを押す。
じれったくて何度も何度もボタンを連打する。
それでも出ない。
ならばもう一度電話をと連打していた指を止めると、玄関からガチャという音が響いた。
俺はすぐに玄関を見た。扉がゆっくりと開いていく。
もどかしさを抑え待っていると、扉の影からそっと白鳥が出てきた。
「白鳥!」
白鳥の姿を確認した途端、俺はもう自分を制御できなくなった。
玄関へと走っていき、そして白鳥を思いっきり抱き締める。
ふわっと香る甘いシャンプーの匂い、手から感じる体温の温もり。
腕の中にいる白鳥が、幻想ではなく本物であることを実感する。
「白鳥、俺が悪かったんだ。ごめん、ごめん……」
俺は涙で視界を歪ませながら何度も謝った。謝って済む話ではないことも、許されるような軽い罪ではないことも分かっている。それでも、今の俺には、ただ謝ることしかできなかった。
「どうして……」
耳元で白鳥が囁く。
「どうして、謝るのですか?」
「俺が白鳥を苦しめたんだ。俺がちゃんと言わなかったから……今日、明日死ぬわけじゃないんだって教えてあげなかったから、白鳥はいつ寿命が尽きるのか分からなくて、毎日死の恐怖に苦しめられたんだ。だから俺のせいなんだ。俺がもっとちゃんとしていれば……」
少しの間の後、白鳥がクスッと笑った。
「言われてみればそうですね、今まで気付きもしませんでした。私の寿命が仔細に見えているのなら、教えてほしかったです。とても苦しめられましたよ。これはあなたのせいです」
親が幼子に言い聞かせるような、小さく優しい声で咎められた。
自分の行いが罪であると自覚していたが、当の被害者から罪だと認められると、自分が罪人であるという烙印を押されたような感じがして、悔恨の念に打ちひしがれる。
「でも……」
白鳥の手がゆっくりと、俺の背中に回される。繊細な手の感触が、背中を通じて伝わってくる。
「今は苦しくありません。あなたが来てくれましたから」
白鳥が傍にいるというのに、俺は加害者だというのに、涙を堪えることができなかった。
白鳥の優しさが、大きく開いた傷口に染み入るようで痛かった。
「どうしてあなたが泣くのですか? 苦しんだのは私ですよ?」
白鳥は冗談交じりに言いながら、俺の背中をさすってくれる。
小馬鹿にされた感じがしたので、俺は小さく反抗することにした。
「苦しめたのは俺だ。でも、寿命が見えるのだって辛いんだからな。特に大切な人の寿命は」
白鳥はもう何も言わなかった。
しばらく抱き合った後腕を解くと、落ち着いて正気に戻ったからか、瞬間湯沸かし器のごとく恥ずかしさが沸騰してきて、白鳥の顔を見ることができなかった。
そのおかげで、白鳥がネグリジェにカーディガンという寒々しい格好であることに気付き、とりあえず玄関に入ることにした。
白鳥曰く、今日は両親が急用でいないらしい。
上がり框に並んで腰掛けると、白鳥は訥々と話し始めた。




