第7話 二度とは戻らぬ神の家
あの日。手負いのシュウはターニャの純粋な厚意によって血を与えられ、それを飲んで傷を癒した。シュウはターニャの肉体の一部、血液を与えられることによって彼女が稀人であるということを、世界中の自然霊に知らしめてしまったことになる。シュウは彼の恩人が稀人であったことを暴き、世界中の自然霊の脅威に晒してしまったのだ。彼は偶然にして、恩を仇で返してしまうこととなった。
「その心優しき人が誰なのか、貴方はもう知っていますね。幸いにして私はその人を知りません。私の持ち霊を含めあらゆる自然霊がその人を特定して襲うことのないよう、貴方はその人を守りなさい。霊力を爆発的に高める稀人の肉体が凶悪な自然霊の手に渡れば、私たちに明日はありません」
「承知いたしました。……ですが」
その命令の重大さに肩を震わせていたルカは、とても一人でその重圧に耐えられるとは思えない。この仕事には一人の人間の命が懸っている。そればかりではなく、稀人の肉体が悪しき思想を持った自然霊に捕食されてしまうようなことになれば、大惨劇は確実に起こる。そして過去において、いや現在においても実際にそれは起こっていた。
あらゆる宗教団体に、最強にして最悪の自然霊として認識されている存在がある。それはもともとさして強い霊ではなかったのだが、稀人を二人も捕食したことによって、並の霊の一万倍もの霊力を手に入れた。自然霊を駆る世界中のどの宗教団体も究極目標として、このたった一体の霊を滅ぼすことを掲げているが、現状としてはその霊を特定することすらできず、ただ返り討ちにされているだけだ。
ライザ修道会において残虐なる暴君(ブルータル・デクテイター:Brutal Dictator)と呼ばれる霊は、猶も稀人を探し続けて殺人を繰り返していると聞く。そればかりか、稀人の肉体を他の自然霊の手に渡らせないため、他の自然霊達をも弾圧している。霊に対しても弾圧をおこなうブルータル・デクテイターの存在を快く思わない自然霊の一派もいる。
そこで結果として、世界中で拡大し続ける自然霊の人々に対する殺戮は、稀人を探し出すという目的もあって年々エスカレートしているのだ。稀人を探し当てるべく、その霊が生存する為に必要な捕食の何倍もの捕食を行っているという状態だ。ブルータル・デクテイターは必ずターニャを狙ってこの街にやってくるだろう。六冥宗やライザ修道会の本部の厳重な警備の中にいる他の稀人よりはるかに彼女は無防備だ。
ルカは自らの法力にそれほど自信がないわけではない、並の霊ならば簡単に駆逐できる。だがブルータル・デクテイターが襲い掛かってくるとなると、どの霊を駆っても心もとない。
「どうしました」
「霊を駆らず私の法力のみで、その人を守り抜くことは難しいかと存じます」
自然霊が稀人を襲うというのなら、自然霊である持ち霊を駆って自然霊に立ち向かうことなど不可能だ。ターニャを守るべき持ち霊が嬉々としてターニャを喰らってしまう。ルカは彼の法力のみでターニャを守るしかないと思っていた。
「その雪霊を駆りなさい」
院長は安心しろというように、穏やかに微笑んだ。
「その雪霊がよいのです。雪霊は稀人の血を受けたのではないのですか。彼の能力は貴方や彼が気付かずとも飛躍的に高まっています。そして彼は、恩人が稀人だったということにすら気づいていません。彼は何らかの理由で、自然霊としての本能が退化しています。彼はこの広い世界で唯一といってもよい、稀人を糧として見做さない自然霊です。稀人を庇護する為に、彼ほどうってつけの霊は存在しません」
彼ならば、何の変哲もない一般人だったターニャを巻き込んで稀人にした責任を感じるのではないだろうか。シュウの良心に付け込んで、ターニャを守ることができるのではないか。本意ではないが、そうするしかない。しかしシュウとて自然霊であることには変わりがない、ある時本能に打ち勝つことができなくなって、ターニャに牙をむくことはないのか。ルカは一抹の不安を感じながらも、無理やり彼自身を納得させた。確かに、この状況で使えるのはシュウしかいない。
「貴方は雪霊を連れて修道院を出るのです。他の修道士、修道女達には貴方と雪霊をマテルラ (Matelula)分院に転属させたと言いましょう」
厳格な司教でもある彼女が、他者を故意に欺いてまで下す異例の命令だった。原則として修道院からの自然霊の持ち出しは認められていないのだが、彼女がはなむけにと与えてくれたのだ。
「しかし、何故稀人を修道院に匿わないのですか? 私ひとりの法力と、雪霊一体では心もとなく」
「修道の召命を自覚しない市民を、修道士や修道女として匿い隠者の生活をさせることは、その人の人生に大きな犠牲を強いることです。その人には夢や人生設計が、将来への希望がありましょう」
ターニャはフォトグラファーの道を志していた。どんな日でも、雨が降っても雪が降っても、いつもカメラと機材を手放さない。嬉しそうにアルバムを見せたどの風景にも、彼女の生きざまが切り取られていた。彼女はルカにはない希望というものを持っていたし、この大地に凛として咲き誇る花のように、明るく健やかな女性だ。ターニャはルカにないものをすべて持っているように見えた。
そして彼女はシスターにはなりたくないのだと、はっきり告げた。彼女に修道者の道は似合わない。彼女の生まれたといわれる地方にある教会の洗礼記録を見ても彼女の記録は見当たらず、彼女はキリスト教信者ではないことが明白だった。もとより、修道院には入れない。
「それを挫くことが主の道に適うことだとは思いません。貴方が初めてこの修道院を訪れた時も……」
「院長様」
ルカは彼の過去に触れようとした院長の言葉を低い声で遮った。いまだに乗り越えることのできない重い過去が、ルカにはある。彼女は口を慎しみ、十字をきって神に祈った。
「失礼、口が過ぎたようですね。ブラザー。しかし″あの日″が貴方に訪れなければ、今とは全く違った人生があった筈です」
忘れもしない、5年前の大雨の日の真夜中、襤褸きれのようになってルカは修道院の門をたたいた。院長が打ちひしがれたルカを温かく招き入れ、修道士としての教育を施した。失うもののなかったルカは彼自身の生命力を削り、それと引き換えに強くなった。
ルカにあの日が訪れなければ、彼女のいうよう今でも平凡な家庭のサラリーマンとして小さな会社の営業に勤しみ、家に帰ってはよき夫として、あるいはよき父親として幸せな日々を過ごしていたことだろう。生きていれば、ルカの娘と息子はもう13歳になっている。今もルカの両手の薬指に填められたままの結婚指輪は、ルカのものと彼の妻のものだ。修道者が指輪をつけたまま修道生活を送ることは禁忌だが、院長はあえてそれを見ない振りをして、咎めたことはない。
彼が真の名を捨て修道者ルカ=ヴィエラとなった日から、彼の時間は止まっていた。何をしても実感を持たず、抜け殻のような体を引きずって彼は生きていた。
「ええ、仰せの通りです」
「ルカ。主は時として人生をやり直す機会をお与えになることがあります。5年前に守ることの出来なかった命を守り遂げるだけの力を、貴方は手にしました。直ちにその稀人を追って行きなさい。こうしている間にも危険が迫っているかもしれません」
これが生きて院長と会う、最後となるかもしれないとルカは思ったし、院長も同じようにそう考えていた。ルカひとりで世界中の自然霊と戦い続けることは、何年もは続かない。彼はターニャもろとも必ず自然霊に殺される、いつか必ず……。院長がそれでもルカを送るのは、修道者として神に従順である為にだ。市民を命に代えても守り遂げることが、ライザ修道会の修道者としての務めだった。ルカは生きてこの修道院に戻ってくることはない。
「院長様。少しの間でしたが、お世話になりました」
「もしどうしても雪霊と共にその人を守り続ける事に困難が生じたら、私に手紙をよこしなさい。雪霊を扱うための代わりの修道者を遣わせましょう」
メノラーの炎が、院長の気圧を受けて風もないのに揺れている。地下礼拝堂に響く修道女達の祈りの讃美歌が、ルカの耳には届いていた。それはまるで、ルカへの鎮魂歌のように聞こえなくもなかった。
ルカは礼拝堂を出ると、すぐに踵を返して彼に割り当てられた自室に戻った。窓もない石造りのルカの自室に、自然霊の力が強まる夜の間だけシュウを監禁している。自室の扉に張り付けておいた二枚の聖符(Sacred Card)を剥がし、鍵をあけて室内に入った。
シュウは鬱状態で元気がないが素直な霊だ。ルカにはちょうどシュウほどの背丈の娘と息子がいた、殺されたルカの子供達とシュウをだぶらせてしまうのだ。それでルカは殊更シュウを大切に扱っている。彼の子供に与えることのできなかった愛情を、代わりに与えるかのごとく。中には結界で閉じ込められていたシュウが暇を持て余して、ルカの書棚から本を取って読んでいた。この霊はどうやら、人の言葉を操るばかりか書物も読めるようだ。誰かが教育したのだとしか思えない。しかし、誰が?
シュウは喉が渇いたというので、持ってきた水差しから水をコップに入れて与えた。コップを両手で持って、喉を鳴らすさまは同じ年ごろの人間の子供のように見えなくもない。彼は確かに他の自然霊とは違う人間性がある。荒みきったルカの心が、子供のようなシュウと共に居る時だけ安らぐ。
「退屈だったか? 気分はどうだ」
『調子はあまり、よくないよ。外に出ていないから、気分も滅入るし』
自然環境から隔絶されれば、自然霊はおのずと弱体化する。シュウの纏う青い霊気も、日に日に弱まってきているような気がする。
「それはすまないな。ひとつ、訊いてもいいか」
『何?』
「お前はターニャから血液をもらったな」
『うん。貰った』
彼はそう言ったきり、コップを棚の上に置いてまた書物に視線を戻した。このそっけない受け答え。やはり彼はターニャが稀人だと気付いていない。だとしたら自然霊としての直感が鈍すぎる、院長の言うとおりだ。それに彼がターニャから奪ったものは血液だけだ、もし稀人だと気づいていれば間違いなくシュウはターニャを喰らっていなければならないのだが……。
「シュウ、手短に言うが大事な話だ。お前は稀人という存在を知っているか?」
『うん。それがどうかしたの?』
「稀人に興味はないのか?」
『ないよ。どうしてそんなことをきくの?』
ターニャが稀人であると伝えた方がいいのか、そうしない方がいいのか、ルカは悩んだ。ターニャが稀人だと知れば、彼の本能が呼び覚まされるだろうか? だが、彼は稀人に興味がないと言った。嘘ではない、本当に興味がないのだ。ルカは深呼吸をして、シュウにありのままを告げた。彼の反応を注意深く見守りながら。
「ターニャは稀人だ。気付かなかったのか?」
『そんな……分からなかった』
シュウは驚いて……それだけだった。そして困惑したような顔をした。ぎらぎらと目つきが変わったり、舌舐めずりをしたり……そんな変化はない。むしろ彼は、彼女を心配しているようだった。
「シュウ、正直に答えてくれ。たのむ」
『……本当だよ』
ターニャが稀人だと知っているか知らないか、これは重要な事だった。もし知っているというのなら、シュウには本能が残っているという事だ。いつか本能が目覚め、ターニャを襲ってしまいかねない。嘘をつかれてはそれまでだが、彼は嘘をつくほど気は回らないようだ。
「お前も他の霊と同じように、稀人を喰らいたいと思うか?」
『思わない』
「何故そう思わないんだ? 本能が疼かないのか」
『食べ物として見做せないんだ。あの人は恩人だから。それより大変だ、僕は大変なことをしてしまった! ターニャが心配だよ』
ルカはまるで人間と話しているような錯覚を覚えた。理性的な自然霊……彼の気持ちはよく分った、ターニャを大切に思っているのだということも。もう彼の腹を探るのは十分だとルカは思った。彼を連れていく、いや、彼しかいない。万が一ターニャを襲うような事になれば、その時は責任を持って彼を調伏する。
「修道院を出るぞ、シュウ」
『え!』
ルカは手早くバッグの中に必要最低限のものを詰め込み、短い杓杖を握り締めた。シュウはこれを手にしたルカが嫌いだった。何故ならそれは霊を打ちすえ、従わせる為の杖だったからだ。だが他の修道士はともかく、ルカだけは一度もこれをシュウに振りかざした事はない。彼がシュウに何かをさせたい時には必ず話をしてシュウの理解を得たし、相談なしに何かを決めた事もなかった。
「私と一緒に来てくれ」
『僕も一緒に出ていいの?』
「院長の仰るように、稀人を守れるのはどうやらお前しかいないようだ。ターニャを稀人として世界中に知らしめた、お前にしか出来ない事なのかもしれない」
『!……?……』
シュウはルカが修道院の外に出ること、つまり俗世に戻ることが出来ないということを知っている。その彼が、修道院を出ようと言っているのだ。そして彼の口調から察するに、修道院から一時的に出るという雰囲気ではなかった。もうここへは戻ってくるつもりがない。シュウはルカの言った、稀人を守るという真意をこのときはまだ理解できてはいなかった。