第3話 写真家と少年霊が雪原にて
「これで元気になるといいねえ。ところで幽霊が元気になるってどういうこと?」
顔色がいっそう青ざめたりとか? ぴゅんぴゅん飛び回ったりとか?
『すぐによくなって今日中に出て行ける。御礼をさせて』
彼は疲れたのか、目を閉ざしていた。神経を使って飲んだのだろう。獲物であるはずの人間に遠慮をして痛みのないようにと気遣う霊は、おそらく世界中を捜しても彼ひとりだと、ターニャは思う。
「気にしなくていいのに、子供の気遣いはかわいくないものよ」
『あなたは痛い思いをしたんだ。何かして欲しい事を教えて、そうしたら僕も気が楽になる』
痛みなど微塵もなかったのだが彼があまり強くそう言うので考えた。一方彼は彼女の願いが無理なものではないかと身構えて、注意深く耳を傾ける。
「じゃー無茶言って、ダイヤモンド・ダストを作ってくれるかな。写真が撮りたいんだ」
シュウは気抜けした顔をして、窓の方に顔を向けた。分厚いカーテンで覆われて光が差し込まないのにもかかわらず、彼には外が見えているようだった。
『そんなのでいいの?』
「え、できるんだ! 十分だよ!」
彼は腹部を数度押さえ傷の具合を確認すると、立ち上がって暗幕を開け放った。射るような日光が彼と彼女に照射される。ターニャの血液によって、彼は驚異的な回復力を見せはじめた。平気で日光を浴びるほどに。シュウはおもむろに包帯を解き始めた。
「え、ちょっと、何をしてるの」
『あなたの願いをかなえたらすぐに出て行く、カメラを用意して』
ここで包帯を外すのは決して得策ではない。誰が見てもそうだ。彼女はこんな話を聞いたことがある。どんなに弱っている野生動物も自分の死の寸前まで、堂々と振舞うものなのだ。外敵に一瞬の弱みを見せる事は死を意味している。彼の傷は完治などしてはいない。
さも無傷であったかのように振舞おうとしているだけ。たった今も、激痛をこらえて立っているはずだ。暗幕を開け放ったのも、彼女に弱みを見せないようにと強がってのことだろう。ターニャは未だに警戒されていると知り、寂しくなった。
「無理しないで。ここにいていいから。何日かじっくり休んで、さっき君にお願いしたことは全快してからでいいから。こんな時に自然に帰るのは危険だよ! つかどう考えても無理だよ!」
シュウはなおも包帯を引き裂くように解きながら、傷口を隠して見せなかった。
『僕の住処は雪原だった。ここに長くいちゃいけない』
「どうしてそんなこと言うの!」
ターニャは息を呑み、回復し始めた彼の纏う冷気にあてられて上着を一枚着込んだ。彼の身は徐々に蒼白さと冷気を帯びてきて、まさにこの世のものではなかった。窓を開け放ち、窓枠に腰掛けた。外の太陽は雪に反射して白くぎらぎらと輝き、空は蒼穹の相である。彼は陽光によってしだいに明度が上がり、白を通り越して透明になり始めた。
彼女は彼が掻き消えてしまわないかと目を細めて注意しながら、光になれた目でカメラとフイルムを探していつものバッグに詰め込んだ。光を遮るように掲げた彼の指先はすっかり透明になって目を凝らしても見えなくなった。
『いくよ。怖かったら言って』
シュウは彼女が準備に手間取っているのをじれったく思ったらしく、一式を鞄に詰め込んだのを確認すると強引に彼女の手を掴み、その後は一瞬だった。ターニャが気付くと眼下に純銀の雪原を認め、彼に手を取られ宙吊りになっている。
「こわいー!」
『大丈夫、落とさないよ』
勇気を出して右手を見ると彼に手首を握られて、雪原の空の上を舞っているのだ。彼はあちこちに目を配り、着雪するためのポイントを選んでいる。幾つかのポイントを見繕って、シュウはよく開けて見通しのよい場所に彼女をふわりと降ろした。そこはターニャも何度か通った事のある場所だ。
「あ、ここなら知ってる」
よかった。街からそれほど遠い場所ではないから、最悪の場合置き去りにされても大丈夫だ。後ろを振り返ると彼には体重がないため、歩くと彼女の足跡だけが転々とついて不気味だった。解けかけた靴紐を結びなおす。
「あれ、きみ足跡つかないんだ」
『だって霊だもの』
「ごめんそうだった」
彼は雪上を音もなく歩くが、裸足なので見ていると寒そうだ。既に日は傾きはじめていたので、ターニャは三脚を用意してカメラをセッティングし、日没直前の、黄昏を過ぎたほの暗い桃色の空を待つ。彼女が用意をしている間、シュウは雪上に座して、腹部を押さえたり深呼吸をしたりして体調を整えているようだ。
暇を持て余しているようだったので、ターニャはいつもの手帳に挟んである野生動物の写真を数枚ほど見せた。お気に入りのホッキョクグマの写真や、日本の雪山での温泉ザルの写真、珍しい銀狼の写真もある。どれも出来のよいもので彼の反応が楽しみだったが、彼にとってはどれも珍しい光景ではないらしく、鼻をすすって、いつも見ていると言った。
『どうして、写真をはじめたの』
彼女は何気ない質問に、大切に保存している一枚の写真を見せた。いたたまれない顔をして返したのは、キツネの死骸の写真だ。
「これはねー、15歳の時、冬山に登山に行って偶然撮った写真なの」
『でも、死骸なんて』
写真を手帳に戻し、彼女は溜息をついた。
「こころない人が、灯油をかけて燃やしたんだよね。辺りには灯油の匂いがして、このキツネが倒れていた場所からすぐ近くに、キャンプをして火遊びをしたのか、ゴミが散乱している場所があったんだ……。このキツネの腹部には、花火を詰め込まれたような痕跡があって。私はこれを見て、写真家になろうと決めたんだ」
彼女が写真を通して伝えたかったのは、自然のありのままの美しさだ。それらを人々が土足で入り込んで、決して踏みにじってはならないこと。母なる大地と大いなる自然に敬意を払うこと。
『真実を伝えたかったんだね。カッコいいよ』
彼は遠くを見つめて、感心したように微笑んだ。ターニャは、そんなカッコいいもんじゃないよと照れている。
「これがあまり、売れないんだわ」
『最高の写真を撮らせてあげるよ』
シュウは黄昏の空に向かい、黄金に輝く雪原にすっくと立ち上がって、両手を天と地に向けて静止させ、雄叫びのように叫んだ。彼の体から立ち上る透明な空気が炎のように滲み、滲んだかと思うと青い閃光を天に迸らせ、それに呼応するかのように残照の空が不穏に動き始めたのを確認して、シュウは彼女を振り返りこう言った。
『防寒をしてね。―50 度まで下げるから』
「え、寒すぎ! 死ぬ! 死ぬって!」
そう一方的に告げると、一層蒼白になった右手の指を二本構え、中空に印のような物を数度に渡って切り送った。彼は自分が誰であるか分からないといった割には氷雪を呼ぶ方法は知っているようだ。彼が印を切るたびギンギンに張りつめた空気の切れる音がして、カマイタチのような真空の刃が出来、彼が一つの動作を繰り出すたび確実に気温は10度単位で下がっていった。彼女のキーホルダーの温度計が振り切れた時、彼の周囲にコバルトブルーの断層のような物がくっきりと見えた。
ターニャの周囲だけは何故か、それほど寒くはならなかった。
それは一点に収縮してゆくと、臨界に達したらしく、消えてしまった。それとは対照的に空には桃色に染められた薄暗い雲が覆い被さる。彼が落ち着いて両手を重ね合わせたその時である、氷点下の大気に冷やされた微粒子が氷霧となって、天空より降り注いできた。そして残照の陽光にキラキラと反射して瞬いている。そこにはターニャが夢に見たダイヤモンド・ダストが出来上がっていた。ターニャの身体は震えたが、それが寒さによるものなのか、この光景への畏敬の念なのか分からなかった。
「わー……言葉にならない」
小さいが清艶な体躯に憂愁の白衣を纏いつけて、シュウは片手でダイヤモンド・ダストを確かめるように差し出して静かに見上げている。見とれていた彼女は、正気になってカメラを構え、手当たり次第にシャッターを切った。
ひょっとしたら映っていないのかもしれないという気は、まったくしなかった。どこをどう狙っても彼女の思い通り、いやそれ以上の写真が撮れる。そして彼を写真におさめた。シャッターを押すだけで満足だったのかもしれない。
「そうだ、シュウくん。そこでモデルになってよ」
やがて月が朧に雪原を照らして、彼女の影をはっきりと映したが彼の影はみつからない。シュウは申し訳なさそうに、
『たぶんだけど、僕は写真には写らないよ』
と首を竦めた。それでもターニャは何度か彼をモデルに銀河を背景に十枚ほど撮り尽くして、ようやくフィルムが尽きたのでカメラを収めた。
「ありがとう。いい写真が撮れたよ」
彼女は疲れて雪上に腰を下ろし、息が白く凍るのを楽しみながら彼に心からの礼を言った。彼はどういたしまして、と雪上に仰向けに寝転がり、寒がる彼女の為に少し気温を上げた。彼は夜空を見上げて何かを考えているようだった。彼の横顔に再び悲哀の影が落ちたので、関心を彼女に向けさせようとした。
「あ、見てスバルだよ」
彼女が短く叫んで牡牛座と思われる星を指差すと、
『それじゃないよ。スバルあっちだよ』
と苦笑されてしまった。自信があっただけに体裁が悪かったが、シュウは間違いをすぐに指摘できるほど毎日星空を見上げてきたのだろう。極寒の夜、広大な雪原の中に、たったひとりで? 常に何者かに襲撃される恐怖のなかで? ターニャは彼を引き止めたくなった。
この子に温かな暮らしをさせてやりたい。安心して眠らせてやりたい。この子の笑顔が見たい。彼はよい霊だ、孤独な怪物などではない。そんな彼女の思いも全て見透かされているかのように、彼は告げた。
『そろそろ戻らなきゃ。お互いの住む世界に。あまり長く雪空の下にいると、凍えて死んでしまう。ここはあなたの居る世界ではない』
寂しそうに呟く。
『あなたの居場所に戻ろう』
シュウは名残惜しそうに立ち上がって、彼女に別れの時を告げた。待ってくれと言おうとしたが、彼は許してくれそうにない。彼は厳しくそう言って家に送り届けるため、彼女の手を掴もうとした。
「ねえ、うちに来ればいいじゃない。一人暮らしだしルームメイトがほしかったの。一緒に住もう!」
『人の世界に、霊が住んではいけないよ。特に、僕のような霊はね』
「君は普通の幽霊じゃないの? 何が違うの?」
『普通の幽霊なら、ターニャの家の近くにたくさん住み着いてたよ』
ターニャの背筋がぞぞぞ、と凍りついた。
「げ、なんでそんないらん情報教えてくれるの! それに普通の幽霊さんが住んでるなら、君だっていいじゃない」
『僕は駄目だ』
何かを振り払うように首を振るまで、暫く時間が空いた。ターニャは、何故無理に片意地を張って、たった一人でこのような生活を続けようとするのだろう? と彼に問いかけたかった。
「きみが雪霊さんだから? ところで雪霊って何」
その時だ。彼女のすぐ横、シュウの背後からターニャの頬を掠め、鋭利な物体が猛烈なスピードで飛んできた。突然の事だったのでターニャは肩を強ばらせたが、シュウはすぐにそれを見極め、身を翻して宙におどった。彼の身は夜空に透けて一瞬透明に映った。閃くような光跡が舞い散る。
ターニャは目を凝らす。
闇に紛れて、雪原には似つかわしくない一群の人影が立っていた。