第2話 ちょっとした気持ちで少年霊に献血したものの
「どうして、嘘だと思うのかな?」
『人間の性質を知ってるから』
彼女の献身を、彼は嘘だと否定した。彼の中には強い人間不信があり、凍えた心を溶かすのには時間と愛情が必要なのかもしれない。だがその役目は私ではないな……と彼女は思った。シュウはベッドの隅でうずくまりながら、ターニャに猜疑の眼差しを隠そうともしなかった。彼女は腹の中をかき混ぜられたような、嫌な気分になった。
「じゃあ君は、全てを知っているっていうの? それに本質って何?」
強い口調で、彼女は問い返す。少年の姿をして人間を一括りにした断定的な物言いに我慢ならなかったのかもしれないし、勝手に彼女の性格について決めつけられることも腹がたった。
彼女は生物学を心得なかったし、高校卒業と同時にフォトグラファーを目指したものだから、彼が生物としての人間の性質を知って言及していたならば、彼の言葉は正しい。だが、論破されてはならなかった。大人げのない屁理屈は承知のうえ。
「いっとくけどね。人間ってそんなひとくくりに出来るほど単純じゃないの。君は心が読めるの? 読めないんでしょ? それに君にもわからなかったことがあるじゃない。例えば私が心から君に助かってほしいと思っていたこと。君の命がいまあること。君は私という人間のことを、少しも解ってはいない。そうでしょ? だったら勝手に決めつけないで」
まくしたてるように論破すると、何が衝撃だったのだろう、彼は黙りこくった。ターニャを見つめるシュウの瞳は輝くように透き通った青銀色だが、疲労がみえる。そういえば腹部の傷も痛むようだ。シュウの傷口がかなり深かった事を視覚的に思い出す。これ以上彼をうちのめすのは残虐だ。この話題はもうここで打ち切りだ。追い詰めてはいけない。
「ご……ごめん大人げなく言いすぎた。傷、痛む?」
できるだけ優しく語りかけてみた。彼は僅かに困惑した顔だけをむけた。
『うん。痛い』
「動かない方がいいよ。今はしっかり身体を休めて、ね? ここが嫌ならそのうち出て行けばいいし、ここにいても構わないよ。今日は仕事に行くけど、いてほしいと思うなら休むから」
彼はゆっくりと身体を静かに布団に沈めて、半分ほど目を閉じた。瞳に滾っていた青銀の輝きが薄くなり、彼の心も少しときほぐれたような気がする。不思議な子供だ。
『ごめんなさい。目の下に隈が出来ている。徹夜で起きていてくれたのでしょう? 仕事に、行って。僕が悪かった。勝手にあなたの家の前に倒れていて迷惑をかけて。あなたが仕事に行って、夕方になって傷が少しよくなったら出て行くから』
素直になったシュウは子供らしく愛らしかったので、これが彼の本来の性格なのだと、ターニャは信じたかった。ここを出てどこに行くつもりなのだろう。またお伽話の世界に帰ってゆくのか。居場所などないに決まっている。
「少なくとも今日は一日寝ていた方がいいよ。私はここに一人で住んでいるし、寝ている分には何も迷惑じゃないの」
『でも、気持ち悪いでしょ?』
「どうして?」
案の定言い淀んで、頭まで布団を被ってしまった。銀色の毛がわずかにはみ出しているのを彼女は半ば呆れて見下ろす。何と脆く傷つきやすい、繊細な子だろう。
『変なおばけ、家の中にいて』
彼女もまた答えに困ったが、とりあえずフォローのためにこう答えた。
「君は変なおばけじゃないし、おなかに大怪我して痛がっているおばけは、何もできないと思うんだけど」
『怪我をしてなかったら?』
彼の銀毛は布団の中にすっかり隠れて見えなくなった。どうすればいいのだろう。子供の扱いにも慣れない彼女は、子供じみた態度に戸惑った。そして何故か写真を撮りたい、と漠然と思った。しかしカメラを向けるというのは勇気を持って告白した彼を冒涜することだ。
「君、誰なの?」
『名前なんてないし誰なのかわからないよ……みんなはシュウって呼ぶけど』
彼はどう見ても人間ではないようだが、彼自身が誰なのかさっぱり分かっていないようだった。村人達は思い思いの名を付けて、勝手に彼を御伽噺の中に閉じ込めてしまっていたのかもしれない。
『雪原で生まれ、冬を渡りながら生きている。でも僕は自分が何なのか解らない、考えなくてもいいって言われても……あなた達は色んな名前を付けて怖がるよね』
シュウは彼女を責めているのではないのだろうが、ターニャは責められている気になった。彼はひとりで泥沼にはまって憂鬱になってゆくタイプだ。これ以上話していても無駄だ、彼は彼女に危害を加える気力すらなさそうだし、傷も深い。循環法的な堂々巡りの雑談をしているぐらいなら、彼の体力を回復させるために寝かせてやった方がいくらか有意義だ。
「わかったわかった、もう暗い話はやめようよ。それに私、君に関する話をたくさん聞いたことがあるんだ。皆、怖がってるんじゃなくて君に感謝してるんだよ。この街の人は君のことが大好きなんだよ」
『それもうそだ』
精一杯よいしょと持ちあげたのに一蹴されて、彼女はがくっと首を落とした。
「嘘じゃないし。どんだけ人間不信なの。何かほしい物はある? 食べたい物とか?」
話題を変えることにした。そろそろパン屋の出勤の時間で、シフトの関係もあるので休むのならば店主に早めに連絡しておかなければならない。
『お水、少しもらえる?』
「お茶もあるよ」
『お水がいいんだ』
「そう」
彼女は気を使ってお茶を出してやろうと思ったのだが、幽霊の食べ物は色々難しいのだろうな、と勝手に解釈する。部屋を出てすぐ、悩むぐらいならと結局店に電話を入れた。予定が出来た、と休む旨だけを伝えて細かい事を聞かれる前に切ってしまったが、普段一日も休まず勤勉に働いているので少々なら甘く見てもらえる。寒波で凍りつくように冷えきった台所に行き、コップに一杯の水と水差しを持って戻って来た。
『お仕事、休ませてしまってごめんなさい』
「君、何歳?」
『わからない』
たどたどしい言葉で謝罪をする彼の実年齢はともかく、口調はまだかなり幼いようだ。先ほどから謝ってばかりなので、普段真面目にやっているから一日くらいいいのだと説明し、彼の罪悪感を軽減させる。コップに2杯ほど水を飲んで落ち着いたらしく、またベッドに倒れこむようにして身体を横たえた。傷はかなり痛むようだ。明らかに苦しんでいるのが見てとれてターニャは辛かった。どうしてやることもできない。話し掛けて気を紛らわせるぐらいしか……。
「でも、幽霊でも怪我をするんだ……」
『僕、幽霊じゃないよ。怪我はするし、動けなくなる事もある。あなたの気がかわるのが怖い。弱っている今の僕なら何をされても抵抗できないだろうし。目をつぶって眠ってしまいたいけれど、何をされるか解らないから眠れない。でも弱ってなければ、僕の方が怯えてあなたを殺してたかもしれない』
彼女は彼の口から殺すという文句がでたので驚いてしまった。この、見た目はあどけない少年が何のために人殺しをするというのだろう?
「殺しをするって? 人を殺した事があるの?」
『あるよ』
彼は自分の状況が不利になるにも関わらず、搾り出すような声で答えた。きゅっとまた拳をにぎり唇をかみ締めたので、彼の犯した罪を証明しているようにも見えた。
「たくさん、殺したの?」
彼を落ち着けるように、懺悔を聞くように控えめに訊ねる。沈黙したのは、肯定のサインだ。布団を被って首だけ出し、彼女から目を反らすように天井をみつめた。
『わからない。数え切れないくらい』
殺しても、一人が関の山だと思っていた。彼の体つきは貧弱そうだったので、人が殺せるようには見えなかった。しかしその幼い瞳が罪と後悔の念に染まっている。理由もなくただ殺しを楽しむという性格には見えない、ターニャは理由を尋ねたかった。そうせずにはいられなかった。彼は彼女が問いかける前に、言い訳のように言葉につまりながら呟いた。
『心が、なかったんだ。僕には人間の血が必要だから、心があっていちいち悲しまないように、もともと心がないようにできてる』
「人間の血が必要? どういう事?」
彼女は身の危険を感じた。とりあえず、彼が弱っている今はいいが、彼が回復した時に彼女をとって食うのではないだろうか? 彼女の感じた最初の直感はやはり正しかったのかもしれない。
『生きてゆくために、血をもらうんだ。あなた方が、動物を食べなくては生きてゆけないように』
「だから殺しちゃうの?」
『そういうわけじゃないよ。ごくたまに、少し飲めばいいんだ。飲む時はちょっと傷つけてそこからコップ一杯くらい飲めばそれでいいんだ。でも感情があったらその人を傷つけて飲めなくなるんだよ。だから感情はなかった。飲む時は騒ぎ立てられないよう殺してから飲んだし、その街や村を氷に閉ざしても何とも思わなかったし』
彼は髪をかいて自嘲するように言った。彼の手を離れた青い光跡が暗黒の部屋に散って、眩く瞬いた。彼女はこれだけ正直になれる彼の勇気を称えるでもなく、とんでもないものを拾ってきてしまったという後悔が先に立った。彼女は直ぐに体勢をかわせるように構えながら、彼のいるベッドから少し間合いをとった。
「でも君は、人をむやみに殺す事が悪い事だって解っているんでしょ?」
彼女はそう信じたかった。心を知らずに虐殺したのは過去で、今は違うと言ってほしかった。その願いに対して、彼は肯定も否定もしない。
『生きていくのに必要なことだ。悪いことだとは思わない。けど……』
彼は一旦話を打ち切り、残りの水を飲み干し、湿った口元を拭った。意外に骨格のはっきりした指と、荒れた手の先がこれまでの彼の歴史を物語っていた。その道はきっと平坦なものではなかっただろう。
『ある時から、人を殺していない』
ようやく事実が確認できた。やはりあの雪山で遭難した時に、登山者が洞穴で出会った少年は彼だったのだ。そして話の内容もほぼ間違いないと確信した。
「だから結局、もう人を殺さないんでしょ?」
『僕たちにはそれぞれの役割があって、役割を破る事は許されない。人間を助けてきた事が仇となった、だから仲間からも孤立してしまって、殺されそうにもなってる。段々……人を好きになれなくなってきた。守る価値なんてあるのかって。……あなたが、その気持ちを取り戻してくれた。あなたはいいひとだ』
長い問答の末に彼女は、無言でそっと彼に近づき、布団をめくって手当てをはじめた。彼は抵抗すら出来ず、それを彼女に悟られている点で惨めであった。着ていた薄い白衣をめくっても、嫌がるそぶりすら見せずされるがままだ。
「ガーゼをかえるね。痛いだろうけど我慢をして」
弁解のようにそう言って、ターニャは淡く輝く髪の毛を撫でてやった。彼は彼女が覆い被さったので圧迫感を感じたのか、震えているのを見て、哀れに思えてきた。泣きたいならいっそ思い切り泣けばいいのに、消毒薬を少し乱暴に塗ると、沁みるのだが歯を食いしばって耐えた。傷はまだ大して回復しておらず、小さな身体にざっくりと刻まれたそれは痛々しい。
「命を狙われてるんじゃ、誰も信じられなくなって当然だよね。ここで傷ついた体と心を癒していって。元気になってほしい。私は写真家で、君の創りだす美しい景観をフィルムに収めさせてもらってる。助ける事に理由がないと不安なら、そういうことにしといてね」
包帯を捲き終え、すこしきつめに最後結び目をむすんだ。はやく彼を楽にしてやりたかった。傷ついた心とともに、衰弱しきった身体を癒してやりたい。その思いから、彼女はある賭けに出た。
キッチンに向かい、昨日買出しをしていた材料を簡単に調理して朝食を作った。野菜を多く取り、肉も卵も果物もあまり乗り気でなかったが食べた。彼を寝かせている部屋に戻ると、彼は警戒心を和らげうつらうつらしていたので、そのまま起こさずに寝かせておいた。彼女はその隙にシャワーを浴び、念入りに身体を洗い、隣りの応接間のソファで仮眠を取った。
どうやら2時間が経っていたらしい。寝起きに一杯の氷水を飲み部屋に戻ると、彼は起きてぼんやりと天井を見上げていた。暇なのならばあとで本を持ってきたり、テレビをつけてやってもいいな、とその時考えたがそれは後でよい。彼に必要なのは薬だ。彼女が入ってきたので彼は考え事を打ち切って直ぐに警戒態勢に入った。あからさまに警戒しているという風には見えなかったが、表情が引き締まり、ピリッとした緊張感がある。
「気分はどう?」
彼女は取り繕うような言葉を投げかけて、彼の様子を探った。彼は辛そうに身をよじってまた体勢をかえる。どうやら同じ体勢でいるということはできないらしい。あまり動かさない方が傷の回復にはいいのだから、おとなしくしていろという説教は、聞き入れられそうにない。
『何も考えられないんだ』
「今、しっかりご飯食べてお風呂に入って少し眠って、だから体調はすこぶる良好なの。体の中はきっと健康で、新鮮な血液が滞りなく流れている」
『なにを、いっているの?』
彼は眉を顰めて何を意図しているのかわからないらしかった。いや、薄々彼女が何をしようとしているか、気付いているのかもしれない。
「君はそう言わなかったけれど。本当は言いたかったことがあるよね? ご飯を食べるのと同じように、君には人の血が必要なんだよね。だから私から言うよ。私が君の薬になれるのなら、君にあげようと思うんだ」
彼は彼女の言葉を聞いて、愕いてあとずさった。彼女の開き直ったような申し出が信じられないようだ。彼女は彼の背中に手を差し入れ、ゆっくりと起して支えた。彼は彼女の申し出に自らを恥じて躊躇った。
『あなたを痛い目にあわせたくない』
けなげにも顔を逸らし、表情を曇らせる彼を横目に、彼女は彼を支えたまま片手でセーターのボタンを外し、ブラジャーのホックを外す。彼は辛い顔をしながらも、止めなかった。止めたいが、本能には勝てないのだ。彼女は彼の気持ちがよくわかった。彼女だって死ぬほど喉が渇いていて、目の前に水があればどんなに遠慮があっても飲みたいに決まってる。それがたとえ他人のものであっても。
「私も君の元気になった姿を見たいし……心臓の近くの方が、新鮮な血液があるのかな。どう?」
彼女は胸の方を指差すと、目のやり場に困るような顔をして首を振ったので内心ほっとした。強がってみたが、やはり心臓をやられると命の危険にもなりかねないので、言ってすぐ後悔したところだ。どうやら彼女の命は保障されている。恥ずかしい事にそれが一番の関心事だった。
「じゃ、どこが飲みたいのか言ってごらん」
彼女がセーターのボタンを閉じて軽く両手を拡げて見せると、彼は躊躇いながらも彼女を観察した。彼には見えているのだろうか。血流の正確な流れが。首周りを見て、指で触れて体温を探る。彼に触れられるとひやり、として背筋に悪寒が走った。慎重な彼は10分近くも物色していた。彼は数十年も血を飲んでいない。ブランクがある分、慎重になっている。彼女は緊張のあまり、胸が早鐘のように鳴るのを抑えられない。
『ここにしていい?』
最終的には、首筋に決めたようだ。一応脱脂綿に消毒液をかけ首筋を殺菌してみた。口の中も消毒してほしいが……。アルコールが飛ぶと、彼女は覚悟を決めそっと彼の背に手をかけて許した。彼女はぎこちなく笑う。
「大丈夫。もう、怖くない」
彼はその言葉をうけて、すっかりきれいになった彼女の頸を狙った。彼女は天井の古いシャンデリアを見ていた。彼は彼女の腕と首筋を両手で軽く押さえていただけだったが、何故か逃れられないように感じる。直後、猛烈な眠気が襲ってきて、麻酔をかけてくれたのがわかった。闇の中で全ての感覚が頸に集中する思いだ。小さな配慮が今は嬉しい。
彼の舌で舐められると非常に低温なため、組織が凍えて痛覚が鈍くなる。やがて、肩から液体が流れて落ちたが、色彩を見るまで血液だとは気付かなかった。それほどまでに、痛みはなかった。彼は彼女からは決して見えないように死角を作り大切そうに伝った血液を舐めとり、傷口を隠しゆっくりと血液を吸い始めた。彼は彼女の呼吸に合わせて無理なく舐るように吸い上げ、傷口を拡大しようとはしなかった。
ふと彼が不憫になってその背を両手で抱いた。そんな彼女に構わず彼は淡々と彼女の血だけを体内に取り込んでゆく。口を離すと、名残惜しさすら感じた。幽霊に生き血を吸い取られたというのにだ。
『栄養をたくさんとってたんだね。きれいな血で、甘くて美味しかった。ありがとう、きっとすっかりよくなるよ』
彼は消毒液を同じように脱脂綿に振り掛けて、彼女の傷口を手当してくれた。
そして傷口はすでになかった。