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【休載中】Savage Fairytales(外伝)  作者: 高山 理図
第2章 リビングデッド・アンダーワールド
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第27話 雪原に相果てる

 ルカの取った行動は、ライザ修道会司教マリア・クレメンティナへの直電だった。ゼクトの居場所と思しき低気圧の中心まで、この場所から1千キロもある。夜間は飛行機は飛んでいないし、ルカがその場に駆けつけることができない。また、確かにシュウの言うように夜間にターニャを置いてゆくなどもってのほかだ。彼の使命は、ターニャを守ることにある。


「それで、シュウを一人で行かせたのですか? ゼクトと思しき霊のもとへ」

 行かせたと司教は言うが、ルカの制止を振り切り、さらに言うと法力圏も突破して彼が飛び出して行ったのだ。ルカは止めるすべがなかった。力づくでも止められなかった。

「もうあなたでもシュウを御すことができませんか。それもまた、神の思し召しなのでしょう。ですが戻ってきますよ、私はそう思います」

 マリアはルカを責めもせず、電話越しで静かに溜息をついた。マリアはいつも厳しくも穏やかな司教で、ルカは彼女と言葉を交わすと僅かながらに平常心を取り戻す。しかし内心では彼の身が心配で仕方がない。


「相手はあのゼクトです、あの子が確実に勝てるとは限りません」

 格下の相手ではある、しかしシュウには隙も多く守るものも多い。霊として未熟な部分もある、精神力もさほど強くはない。そうでなければ、ライザ修道会はシュウを捕えられはしなかっただろう。

「彼は単独、なのですね。稀人とは一緒ではない、ならば私の使役霊をそこへよこしましょう」

 マリアは強靭な自然霊を六体使役しているが、ゼクトやシュウほどの大物と較べるとどうしても劣ってしまう。

 加勢にはならずとも、事態を見届けることはできるはずだ、とマリアは言う。自然霊が本能に引き摺られる以上、マリアの持ち霊にターニャを見せることはできないが、シュウが単独行動を取っているというのなら派遣することができた。


「ありがとうございます」

 ほんのお使い程度にしかならないであろう、それでもルカはマリアの措置を歓迎するほかになかった。

 シュウが戻ってこなかったどうしようか、とルカは考え込む。マリアの持ち霊の飛翔速度は、シュウよりずっと遅い。シュウは霊力で飛翔速度を制御し、恐らくルカがいなければ音より速く跳ぶ。

 マリアの霊がその場に着く前にゼクトと一戦交え、もしゼクトに勝てなければ……。

 シュウは問答無用で殺されるだろう。それが自然霊同士が縄張りをかけ、争うということだ。


「お前、何でそう先走るんだ……何も一人で行くことはないだろう。私を信用していないのか」

 次第に拡大してゆく低気圧に画面いっぱいに覆われる天気図を見ながら、ルカは悔しげに唸るのだった。

 そんなことは何も知らず、ターニャは深い眠りについているはずだった。


 *


 シュウは嵐の夜空を超音速で飛翔しながら、たった一体で巨大低気圧の中心を目指す。ルカの法力圏(FOL)を抜け、風と一体化し空を舞う。霊気が充実し、今、彼は自由なのだと実感する。このままルカとターニャの元から逃げてしまえば楽になるだろうな、などという考えが頭の隅によぎったが、実際に行動に移すことはなさそうだった。ターニャの命が尽きるまでは、彼女と共にあると決めたのだ。物理的には何ら束縛されていなくても見えない、簡単には手放すことのできない確かな絆が、彼と彼女を繋いでいる。


 ルカを置いてきて正解だった。ルカは確かに強力な法力を持つ修道士だが、所詮は肉体的に脆い人間だ。もしゼクトと事を構えようと言うならルカに遠慮して、全力で戦うこともできなくなる。ルカを守りながら戦う、これではこちらに不利で仕方がない。勝てるものも勝てなくなる、そして普通に戦えば勝てる相手ではある。

”このあたりだ……気圧が強い”

 できるだけ直前まで、ゼクトの前に姿を現さないよう気配を消している。

 暴風雪の中心に向けて、シュウは突き進む。眼下に小高い丘が拡がっている、その頂に大型の獣が鎮座しているのが見えた。シュウは急ブレーキをかけ、獣の姿を見定める。動物ではありえない、白銀の狼のようにも見えるがそのサイズは桁外れであった。よく見るとそれは、霊気にみなぎっている。間違いない、あの禍々しい霊気を発しているのがゼクトだ。

 狼に似たその獣が、大きな遠吠えを上げる、気圧を下げ、寒気を呼び込み、積乱雲を立ち上らせ……更なる雪嵐を呼んでいるのだ。ゼクトの霊力を受け、ビシビシと大気が軋む。突風ともいえる渦巻く上昇気流がシュウの頬を激しく打つ。


 ゼクトに近づく前に、シュウは辺りを見回す。空から周囲に人間や獣がいないかを確かめた。何度も念入りに確認する。もしものことがあれば、このあたり一帯を巻き込むことになる。人を寄せ付けない無人の雪原に岩山、地形はうってつけだった。 

”あれは……家か?”

 だがぽつんと一軒、草原のはずれにログハウスを見つけてしまった。目を凝らすと、幸いにして明かりは灯っていない。家主は留守、もしくは無人だ……シュウはほっと安心すると、ゼクトの気圧を吹き飛ばしゼクトの注意をひきつけながら音もなく山頂に着雪する。彼の着地した風圧によって白雪がふわりと舞いあがり、はらはらと鈍色の夜空から落ちるに任せていた。


 不意に出現した霊に、ゼクトは驚いた、といった反応だった。

 雪霊の霊族長が、わざわざゼクトを捜して乗り込んできたのだ。


『雪霊か、何の用だ』

 二体の自然霊の間を、冷たいつむじ風が吹き抜ける。シュウは示針を持ったまま、たっぷりと間合いを取った。話がこじれればどうせ瞬時に詰められはするのだが。

『何故縄張りを侵したのか、直接聞きたくてきた』

 こうもちかけると、穏便に、とはいかない。ゼクトは早速、以前のシュウと何か雰囲気が違うことに気付いたようだった。

『貴様、前に見たときと違うな……力をつけたか。それに人間の女の匂いがする。人を食らってここにきたのだな』

『……ああそうだ』

 シュウは風下に立ったつもりだったが、ゼクトの鼻はごまかせなかった。

 ターニャの家で暮らし始めてから、人間のにおいが体に染みついているようだ。シュウはそれを密かに気にしていたが、どうすることもできない。だから、穏便に済ませたければ喰らったと言うほかにない。が、今シュウが口にしている血液はライザ修道会からルカが購入している輸血パックのものだけだ。

『霊能者のにおいもする、何を喰らった』

 すん、と鼻をひくつかせるゼクト。

『……修道士だ』

『そいつも貴様の腹の中か。贅沢なことだ、前より捕食が上手くなったか? 前は貴様は人間にありつけずやせこけていたが、今は活力に満ちているようだ』

 さぞかし満腹だろうな、とゼクトは舌なめずりをする。ゼクトほど大型の霊だとどれだけ人や獣を喰らっても飢えているようだった。ゼクトはシュウが自然界から追放された後も、他の自然霊たちとは違ってシュウの処遇に対して頓着していない。シュウに対して特段の敵意はなかった、それはシュウも知っていた、だから敢えて出向いて来たのだ。ゼクトはただ食い意地が張っていて、関心事は食糧としての稀人の居場所だけだ。それ以外の事はどうでもよいらしい。


『もう赤子は試したか? 人間の赤子の肉は柔らかくて美味だ、特に乳離れしていない女の赤子のほうがいい、そうは思わんか?』

 付き合いきれない、とシュウはうんざりしながらも彼の話に水をさすことはしない。

 ゼクトの意見については、あながち残酷でもないとシュウは思う。人間だって成牛も食べるくせに仔牛の肉の方が柔らかくて美味いからと、好んで食べるのだ。乳離れしていない仔牛や、若鳥を平気で殺す。美食の為には他の動物の命など気にもしない、それが人間だ。そんな人間どもを霊が殺して何が悪い、糧とするために人を殺めるゼクトは間違っていない、が、稀人を探す為だけに他を巻き添えにするのは間違っている。それは捕食とはいわない、理由なき惨殺なのだ。


『だが赤子などより稀人の肉はもっと美味だ、貴様は知るまい』

『僕は肉を喰らう種族じゃないから、よく分からない』


 人肉の美味さに関しての、食欲旺盛なゼクトの薀蓄は続いている。稀人を食いそこなったという話は以前にもそっくりそのまま聞いた。シュウが放っておけばまるごと以前と同じ話をしそうな勢いだった。それほどゼクトは稀人を逃がしたことを根に持っているらしい。

『というわけだ、稀人が近くにいるに違いない、以前俺が仕留めそこなった人間とは別の稀人もいるらしい……低俗霊どもがこの一帯でうるさく騒いでいるからな』

 青い硝子のような瞳をギラつかせ、ゼクトの牙からは涎が滴っている、もう一刻も我慢がならないといった具合に。

 仮にここに人間でも居合わせたなら、誰彼かまわず食われてしまうことは請け合いだ。シュウは事前の地形調査によりその可能性がないことだけは感謝したかった。


『そのことだが、この付近にいた新しい稀人なら殺した』

 シュウのさらりとした一言に、ゼクトは絶句した。いかにも自然霊らしく、無感情にそう言って捨てる。

 ……ターニャと出会う前の自然霊としての性格を思い出すのに、彼は苦労した。どう言えば相手の自然霊を納得させることができるか、不自然でないか、霊としての思考回路に立ち返って考えるだけでも消耗するし空しくなる。人と密接に関わりすぎたのが原因であることは明白だった。人の心は温かく優しく、触れ合えば心地よい。彼女、ターニャとルカがそれを教えてくれた。

 氷点下の世界でただモノ思わぬままに孤独を生き、殺戮を繰り返したあの日々から、今や彼は遠ざかりつつあった。人間に飼いならされたのかと、ゼクトは嘲笑い侮蔑するだろう。それでも彼は、ターニャを何より大切な存在だと思っていた。彼女を守りたかった、たとえ自らの命にかえても。

『何だと……』

 ゼクトのしなやかな銀毛が、ざわりと逆立ち牙を見せる。

『血を取りすぎたから死んだ。人間には失血死というものがあるんだそうだ』

『貴様がか? どこで見つけた』

 ゼクトは疑いの眼差しを向ける。が、シュウは眉ひとつ動かさずまるで動じない。

 

『どこだったかは忘れたが、あてずっぽうで人間を殺していたら偶々当たった』

 血も凍るような冷酷な言葉を吐きながら、シュウはターニャにはとても聞かせられないなと心の底で彼女に悪びれる。しかしゼクトは納得がいかない、稀人の血肉を得れば信じられないような霊力を得ることができるというのに、血だけを取ってみすみす肉を捨てたということがだ。特にゼクトは肉を主食とする種族であるだけに、シュウの行為はゼクトにとって贅沢以外の何物でもなかった。


 しかし、だからこそシュウのはったりはゼクトに通用するはずだ。雪霊族である彼が肉を喰らわなかった理由を、そういう食性ではないから肉には手を付けてないとでっちあげることが可能なのだ、そしてターニャを亡きものにして諦めさせることができる。他の種族に食われたというのであればそうはいかない、喰らいそこなった=稀人がまだ生きている、の方程式が成り立ってしまう。


『肉は喰わなかったのか、何故だ! 稀人の肉だぞ』

『雪霊は肉は喰らわない種族だといったろう』

 ゼクトは吠えるが、雪霊族はリンネの時代からそうなのだ、主食は人間の血液であって肉ではない。事実だ。シュウははったりをきかせてみる。ターニャが死んだということにしてゼクトの執拗な追跡をやりすごすことができるなら、戦わずして退いてもらえるならばそれが一番よいのだ。


『くく……そうか……貴様だったのか、雪霊のシュウ! 稀人の肉を喰らわず血のみを啜ったというのか、愚かな! 人間に加担し追放された割には、稀人の肉を随分と粗末な事をしてくれたな』

 馬鹿にしたように、あるいは憐れむように嘲笑うゼクトを、シュウは無言で受け流す。

『まあいい、ならば生存している稀人はこの付近にもう一体いる。おれが脚を喰らった奴だ』

 五年前からの稀人に対する執着心は消えていないらしい。自然霊の食欲という本能はその個体によっては、それ以外何も見えなくなるほど壮絶なものだ。

『もう一度言う。縄張りから出て行ってくれないか。これ以上縄張りを荒らされては許容できない』

 シュウはシュウで、毅然として鋭く言い放つが、ゼクトは近づいてくる。鋭い爪のついた、筋肉に覆われた太い脚で、ずん、ずん、と迫ってくる。

『縄張りを荒らすだと? 俺が何をした、貴様に迷惑をかけたのか?』

『僕は一種一体で世界中の降雪を管理している、北半球で勝手な事をされると各地の降水量が狂うんだ。迷惑をしている』


『俺は自分の獲物を捜しているんだ、追放された霊に指図される筋合いもない』

 止むを得なければそうするが、ゼクトとやり合うのはシュウは気が乗らなかった。ターニャの件はゼクトには気づかれていない。そうであれば、何もわざわざゼクトを殺す必要もなく、ターニャに襲いかかる自然霊をいちいち皆殺しにしていてはきりがないし現実的ではなかった。アルトラの時は避けられなかった。アルトラは明確にターニャを狙っていたし、ターニャも自らの正体をバラしてしまっていたからだ。

 だが今回はそうではないとなると……そういえば、と思い出してシュウはゼクトにある質問を投げかける。

『お前、今日一日でどれだけ殺した?』

『さあな、数えるのも馬鹿らしい。稀人を捜すためならどれだけでも殺すさ、見つかるまでな』

 被害が数千人規模になれば、ウォルターが動く。しかし自然霊がその役割において齎す災害については見逃される。だが、ゼクトは今、稀人を捜すためだと白状したのだ。そしてゼクトは一種一体の霊ではない、粛清の対象となる。


『まあいい。退けというなら、力で示せ』

 問答無用で、ゼクトが攻撃を仕掛けてきた。ゼクトが吠えれば、不可視のナイフとなった真空の気圧が全方位からシュウを襲う。シュウはさっと指を弾き周囲に分厚い氷の壁をつくり、真空による裂傷を防御する。ざっくりと大きく割けた氷壁を示針を振って砕いたとき、ゼクトが真上からシュウに飛びかかってきていた。シュウは示針でゼクトの脚を撫でると、前脚は分厚い氷に覆われ凍り付いてゆく。その隙に素早く横跳びに避け、雪原から無数の霊力を通わせた巨大な氷柱を生み出し、ゼクトを下から突き刺そうとする。ゼクトは凍りついた前脚で氷柱を薙いで砕くと、空中に何か輝くキューブ状の物体を呼び出した。ゼクトの固有の霊器だ。

”変圧生成具(Variable Pass)か……!”

 霊器からコバルトブルーの閃光が生じ、周囲の景色がぐにゃりと歪む。シュウを追って圧縮された大気のハンマーが落下してくる、避けられなかった。

『ぐうっ!』

 地面が割れ岩盤が捲れあがってクレーターができ、シュウは示針で受け止めながらも全身に重い衝撃を喰らって呻く。霊器から発生するゼクトの霊力を乗せた圧縮大気は、霊を打ちのめすものだ。

 これは手加減していてはだめだ、ゼクトは本気だ。殺すまではいかなくとも、暫くは動けない程度の負傷はさせなければ。シュウはゼクトに右手をかざし、霊気を高め集中する。

『絶対零度……』

 時間をも凍らせる絶対零度圏を立ち上げようとしたシュウの表情が曇る。何故なら見つけてしまったのだ、一台の車がヘッドライトを向けながら、雪道をこちらへノロノロと走ってくるのを。

 ああ、あの一軒家の家主が今頃になって帰ってきてしまったのだ。ただ単純に、ゼクトの齎した暴風雪で道が混んで帰りが遅くなったのだろう。雪原に点ったヘッドライトを見つけたゼクトの口角がいやらしくつり上がった。ゼクトは極度に飢えている、戦闘中でもやる気だ! シュウはゼクトを鋭く呼ぶ。


『ゼクト!!』

 しかしもう遅かった。ゼクトは気圧の刃を放ち、車のエンジンルームを吹き飛ばしてしまったのだ。シュウは気がつけば、自然に体が動いていた。衝撃で車の外に放り投げられた夫婦を両手に抱え、素早く彼らを雪上に降ろし、彼らに視認させるために完全に実体化して目を合わせ短く言った。

『僕が見えるか? 逃げるんだ!』

 しかし、彼らのものではない激しい泣き声が辺りに反響していた。煙の燻る車の中に、まだ赤子がいたのだ。後部座席は荷物に紛れて、夫婦を救出した際にはシュウは気付かなかった。突如現れた二体の怪物、一体は半透明の巨大な銀の獣、そしてもう一体はよりはっきりと見える白銀色の幽霊。車を破壊され、次の瞬間には彼ら夫妻は悪夢の光景を見た。恐怖のあまり腰が抜けて、尻餅をついたまま硬直している。

「う、うわあぁ」

「ああ、神よ、あんまりです」

 シュウは彼らを庇うように夫妻の前に立ち、ゼクトを睨みつける。 ゼクトは唸り声を上げながら、怒りに満ちた気配を纏い近づいてくる。彼の頭上に浮かぶVariable Passが、禍々しい赤色を放ち輝いていた。

『横取りする気か? それは俺のものだ、俺が先に見つけたんだ』

『よそ見をしている場合……』

 シュウが言いかけたところだった。背後から発砲音、数発の銃声が広い雪原にこだまする。熱い衝撃が、シュウの体を貫いた。弾は殆どが空に発射され的を外れたが、それでも二発はシュウの後頭部から額に抜け、そして一発は背部から胸へ、ゼクトの肩にも命中した。しかし半実化していたゼクトはさして影響はなかったようだった。

『なっ……』

 貫通した弾痕の通った額を抑え、銀の血にまみれながらよろけるシュウ、まさか背後から攻撃されるとは思ってもいなかったのだ。父親は護身用の銃を持っていて、言い争いをする二体の化け物に恐慌状態で乱射したらしかった。狙いが正確だったとは思えない、ただ、命中してしまった。

 くらりと意識が抜けそうになり、力が抜け視界が霞む。

 シュウは自然霊で基本は半実体であるのだが、実体化している場合には負傷する。夫婦に避難を促すために実体化したのが仇となった。そして胸の弾痕は、精令殻を貫き通していた。自然霊の心臓ともいえる核だ。

『はは、馬鹿が。邪魔をするからだ』

 ゼクトはシュウに背を向け、車の中に残された赤子に近づく。車のルーフを咥えてべりべりと剥ぎ取り、嬉しそうに牙を剥く。ゼクトは赤子の肉を好む、というのは先ほど知ったばかりだ。父親の銃はもはや弾切れだった。

『や……めろ』

 シュウは渾身の力を振り絞りゼクトの頭部に氷弾を撃つが、アストラルコアの負傷により威力が足りずゼクトの霊圧にかき消されてしまう。胸が痛む、力を使えばコアが砕けるかもしれない。それでも、

『やめろおぉぉ!』

 血の滴る示針を握りしめ、空を蹴り、Variable Passを示針で一刀両断に破壊し、更に上空からゼクトに襲いかかる。

 絶対零度圏に巻き込み、暗黒をした物理法則を歪める球体がシュウを中心に展開する。圏内の時間が止まった。

 ゼクトの体は瞬時に凍てつき、シュウは示針でゼクトの背を縦に、横に引き裂いた。アストラルコアは破壊していない、いないが、暫くは動けないほどに弱体化する筈だ。もはや反撃するには絶望的なダメージを与えたのち、絶対零度圏を解除。ゼクトの変化が解けはじめた。ゼクトは苦し紛れに、背後に張り付いていたシュウを巻き込み、爆発を起こそうとしている。シュウはゼクトの霊体が鈍く熱を帯び始めたのを見ると、爆発の寸前に車の中から泣きじゃくる赤子を救出し、ゼクトの衝撃波に吹き飛ばされ背に大きな傷を受けた。

 爆発の後に、ゼクトの姿はなかった。精令殻は破壊されていないので周囲に飛び散った霊気は凝集し、数年もすればまた同じようにこの地で再生するだろう。


 シュウは救出した赤子を抱え、息を切らせ、一歩一歩足を運び、両親のもとへ近づく。一歩歩くたびに、銀色の血が雪上に滴る。近づけば近づくほど、人間は逃げようとする。父親が及び腰になりながら叫ぶ。

『そうか……』

 ゼクトだけではなく、彼らはシュウのことも怖いのだ。

「や、やめろ近づくな! こっちへくるなあああっ!」

 赤子をケットでくるみ、そっと雪上に置くと、シュウは彼らに応える気力もなく仰向けにその場に倒れこんだ。

 失血によって意識はもはやもたなかった。力なくゆるゆると瞼を閉じる。


 どれくらい経ったのだろう、シュウに意識が戻ったとき、夜空は晴れ上がっていた。シュウの霊力が弱り、ゼクトの影響が消えたからだ。頭がぼうっとして思考が散らばるのは、頭部を撃たれたからだろう。

 広大な雪原に、力尽きた雪霊が弱弱しく一体、倒れている。

 満点の瞬く星々が彼を見下ろしていた。ターニャの好きな星座も見える。


 胸が痛む。銃弾が精令殻に突き刺さったままだ。罅が入っているに違いない。背後から狙撃され、貫通していないので、弾は精令殻の裏側にある。シュウには取り除く事ができない。精令殻はクリスタル、結晶体だがそう硬くはない。他の自然霊の精令殻を壊した事があるから知っているが、どちらかというと脆い。もし、変に動いて亀裂が入った部分から砕けてしまえばシュウは消滅する。


”ルカと来れば、法術で癒やしてくれたかもしれないな……”


 などと今更思ってみても仕方がない。それに、よく考えてみれば欠けた精令殻をどうやって治すというのだ。せいぜい接着剤で繕うしかないが、それも現実的でもなし。時間がゆっくりと過ぎてゆく。それは死へ向かう時間のようにも思えた。

 今更のように気付いたが、シュウの周囲には、あの家族の姿はなかった。赤子を連れ、シュウが意識を失った間に逃げたのだろう。点々と続く足跡が彼らの家に繋がっている、それを見つけたシュウは安心したように薄く微笑んだ。

 あの夜、ターニャは行き倒れたシュウを救ってくれたが、人間にも色々なタイプがあって価値観も様々だ、そして殆どの人間は霊を恐れ、神に呪われた怪物だとみなしている。置き去りにされるのは当然だ、最初から期待してもいない。人間とはそういうものだ。


 ひとりでいることを、今日ほど心細く思った事はなかった。

『ターニャ……』

 今は彼女に逢いたい。ただ、一目でも。シュウは歯を喰いしばり、再び薄れゆく意識を繋ぎ止めようとする。もし、これが最後だというのなら、彼女の傍にいたかった。しかし、自分が消えてしまったら、ターニャはどうなってしまうのだろう。


「やれやれ、もう死ぬのか。万理にはまだ程遠いな、雪霊のシュウ」

 シュウの知るあの声が、すぐ真上から降ってきた。

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