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【休載中】Savage Fairytales(外伝)  作者: 高山 理図
第1章 真夜中の御伽噺
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第8話 仄暗い森の、霧の中で

 ルカは手早く修道院を出るための準備を整えると、閂を外して固く閉ざされた修道院の門を開き、シュウを連れだし外に出た。夜霧が重く垂れさがり半月を赤く朧にしている。ルカは門番の目を盗んで重い門扉を外側から閉ざしながら、これが修道院を見る最後の夜になるかもしれないと思った。シュウは緊張しているように見えた。とにかく今のルカにできることは、ターニャの安全を確認することだ。なるべく冷静で慎重に、だが可及的速やかに彼女の保護に向かわなければならない。


 祈りの家を飛び出した修道士は、群れから外れた迷い羊と同じだ。

 修道士や修道女は修道院で起居する事によってある意味安全を保障されている。修道院には強力な結界が張られて外部からの霊の侵入を受け付けないし、不寝番がいて敵襲には万全の体制で備えている。ルカも毎晩、修道院の鉄壁の守りの中で安心して眠りに就くことができた。だがこれからルカは、一睡も安らかに眠ることはできなくなる。


 シュウは温厚な自然霊だが、ルカは彼を全面的には信頼できない。強制的に服従させられ捕縛されている限り、彼は隙あらば逃れようとするだろう。それは自由を愛する自然霊達からすれば当然の事だ。彼を逃がさないよう拘束しつつ、あらゆる自然霊を敵に回させ駆り続けるという事は彼に不断の苦痛を強いる。それでも、そう仕向けなければならない。


「シュウ、教えてくれ。この辺りに、強い自然霊の気配はないか?」

『ないよ。少なくとも今は。強い霊の気配は感じられない』

「だが霊は大勢いる、と?」

 熟練の修道士といえど、霊の気配と座標を正確に把握するのは難しい。人間の霊感と、霊の持つ直観は感度が違う。シュウは考え込むように、検証するように深く頷いた。修道院に張り巡らせてあった結界の外に出たシュウには、自然霊としての本来の感覚が取り戻されている筈だ。ルカはそれを信じてやるしかない。

『うん。しかも、たくさんね』

「やはり、そうか。院長の仰る通りだ。急ごう、こうしている間にも彼女は危険に晒されている」


 ターニャを捜して、世界中の自然霊が続々と集まりつつあると示唆した院長の話は、どうやら正しかったようだ。そうやって集まった無数の自然霊がこの周囲の住民をローラー式に片っ端から喰らっていけば、いつかターニャは見つかってしまう。ターニャたったひとりを見つける為に、どれだけの人間が犠牲になるというのだろう。


 街が滅ぶのも時間の問題だ、そしてブルータル・デクテイターの恐怖に怯え追い詰められた状況下での自然霊なら、稀人を探し出す為に住民全員の惨殺も躊躇しない。更にターニャを襲うその一体が、万が一にもブルータル・デクテイター(残虐なる暴君)だったなら……。予断を許さない状況が続いている、現状は楽観的ではない。


『……あの人が、稀人だったなんて。僕が、あの人をそうしたんだ……』

 呻くようにそう言ったシュウの言葉は、まるで的外れという訳でもなかった。ターニャが例え稀人としての素質を持っていたとしても、シュウがターニャと出会っていなければ、彼女は普通の女性として平凡な一生を送ることができたかもしれない。彼女の血液を受け、彼女を稀人として知らしめたのはまぎれもなくシュウの責任だ。彼自身が、その責任を痛感している。心を持つ自然霊……ルカは彼の確かな動揺を感じ取った。いくら稀人の血を受けて強くなったとはいえ、この精神状態で、悪霊を駆逐できるものだろうか。


「冷静になるんだ。お前は今、まだこの周囲に“強い自然霊はいない”と言っただろう。大丈夫、まだ彼女は無事でいるという証拠だ。彼女を追おう、話はそれからだ」

 シュウの勘も、どこまで当てになるかは分らない。現に彼は、彼自身の力が飛躍的に高まったという事に少しも気づいていない様子なのだから。強大な力を持ちながら自然霊としての本能が弱いという事は、長所であり短所だ。シュウがターニャを”糧”と見做さないという点については有難いが、ルカがシュウを駆って戦い続けるという時に、危険や敵襲に鈍感な霊では致命的だ。


 彼はシュウに気取られないようひとつ溜息をつき、そっと彼の背に手を添えた。心細く不安なのは、一人だけではない筈だ。シュウは今もルカの法力によって見えない力で拘束されている。それは心地よい事ではないだろう。この哀れな少年を、自由にしてやることは出来ない。だからルカは、彼に何とはなく負い目のようなものを感じている。


「ターニャの気配を、感じることができるか? 彼女はどこにいる?」

『分らないよ、霊ならともかくあの人は人間だもの』

「そうだったな。無理を言って悪かった」

 ルカは焦るあまり、シュウに無茶を言ってしまった彼自身を恥じた。霊は霊の気配を察知する事はできるが、人の気配を識別できはしない。そんなことは修道士の常識として彼自身もよく心得ていた筈だ。ルカは彼に出来ることとできない事を知らなければならなかった。シュウはどこか憔悴しきったルカに悪びれるように肩をすくめ、彼の知りうる事を付け加えた。


『でも……あの人の家なら覚えてる』

「いいぞ、でかした。では先ずそこに行こう。連れて行ってくれ」


 ルカが小さな手を取ると、修道院の石畳を蹴って曇天の空に舞い上がった。霊は人を巻き込んで揚力を生み出す。ルカの身体はシュウの手を通じて重力を免れ大気と同化し、風を全身に受けながら雪霊の彼の巻き起こす雪嵐となる。眼下には、古い映画のようにセピア色の殺風景な荒原が飛んで行った。過ぎ去る荒原を見てルカはある大事な事に気づいた。


 去年のこの時期、この辺りは一面の銀世界だったというのに、見るところによると残雪がわずかに残るばかりで一面の枯草が見渡す限り広がっている。シュウが、降雪という雪霊としての最も大切な仕事を放棄しているのだ。雪が降るべき地域に雪がなくなれば、世界的に気象と気候のバランスが崩れてしまう。彼は一種一体しかいない貴重な自然霊だ。その彼を駆る事の責任の大きさに、ルカはようやく気付かされた。彼は欝病だと診断されているのだから、無気力になって何もかも投げ出してしまえば世界気象に影響する。彼が傷ついて雪霊としての役割を果たせなくなっても同じだ。

「シュウ。お前、この1週間、全く雪を降らせなかったのか?」

『うん』

 吹きすさぶ風に紛れて千切れてしまいそうな、小さな声だった。ルカはなるべく彼を追い詰めるような非難口調にならないよう気をつけながら、落ち着いた声で問いただした。まるで父親が悪さをした子供の言い分をじっくりと聞いてやるように、そう、そんな具合に。


「何故? 雪霊はお前一体しかいないんだ、気象がおかしくなってしまうだろう。何か理由があるなら教えてくれ」

『……だって……』

「だって、どうした?」

 何か言い分があるのなら教えてほしい。彼がへそを曲げてしまえば、今後永遠に世界中の降雪がなくなってしまうのだから。働きたくない気持ちはよく分った、何しろ彼にとってこの一週間は散々な日々だった。


『ルカは僕をずっと結界の中に閉じ込めて、一度も外に出してくれなかったじゃないか。力を奪われて、出来るわけないよ』

「……!」

 シュウは自己主張をしない霊だ、ルカが気付かければ、こういうことは何度でも起こってくるだろう。引っ込み思案な彼の主張をうまく聞き出し、意思疎通が取れるようにならなければ、不信感を募らせる。シュウとルカの関係は、修道士と使役霊の関係としてはあまり良好ではなかった。それはルカがシュウに歩み寄り、彼の思いを尊重しようとしているからだ。これまでのように感情を持たない自然霊を一方的に使役するやり方はシュウには通用しない。


 彼には複雑な感情があり、その思考回路は単純ではない。ルカは心苦しくなって、彼に謝罪した。もっと、彼の心に入ってゆかなければ……。それはルカがとっくに失ったと思っていた親子関係を、図らずとも再構築する遠き道のりにも似ていた。父親が子供の心を理解し、受け止めることは容易ではないものだが……。


「すまない、私が悪かった」



 ターニャはいっそ気を失ってしまって、これが夢だったならと何度も願いたかった。だが彼女の意識は冴えわたって、尚更背後にただならぬ不穏な気配を感じている。確かに、ターニャの後ろには何かがいる。そしてその気配の主は、足音すらさせない。後ろから追ってくる者には足がないのではないか、と、それほど想像力が豊かではないターニャもそう思った。それって……まさか、やっぱり、霊?

「おーい」


 ターニャの肩越しに聞こえたそれは、間延びのした男の声だった。ターニャは、彼女のあとをつけてきた気配が男だったのかと判断したが、それが人間であるとは確信が持てない、肩をこわばらせ、硬直してしまった。まだ、振り向く勇気はない。

「おい、あんただよ」

 声は畳みかけるように続き、狩りをするようにターニャを追い詰める。その距離はだんだんと迫ってきていた。


「あんた、そうやって歩いても一生こっから出られないぞ」

 ターニャが立ち止まると、声の主はわざわざターニャの前に回り込んできて彼女の顔を覗き込んだ。それは……霊ではなく人間の青年だった。彼は相変わらず足音をさせずに歩いているようだったが、少なくともターニャは彼を人間だと思った。


 足はあり、しっかりと接地している。彼はまるでロマか、そうでなければダンサーのようないでたちで、男だというのに赤茶けた髪を長くのばし、帽子を目深にかぶり、真冬だというのに薄い生地の服を着ている。いかにも放浪者だというように奇妙なネックレスを無造作に首にかけ、腕には白い紐を何重にも巻いていた。東欧の辺境とはいえ極寒のこの地には似つかわしくない薄着。彼は手ぶらで、荷物も持っておらず、手にも凶器のようなものは握られていない。ターニャの疑ったように殺人犯ではなかったのかと心の片隅で思う。少し身構えながら、まだ疑いは晴れない。ターニャは身を守るようにカメラ機材を彼女と男の間に置いた。


「そっちに行くと、おびき寄せられて殺されるぞ」

 ただターニャの足止めをするだけのためにそんなことを言ったのだとしたら、この上なく物騒な話だった。誰がおびき寄せて殺すというのか? この付近に殺人鬼が潜んでいるとでもいうのか。それとも、やはりこの男が……連続殺人犯なのか。ターニャは震える唇を隠しきれないまま、彼に問い返した。


「誰に……」

「あそこで手招きしてるだろ」

 彼はすっとターニャの進もうとしていた進行方向に指を向けた。何故、気付かなかったのだろう。木々の向こう、残雪の下からにょっきりと突き出した、巨大な灰色の手がターニャのほんの10mほど先で大きく揺れていた。それはまるで魚類のような灰色の外皮を持ち、生臭い臭気を漂わせ、ヘドロのような粘液に覆われている。


 手まねきをするかのように、泥で出来たような蠢く巨大な手が、ターニャを呼んでいる。彫像やオブジェのように見えなくもないが、近づけばどうなるものか、ターニャにも何となく想像がついた。握りつぶされて、殺される。霊だ。彼に指摘されるまで、まったく見えていなかった!


「あんた、さっきからあの手の呼ぶ方に歩いていってるぞ」


 ターニャは彼から逃れるために早足で歩いていたのではない、あの手に呼ばれてついていっていただけなのだ。ターニャは腰がくだけて、へなへなと行きずりの男によりすがって首を左右に振った。彼はどういうわけか最初からあの奇怪な巨手が見えていて、ターニャがそれに近づこうとしていたのを止めてくれただけだ。驚いたことに、男はそういう類のものを見慣れているのか、霊を見ても少しもおびえてはいない。霊感が強く、霊を見ることに抵抗のない特殊な人間だと思われた。


 彼にとっては日常茶飯事なのかもしれないが、ターニャにとっては一大事だ。この状況から逃れる方法を知っているのなら、ひとつでも教えてほしい。出来れば彼がエクソシストや霊能者である事を願いたい。彼はどちらかというと、巨手の恐ろしさよりもターニャがいきなり彼にしがみついてきたことにぎょっとしている様子だった。ターニャは取り乱しながら首を振った。

「見えなかった。見えてなかったの……いや、いやだよ……死にたくない」

「おいおい。もっと自覚しろよ、半ば自業自得だぞ。稀人なんだろ? 一人で山道うろついてたら、常識的に考えればそうなるよ」


 彼はまるで子供をあやすような口調で語りかけながら、しがみつくターニャを引き剥がした。二人が一つ所に固まっていては格好の標的となる事はターニャにも分かっていたが、何かに縋らずにはいられなかった。ターニャは男の口から何気なく飛び出した耳慣れない言葉を、反芻するように繰り返した。彼はターニャを”稀人”だと断定した。それはどういう意味だ? 稀人とは何だ? いつから、ターニャは稀人だったのだろう。稀人だと自然霊から襲われやすくなるのか、疑問が堰を切ったように溢れ出してくるが、彼女には何も分らない。まるでターニャが稀人だから悪いのだと言っているかのようだ。


「稀……人?」

「何だ、まるで自覚がなかったんだな」

 彼は呆れたというようにぽりぽりと頭を掻いて、腰から下げた革製のシザーケースから黒い呪符を取り出した。ターニャは、ルカの使う白い呪符(聖符)は見たことがあったが、漆黒の呪符を見たのは初めてだ。何だろう、これはものすごく不吉なものだ。そんな気がする。


 その証拠に、その黒い呪符は蜃気楼を纏ったように歪んで見える。彼の風体、黒い呪符……彼は呪術師なのかもしれない。男は呪符を何枚かずつ束ねてトランプのカードを切るように捌きながら、ターニャの足の先から顔までをじろりと舐めるように見まわした。ターニャは何を言われるのかと、思わず身をこわばらせる。どうもこの男は信用ならないが、頼れるのは彼しかいない。

「稀人にしては……五体満足だな。どこも喰われてないのか」

「食われるって、何?」


「やれやれ……この調子じゃ、喰われるまでに3日ともたないな。近くの修道院に行って、ちゃんと事情を説明して保護してもらえ。今日のところは……何とかしてやるから」

 彼はさも面倒くさそうにターニャを後ろに突き飛ばすと、黒い呪符を数枚携えて軽く地を蹴り、跳び上がった。巨手は彼の動きを察して指先を伸ばし、彼に掴みかかろうとする。彼は上空から先ほど握っていた呪符を14枚放り投げ、複雑な印を結んだ。呪符はまるで完成形が出来上がっていた造形をなぞるように規則正しく配座される。普段ならカメラを構えるのを忘れないターニャだが、余計な事は何一つできず、その代り彼の業をありのまま目に焼き付けた。


「年経た土霊か……運が悪かったな」

 彼は言い訳のようにそんな事をもごもごとつぶやいた。どこか不真面目なその様子とは裏腹に、彼が紡ぎだした次の言葉は非情なまでに理性的だった。英語で紡がれたスペルは、呪文のようには聞こえない。


”Sp2 hybridized orbital……”

(Sp2混成)


 彼がそう呟くと同時に、呪符から黒い光のラインが迸り、巨手を囲い込むように次々と呪符同士で互いに結合する。パチン、パチンと稲妻のように光が弾ける音がする。黒い光に触れた巨手の表皮が、レーザーメスで切ったように切り落とされてタールのようなどす黒い液体をぶちまける。ターニャはその液体が足元をうぞうぞと這い進んできたので慌てて跳び下がった。もはや彼と土霊の力の差は、歴然としていた。


”Formation C14-Black Diamond, perfect cleavage.”

(C14形、ブラックダイアモンド、完全劈開)


 巨手が逃げ道を失ってやぶれかぶれに彼に襲いかかろうとした時、彼はパチンと指先を鳴らした。すると黒い光のメスが手をズタズタに切り刻み、肉片が木々の間に散乱した。切り裂かれた巨大な肉片はやがて黒い霧となって蒸発し、ブスブスと燻る煙を払いのけながら、ターニャは無傷の男を凝視した。


 何が起こったというのだ……この人は今、何をしたのだろう。あまりにも一瞬の出来事で、何が起こったのかわからなかった。彼は聖職者やエクソシストのようなものではない、という事は一目瞭然だった。彼は呪文や聖句を唱えない、もっと科学的で非神秘主義的な駆逐の仕方だ。彼は、何の力に預かったのか。


 そして彼は、誰なのだろう――?

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