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【短編】現代ドラマ短編シリーズ

猫嫌いのハッピーエンド

作者: 烏川 ハル

   

「あら、こんにちは」

 前から歩いてきた女性が、彼に挨拶する。

 506号室に住む賢木(さかき)晴彦(はるひこ)が、マンションの入り口でばったり出会ったのは、同じ五階に住む広峰(ひろみね)依子(よりこ)だった。


 おそらく晴彦と同年代だろう。すっきりした目鼻立ちや艶やかな長い黒髪が魅力的で、スレンダーな体つきの女性だ。

 彼女の部屋は509号室なので、晴彦の三つ隣。五階の廊下でも何度か顔を合わせる機会があった。

 いつも挨拶だけで、それ以上の言葉を交わすことはなかったが……。晴彦にしてみれば、もう少し色々と話せる仲になって、個人的にも親しくなりたい。可能ならば口説きたい、という気持ちさえあるほどだ。


「ええ、こんにちは」

 もう夕方であり、会社帰りの晴彦としては既に一日が終わった感覚だった。むしろ「こんばんは」の方が相応しい気もしたけれど、相手に合わせて「こんにちは」と返しておく。

 目の前の彼女は、ペット用のリードを手にしていた。ここはペット可のマンションなので、犬の散歩をさせる住人も結構いるし、その意味では不思議ではない。

 ただし、今まで彼女が犬を散歩させるのは見たことなかった。新しく飼い始めたのだろうか。

 そんなことを思いながら、彼女が握るリードの先に目をやって……。

 晴彦は「おや?」と思ってしまう。遠目に見た時は犬だと思ったのに、こうして改めて近くで見たら、犬ではなく猫だったのだ。

――――――――――――


「猫なんですね。犬じゃなくて」

 正直に口にしてみる。これはちょっとした会話のきっかけになり得るだろう、という少々の打算と共に。

「はい、そうなんです! 三日前にお迎えした子で、名前はルナです。どうぞよろしく!」

 満面の笑みを浮かべながら、彼女は軽く頭を下げていた。

 猫も自分のためのお辞儀だと理解したのか、彼女に合わせるように「にゃあ」と鳴いている。

 全体的には黒色で、手足や腹、顔の一部などが白い猫だ。晴彦の知識では、確か「ルナ」は月の女神の名前のはずだが、三日月っぽい模様は特に見当たらなかった。


「やっぱり、猫の散歩は珍しいのかな?」

 (なか)ば独り言みたいにして、彼女がそう言ったのは、晴彦の「犬じゃなくて」という言葉に反応したのだろう。

「犬と違って猫は散歩させる必要ない、っていう人もいるけど……。猫も犬みたいに、散歩が適度な運動になるとか、ずっと家の中だとストレスがたまるとか。最近では、そんな話もあるそうで……」

 特に晴彦の方から問いただしたわけでもないのに、彼女はペラペラと説明を始める。

 文字面(もじづら)だけ聞けば「説明」に過ぎないが、彼女の表情や口調、声なども含めれば、彼女の猫愛の深さがよく伝わってくる話ぶりだった。


 晴彦は適当に「うん、うん」と相槌を打ちながら、彼女の言葉が途切れたタイミングで、自分の方からも軽くコメントしてみる。

「立派な心がけの飼い主さんですね。良いところに迎えられて、ルナちゃん、本当に幸せそうだ。ほら、こんなに可愛らしくて……」

 依子にとっては、彼女自身を「立派な心がけの飼い主さん」と褒められるよりも、愛猫を「こんなに可愛らしくて」と言われる方が嬉しかったらしい。

 そちらの言葉に食いついてきた。

「ねえ、可愛いでしょう? もしかして賢木さんも、猫大好きですか?」

「ええ、もちろん。私も……」

 にっこりと笑いながら、晴彦はそう返したのだが……。


 実は晴彦は、猫が大の苦手だった。

 犬はそれほど嫌でもないのだが、まず猫は見た目からして駄目だ。可愛いと思うどころか、鋭い目つきに怖さを感じるほどだった。

 自分では覚えていないけれど、小さい頃、猫に酷く引っ掻かれたことがあるらしい。物心つく前の体験であり「自分では覚えていない」以上、トラウマとは呼べないかもしれないが、それに近い感覚なのだろう。猫に対する恐怖心が、本能的に刷り込まれてしまったのだ。

 しかし今、それらの想いを晴彦は、一切顔に出さなかった。

 それどころか逆に、依子と話を続けるために、そして出来れば彼女の関心を引くために、彼が口にしたのは……。


――――――――――――


「……ちょうど『猫を飼ってみたいなあ』と思っていたところです」

「まあ!」

 晴彦の嘘を、すっかり信じてしまったのだろう。

 依子は大きく目を見開きながら、嬉しそうにポンと手を叩く。握っていたリードが少し引っ張られる格好になり、猫がビクッとするほどだった。


「どんな猫ですか? 種類は? ルナみたいな雑種? それとも……」

「いやいや、まだ具体的には考えてなくて。これから検討していく段階で……」

 前のめりな姿勢をみせる彼女に対して、晴彦は若干体を引きながら、心は逆に、彼女以上に前のめりになっていた。

「……だから猫を飼う先輩として、色々教えていただけたら幸いです」

「いえ、私も飼い始めたばかりですから、そんな『先輩』と呼ばれるほどでは……」

 一瞬だけ謙遜しながらも、依子は相変わらず前向きな態度をみせる。

「……でも、そうですね。初心者だからこそ、同じ立場だからこそわかる問題もあるでしょうし。一緒に勉強していけたら、私も嬉しいです!」

「そう言ってもらえるのでしたら……。ペットショップへ猫を見に行く際、同行をお願いできますか? パッと見た印象だけで決めたら後々困ることも出てきそうで、だから一人で猫を選ぶのは難しそうで……」


 二人で一緒にペットショップへ行く。

 いわばデートの誘いみたいなものであり、晴彦にしてみれば、本当に大胆な提案だった。

 しかし依子は、それほど重く受け取らなかったらしい。いや、むしろ別の部分を「重く」感じていたようだ。

「えっ、いいんですか? 私が一緒で? だって……」

 ここまでの立ち話の中で初めて、少し気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。

「……お迎えする猫を選ぶのでしょう? それって、大事な家族の選定じゃないですか。そんな重要な場面に、他人の私が関わるなんて、本当にいいのかな?」

「もちろんですよ! 同じマンションに住む、同じ愛猫家同士じゃないですか。余計なことは気にせず、是非お願いします!」


――――――――――――


 彼女自身が口にした通り、愛猫家である依子にとって、猫は単なるペットというよりも「大事な家族」。それこそ猫選びから依子を巻き込むことが出来れば、彼女もその猫を気に入って、うちにも遊びに来てくれるかもしれない。

 そんな魂胆を(いだ)く晴彦に対して、依子は無邪気に応じていた。

「それじゃ早速、日付とか決めちゃいましょうか。今週末も来週末も、土日ならば私は予定が()いているので……」


 こうして「彼女と二人でペットショップへ行く」という予定が、無事に決まった晴彦。

 これは彼女と仲良くなるための第一歩であり、将来的には彼女と迎えるハッピーエンドに繋がるかもしれない。

 そんな薔薇色の未来を夢想するのだが……。


 この時点の彼には、知る(よし)もなかった。

 実際には、たとえ猫を介して依子と親しくなったところで、二人が恋人関係になる可能性など一切なく。

 ただその過程で晴彦の猫嫌いが克服され、むしろ逆に大の猫好きになるため、いわば愛猫家としてのハッピーエンドを迎える、ということを。




(「猫嫌いのハッピーエンド」完)

   

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