3話 自分だけ
俺は小さい頃から、人の頭上にゲージが浮かんで見えている。
ゲージの長短は人それぞれで、ゲージが長い間は薄緑の色をしているが、半分以下になると色が橙色になり、残り僅かとなれば警告を示すかのように赤色に変わる。いささかゲームのHPのようだ。
最初はこのゲージが何なのか分からなかったし、みんな見えているものだと思っていた。
俺の断片的な記憶では、小学生になっていなかった頃だと思う。
その時分に、人の頭上に浮かぶゲージが気になり、母に尋ねたことがあった。
「ねーお母さん、お母さんの頭の上にある緑色のやつってなに?」
「ん? 頭に何か付いてる? お母さん気付かなかったな。隼人、取ってくれる?」
母は、俺が頭に触れられるよう床に膝をついた。
頭の位置が下がったことで、ゲージも同じように下がった。
俺はそれを取ろうと、ゲージに手を伸ばす。しかし、俺の手はあっさりとゲージをすり抜けた。
「あれ?」
「どうしたの?」
気のせいかもしれないと、次は大きく目を見開いてゲージをしっかりと見据え、照準を定めたところでえいっと手を伸ばす。それでもやはり掴めない。
その後何度やっても結果は同じで、俺の手はゲージをすり抜け、ただ虚空を掴むだけだった。
「隼人? 何やってるの? 頭に何か付いてるんじゃないの?」
「取れないんだよ、お母さん。これどうやったら取れるの?」
「取るもなにも、隼人はお母さんの頭に触っていないじゃない。取れるわけないでしょ?」
「違うよ! 頭に付いてるんじゃなくて、頭の上にあるんだよ!」
母は眉間に皺を寄せ、訝しむように俺を見る。
「ここだよ、ここ! あるでしょ! 緑色のやつ!」
理解してくれない母の顔を両手で挟んでグイっと上を向かせ、浮かんでいるゲージを指差した。
それでも母の反応は芳しいものではなかった。
「ないわよ。緑色ってなに? 虫でも飛んでる?」
「虫なんかじゃない! ゲームのHPみたいなやつ! 見えないの?」
「隼人、あんたゲームのやり過ぎじゃないの? 疲れて幻覚が見えてるのかしら、この子……」
確かに母の頭上に浮かんでいるのに、母に見えないはずがない。
何とかして母に見てもらう方法はないかと必死で考えていると、ある場所が目に留まった。
「ちょっとこっち来て!」
俺は戸惑う母の腕を掴み、洗面所へと向かった。
鏡越しなら母にも見えるかもしれないと考えたのだ。
母と二人で鏡の前に立った俺は衝撃を受けた。
「あれ、見えない……」
鏡に映った母の頭上にも自分の頭上にも、ゲージが映っていなかった。
俺は慌てて母の方を向いて頭上を見上げる。
果たしてそこには、いつもと同じようにゲージが浮かんでいた。
その後すぐに自分の頭上を見上げる。
しかしそこにゲージは浮かんでいなかった。
「こんなところに連れてきてどうしたの?」
先程まで怪訝だった母の表情は、息子を心配してか不安の色に変化していた。
「お母さん、鏡を見て。お母さんの頭の上と、俺の頭の上に何か見える?」
「いいえ、何も見えないわ」
「じゃあ次、こっちを向いて」
俺は母の両手を掴んで鏡から目を離させ、母と向かい合う。
「俺の頭の上に何か見える?」
「いいえ。それより隼人、きっとゲームのし過ぎで疲れているのよ。お昼寝でもしようね」
俺は必死で説明したが、結局母には理解してもらえなかった。というより、見えていなかった。
ゲームをし過ぎてなどいないし疲れてもいなかったが、母に連れられ布団に入った。
母も隣で一緒に横になり、俺のお腹をトントンとゆっくり優しくたたく。
始めは理解してもらえなかったことの苛立ちで目が冴えていたが、規則正しい振動が心地よく、俺はいつの間にか眠りについていた。
昼寝から目覚めると、学校から帰ってきた四つ年上の姉、初音がiPadでYouTubeを見ていた。
母とのやり取りで俺は、ゲージは母に見えないこと、自分のゲージは自分には見えないこと、鏡越しではゲージが見えなくなることを知った。
けれど母だけでは不十分だと考えた俺は、姉にも同じ質問をしてみた。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
「お、隼人起きたの。いいけど、なに?」
「俺の頭の上に何か見える?」
「何かって何?」
「緑色のHpゲージみたいなやつ」
姉は突然吹き出し、声を上げて笑いだした。iPadを放って腹を抱え、床をゴロゴロと転がる。
転げ回りひとしきり笑った姉は床に寝そべったままの姿勢で、涙を拭いながら半笑いの顔を僕に向ける。
「あんた、寝ぼけてるんじゃないの?」
その日の夜、仕事から帰ってきた父にもこっそり聞いてみたが、父にも見えていないようだった。
どうやら家族の中でゲージが見えるのは自分だけらしい。
ゲージが何を意味しているのかは結局分からず釈然としなかったが、親が分からないのなら仕方ないし、そのうち分かるかもしれない。そう思ううちに、いつしか気にならなくなっていた。