31話 ごめん
「今から謝ってきて」
「は?」
「だから、今から涼ちゃんに謝ってきて」
「今から⁉」
涼介は既に教室から出ている。杏奈がここにいるということはおそらく帰ったのだろう。
その彼にどうやって謝れというのか。
「そう、今から。解散してまだそんなに時間経ってないでしょ。走って追いかけたらすぐに追いつくよ」
杏奈は俺の腕を引っ張って、無理矢理立たせようとする。
抵抗するが、杏奈は手を離そうとしない。
「ちょっと待てよ。真っ直ぐ帰るとは限らないだろ。友達と遊びに行ったかもしれないし、寄り道してるかもしれない。こんなクソ暑い中走り回って無駄足に終わったらキツいぞ」
「そうやって言い訳作って逃げてるから、未だに謝れてないんでしょ。私さっきまで涼ちゃんと一緒にいたから、寄り道しないことは知ってる。だから早く追いかけて。ちゃんと謝って!」
逃げているという言葉が少し癪に障る。ただ、それよりも問題なのは杏奈の方だ。
杏奈はこういう時、言い出したら止まらない。止めるには言うことを聞くしかない。
これはある意味、俺が待ち望んでいたタイミングなのかもしれないなと、俺は観念した。
「分かった、行くよ。ちゃんと謝ってくる」
俺は立ち上がり、歩いて教室を出ていく。
出てすぐ、扉の外側に人が立っていた。予想だにしない所に人がいて、思わず二度見してしまう。
その人物もまた予想外だった。
「り、涼介……」
涼介は俺の声に反応することなく、目を閉じたまま扉に背をもたせ、腕組みをして立っている。
想定よりもかなり早く対面したせいで、心の準備ができていない。
自然に謝罪するシミュレーションもしていない。一体どう謝ればいいのか。
こんな数秒の間に妙案など思い浮かぶはずもない。
俺は諦めて、ただ謝ることにした。
「涼介、俺が悪かった。ごめん」
涼介の目がゆっくりと開いた。鋭い視線が俺を捉える。
「何を悪いと思ってるの?」
「それは……あの時涼介に八つ当たりして、根も葉もない暴言を吐いたことだ。本当に悪いと思っている」
涼介はすぐに目を逸らし、口を開こうとしない。
重苦しい沈黙が続く。
やはり謝罪が遅すぎたのかもしれない。ではどうすれば許してもらえるのだろうか。
何が罪滅ぼしになるのだろうか。
沈黙の間そんなことを考えていると、突然涼介がクスクスと忍び笑いを始めた。
笑い声は次第に大きくなり、やがては堪えきれなくなったのか、口を開けて笑いだす。
俺は訳が分からなかった。
ついさっきまで俺を射るような目つきで見ていた涼介が、今は腹を抱えて笑っている。
笑う理由が分からない俺には、涼介が奇人にすら見えた。
ひとしきり笑った後、涼介はようやく口を開いた。
「ごめん、隼人。僕はもう怒っていないんだ」
「怒ってない? どういう意味だ?」
「そのまんまだよ。別に怒ってなんかいない」
杏奈が教室から出てきた。
杏奈も笑っていたのだろう、顔ににやけが残っている。
「いや、でも涼介は俺を避けてただろ。あの日から俺を一度も見ようとしなかった」
「それは……」
涼介は杏奈に視線を移す。
杏奈も涼介を見て、笑いを堪えるように口を手で押さえる。
「僕も最初はイライラしていた。あんな暴言を言われたんだからね。でもそれはほんの数日だけで、怒りは自然と収まっていたんだ。でも杏奈ちゃんと話してる時に、隼人が気にしてるっていうから、怒ってるふりをしてちょっとからかってみようってことになったんだ。でも、隼人が全然謝ってこないからやめようにもやめられなくなっちゃってさ。それで今に至るってわけ」
涼介はばつが悪そうに、頭に手を当てている。
「そっか、そうだったのか。怒ってないなら良かった」
一ヶ月近く俺を悩ませていた問題は、なんてことはないただの悪戯だったのだ。
あっけない幕切れに拍子抜けした俺は、へたり込みそうなほど、全身から力が抜けていく感じがした。
涼介のカミングアウトから落ち着きを取り戻しだしたとき、あることが気になった。
涼介はカミングアウトの中で、「からかうことになった」と言った。つまりこれは、俺が悩んでいるところに付け込み、陥れようと悪巧みしたということだ。俺はそれにまんまと嵌ってしまったのだ。そう考えると、何だか腹が立ってきた。ただ、主犯の目星はついている。
俺は怒りを悟られぬよう、努めて笑顔で訊いた。
「涼介、さっき『からかうことになって』って言ってたけど、誰が考えたんだ?」
「え? それは、杏奈ちゃんだけど?」
やっぱりこいつか……!
俺は涼介の隣に視線を移す。しかしそこにはもう誰もいなかった。
危険を察知したのか、杏奈は既に走り出していた。
「おい! こら、待て杏奈! てめぇー、よくもやってくれやがったな!」
俺も廊下を蹴って、勢いよく走り追いかける。
「きゃー! 変態! やめてー!」
「違うんだ、隼人。悪いのは杏奈ちゃんじゃない。僕の方なんだ!」
涼介も走って俺を追いかけてくる。
久しぶりだな、と俺は思った。
俺だって怒ってなどいない。
ただ、久々に感じるこの三人だからこそ生じる充足感を、もっと噛み締めたかっただけなのだ。




