第26話 忍び寄る空霊ゼクトの気配
クリスマスが過ぎて、ターニャの住む東欧の街でははや新年を迎えた。
寒さは一層厳しく、街はいつもの景色を取り戻している。クリスマス休暇はあったが、ターニャは今年は帰省しなかった。ルカとシュウを連れて帰省したくてもできなかったのだ。実家には「体調が悪くて」と曖昧な言い訳をするはめになり、両親には過剰に心配され、さらにターニャの良心はいたむのだった。
写真を撮れないもどかしさ、わが身の侭ならなさを紛らわせるかのように日中、彼女はあくせく働く。新年になってパン屋の客足もとみに増え、ターニャは目もまわるほど慌ただしい毎日を過ごしている。シュウはできる限り彼女の傍にいて、人間の服を着て100%の実体化を保ち、店を手伝うターニャの知り合いの少年のように振る舞いながらも気を抜かない。人間らしい振る舞いも身についてきた。愛想を振りまいたり、などとはいかないが、シュウにも顔なじみのパン屋の客が何人かできた。
アナスタシアはそんなシュウに話しかけてもあまり相手にされず、手を替え品を替え彼の気をひこうとするも失敗するのだった。アナスタシアはファンタジックで精霊らしい彼の振る舞いや奇跡を期待しているのだが、シュウは店にいる間は場を弁えていて決して霊力を使わない。
「はーあ。どうやったらシュウくん、振り向いてくれるのかしら」
アナスタシアが思いのたけを込めて、ターニャの耳元で小さくため息をつく。
「一体何を考えてるのよ」
雪霊と一体どう仲良くなることを期待しているのだろう。と、ターニャは微苦笑する。彼がいくら元人間ではあっても今は違う、触れ合うことはおろか、理解することも難しい。ターニャですらそうなのだ。
「何か仲良くなるきかっけはないものか……」
「これ以上どう仲良くなろうとしてるの」
「そうだっ、今度皆で一緒に登山しない!? ほら、ターニャも写真が撮りたいでしょ? 日帰りで、いいでしょ?」
アナスタシアが何かよからぬことを考えている気配がしながらも、
「そんな、野生動物の写真はすぐ撮れるものじゃないよ。でもナースチャがそんなに行きたいなら……シュウ君も行ってくれる?」
渋々ながらも、悪くない案だな。と、思い直して心惹かれたターニャは、窓際の椅子に腰かけたシュウをちらりと見る。屋外での彼女の単独行動は危険だ。シュウはミネラルウォーターを飲みながら熱心に分厚い本を読んでいたが視線をターニャに向け、本を閉じた。
『昼間なら一緒に行ってもいいよ。あと、ルカも一緒なら。夜はルカの結界が張られて、霊には見えなくなった室内なら、ね』
昼間はシュウの霊力が弱るのは確かにそうなのだが、霊の活動時間外である昼間はいくらかターニャも安全だった。彼にとっては最大限の譲歩なのだろう、ターニャはその気遣いを嬉しく思う。
「本当? じゃあ予定立てよう! きれいなコテージとか泊まりたい。室内にいたら大丈夫なんだよね、私雑誌買ってくる! スキーもしようよ」
ナースチャが先走っている。リゾートではなくて、野生動物の写真が撮れそうなスポットのことも忘れないでほしいとターニャは思うが、おめでたい友人の頭の中からはすっかり消え去っているようだった。
「やったー!」
日が沈む前頃には、ターニャとシュウは歩きなれた帰途につく。
凍てつくような夕暮れの街並みに、灯りがまばらにつきはじめた。
地霊長アルトラが消滅したという事件は、地霊とスプライトを中心に間に瞬く間に広まっていった。アルトラを殺害し禁忌を犯した精霊、つまりシュウの犯行であるとは特定されていないが、アルトラを屠れる実力を持つ霊がそうはいないことと、エリアが徐々に特定されつつあることは憂慮しなければならなかった。位置が特定されてしまうと、ノードを通じて自然霊たちが大挙して襲来するだろう。しかしアルトラは無実の雪霊ソフィアを殺したのだから、その報いを受けるべきだったとシュウは言う。強がりともとれる言葉に、ターニャは彼の複雑な立場を思った。世界中の自然霊を敵に回し、彼はかたときもそばを離れずターニャを守ろうとしてくれている。同族と戦わなければならないのは怖いだろう、辛いだろう。
そう思うと、愛おしくてたまらなくなり胸がきゅっとする。彼の背中が少しだけ頼もしく見えていた。
「シュウくん、歩くのちょっと早い。また背が高くなったよねえ」
『ゆっくり歩くよ』
悪びれて歩調を落とす。
「どこまで大きくなるの?」
シュウの成長は目覚ましく、歩幅が広くなっているのだ。ターニャは彼に少しサイズの大きな服を買うことにしているが、すぐにぴったりになってしまうのだった。もう、子供服の似合う身長ではない。ルカが三日前に測定したところ、彼は168cmになっている。もう、シュウがターニャの身長を追い越すのも時間の問題となっていた。同時に、彼は段々と青年霊になってゆくのだろう。出会った頃は彼は少年で、言葉もあどけなかったのだが、最近は彼の勉強の甲斐もあってしっかりとした語彙と口調で話すようになった。顔つきも段々と精悍な青年の顔になってきている。ターニャもそんな彼にどう接してよいものか、複雑な心境だった。
サイズの合わなくなったライザ修道会の首輪は金物屋で切り、ルカは腕輪タイプのものを司教マリア・クレメンティナに郵便局に送りつけてもらった。ルカには他の霊能者や修道士たちとのトラブルを避けるために常に腕に着けるように言われているが、その気になればシュウはいつでも外すこともできた。なので今、彼は殆どルカにも縛られず、自由意志で自由に行動している自然霊である。
『このままだのペースだとターニャの家に入らなくなるね』
「うそぉ……冗談だよね」
ターニャは半笑いで応じたが、シュウは真面目に上の空で、というか薄暗くなってきた曇り空を見上げていた。どしたの? とターニャが尋ねると。
『雲が、今日は重い感じだ。変だ』
「そういうのってシュウ君が調節してるんじゃないの?」
『制御がきいてないみたいだ、霊気は充実しているし原因が分からない』
この辺り一帯の冬期の気象は、ほぼ雪霊であるシュウの管轄下に入っているといっていい。ターニャはふーん、と相槌を打ちながらも、別段と気にせずいつ登山休暇を取るか、シュウが興味を持ちそうな場所はどこだろう、などということに頭を巡らせていた。
その頃、今日もルカはターニャの家で携帯に保存していたウォルターのJPEG符の解析に勤しんでいたところだった。解析といっても、聖職者である彼が呪術に明るいわけではない。知り合いのダンバ協会の呪術者とやりとりの中で、その図柄の持つ意味を何となく推測することはできたが、完全には解読できない。
呪術の原理は最も原始的なもので、自然界の力を直接借りるというものが多い、それに引き換え、法術は神の力に預かる。問題のjpeg符をプリントアウトして手にとってみると、別段なんの効果も発揮しない。手書きで書写しても同じだ。それでもモニタの中でデジタル化されると呪力のようなものを帯びる。
「不思議なもんだよなあ、デジタル符か」
逆に、ルカの持つ聖符をスキャナにかけてデジタル化してみると、これまた同じ効果を発揮した。これで煩雑で馬鹿げた単純作業ともおさらばできる。司教たちは簡単に複製できる符などありがたみが薄れる、などと怒るところだろうが、彼は元々伝統に固執はしない理系人間だ、作業の効率化は非常に好ましい。霊との干渉方法の新たな糸口を見つける事ができたので目からうろこだ。しかし……
「つくづく思うに、霊って一体何なんだ」
電磁的な相互作用によって霊を破壊するばかりではなく束縛することができるということが、ウォルターの術によって証明されてしまったのだ。アメリカの研究グループの低俗霊合成実験から霊が電子ネットワーククラスタであることはほぼ証明されつつあるが、もっと真面目に霊の電気的性質を分析してみたいものだと、ルカは興味を擁く。霊が半実体であるという理由は、まだ現在の科学では明らかになっていない。
『霊は霊じゃない、それって人間って何って訊くようなものよ。困るでしょう』
ピンク色ドレスのスプライト、サルビアが林檎をかじりながらテレビに耽っている。彼女はナースチャにいじりまわされるのを嫌って、ベーカリーには行かず家でぬくぬく過ごしていた。春になる頃には、貨物便でもといた国に送り返してくれという。彼女はここのところ、暇つぶしに好んでテレビを鑑賞していた。彼女が興味のあるのは料理番組だ。あれが食べたいこれが食べたいと言うので、ルカはそこおねだりに負けて彼女のリクエストのあった料理を作ることにしている。
ルカは壁掛けのアンティークの柱時計を見る。
もうすぐターニャが帰って来る頃だ。食事の準備はできているので、そろそろ鍋に火を入れなければならない。
「霊よりははっきりしてるぞ、人間の定義は……お?」
料理番組が終わり、ニュース特集が報道されていた。チャンネルを変えようとするサルビアからリモコンを奪う。
「待てサルビア、チャンネルを変えるな……おや、何か大変そうなことになってるぞ」
欧州各地で大型低気圧による異常気象が大雪を降らせ、街を氷に閉ざし、道路、交通、水道、ガスなどのライフラインが寸断されているということだ。豪雪により陸の孤島となった田舎町は悲鳴を上げている。凍死者は過去最大の被害。異常低気圧は例年雪の降らない地域をも巻き込みながら、さらに発達し移動中だという。数日のうちに、この街を通過するかもしれない。ライブ中継で各地の被害がクローズアップされる。各国政府は、これといった対策を立てられずにいた。
「変だな……暴風雪で数百人規模の死者って。シュウの仕業か?」
まさかシュウが……確かに、雪霊の彼が司る降雪という仕事に人間であるルカが口出しはできない。だが、これはあまりにも酷過ぎはしないか。もし彼の仕業だというなら、即刻やめさせたいところだ。
『違うよ。昔はそういうこともしてたけど、今は降雪を一か所に集中させて環境や動物たちを困らせるのはあまり好きではないんだ。この時期にこの規模というと……ゼクトかもしれない』
すぐ背後から声がして、振り返るとシュウが立っていた。ルカは驚いて心臓を押さえる。
「ああ、帰ってたのか。脅かすなよお前!」
こういう時、当たり前だが彼は自然霊なのだと思う。ルカはそれなりに霊感はあるが、シュウは気配を消すのがうまく、ここ最近はルカを出し抜いてくることが多い。まあ、人間じゃなくて霊だからな。とルカは納得しつつも心臓がバクバクしてしまう。それにしても彼は人間の迷惑ではなく、生態系の迷惑を最優先に考えているらしかった。それはそれで、ルカは頭が痛いところなのだが。
「ただいまは言ったのよ、ルカさんテレビに夢中だったから」
コートを脱いでブラッシングするターニャが申し訳なさそうにそう言う。
『ゼクトはいつも、もっと低緯度を通るしこういう目立つことはしないんだ。でも今年に限って進路をかなり北にとってる、何でだろう』
「まいったな、ターニャを狙っているか捜してる、なんて言わないだろうな」
それは深刻だ、とルカは唸る。精霊対策国際協議会監視指定自然霊リスト、ランク5位、レベルAAA、空霊ZECT、大気や大気圧を司る霊族長である。北半球全域を支配し、直接、間接的に二万人近くの人間を殺害してきたとされる残虐な自然霊だ。また、ゼクトは稀人一人の脚を喰らって力を蓄えている。その稀人は、命からがら逃げだして今はライザ修道会に修道士として所属しているはずだった。
偶然の災害であってほしいとシュウは言うが、ルカはそうは思えなかった。
『うわあああ、ゼクトがくるの――!? 帰る! 今すぐ帰る――っ!』
ゼクトの恐ろしさを知るサルビアが大慌てで逃げ出そうとしている。花霊である彼女は、ゼクトの齎す暴風に何度翻弄されたとも知れない。その恐ろしさは身に染みて知っているようだった。ゼクトは毎年、シュウの縄張りを避けて少し低緯度を通っていたのだ。だから毎年のようにサルビアの居住区に被害が直撃する。
「サルビアはゼクトを見たことがあるのか?」
『ないよっ、というか誰もゼクトを見たことがないんだよ。ゼクトはダメだ、霊もスプライトも人間も潰しても気にしないんだから……スプライトたちもたくさん殺されたんだよ』
そう言って花の鉢の傍で震えるサルビアを、シュウは気の毒そうに見下ろすのだった。
「サルビア、どういうことだ?」
『ゼクトの正体を見た者はいないんだ。変化術が得意な霊だと知られてて、動物や植物、無機物に化けることもできる。だから何が本体なのか分からない』
シュウが代わりに答えた。シュウもゼクトには直接会ったことがあるが、その時は人に化けていた。何故そうするのかと尋ねると、その方が喰らいやすいからだ、お前もその為に人間に似せているのだろう、と答えが返ってきた。
ゼクトは人や動物を喰らう自然霊で、喰らう対象に化けて近づき襲い掛かる狡猾な霊だった。生物を糧として喰らうのは仕方ないとは思っても、シュウはそのやり方があまり好きではなかった。そしてシュウは最初から人型の霊なのであって、人に近づくために人型をとっているわけではない。
「……そいつは厄介そうだな」
『ゼクトは五年前に稀人の右脚を喰らって、稀人に逃げられたことを相当に悔しがってた』
「ターニャじゃなくてそっちの稀人を捜してる可能性もあるってことか……多分それうちの修道士なんだよな、その稀人」
ルカは舌打ちをする。
『そうかもしれない、でもどうして今年だけ進路が違うんだろう。それが妙だ』
ターニャが狙われないならそれでよし、という話ではないのだ。ゼクトが襲来するとなると都市レベルで巻き込まれてしまう。
「何の話してるの? お腹すいたからごはんにしよ」
サルビアの絶叫を聞いたからか、部屋着に着替えたターニャがひょいとリビングに現れた。
「何かあった?」
「いや、なんでもない」
事態の深刻さを知らないターニャにルカは話を切り出すことができなかった。今日は特に客が多くて疲れたのだろう、伝えるのは今日でなくてももいい、とシュウが一言添える。
「そうだな、夕飯にしよう」
ルカは鍋をかき回しながら、隣で配膳を手伝うシュウに小声である提案を持ちかける。
「お前、ゼクトの低気圧を散らしたりとかできない?」
『できないことはないけど、わざわざ間接的に宣戦布告をすることになるよ? ゼクトは強いし、まともにやり合ったらこの町は吹き飛ぶと思う』
自然霊の霊族長二体が本気で戦闘を繰り広げるとなると、その被害は想像もつかない。
「そうなるのか。でもこの街をあれが直撃しても、多くの死者が出ることになるんだ」
ゼクトの気圧を緩和させることができるのは、同じく低気圧を制御しゼクトより格上の霊力を持つシュウくらいのものだ。誰がゼクトの邪魔をしたか、ゼクトのみならず他の霊たちにも知れ渡ってしまうことになる。ルカは安易な発想だったかと反省する、しかしこれ以上の被害は許容できなかった。ライザ修道会のいち修道士として、そして人間としてもだ。
霊は概して執念深いものだ。その狙いがターニャであるにしろ、ライザ修道会の修道士であるにしろ、稀人を狙うと決めた霊を説得して諦めさせる、などということはほぼ不可能だ。
「というわけで、日帰りの登山に行きたいんだけど……色々とツアーがあってね、ガイドブックを明日買いに行こうと思っているんだー。でね、でね……」
食事中、楽しそうにルカに登山の計画を話すターニャを見たシュウは、ターニャのささやかな楽しみを台無しにしたくはなかった。ゼクトがターニャの住む街に到達する前に、先回りして無人の広い場所でゼクトと対峙するしかない。そう心に決めた。それが穏便な対話であれ、どうであれ……。
この街でじっとしていることは、ターニャにとってもこの街の人々にとっても悪手なのだ。シュウは人間の味方ではないが、ターニャの味方ではある。そして彼女が悲しむ顔は絶対に見たくないのだ。
いつからだろうか、シュウは義務感からではなく心からターニャを守りたいと思い、同時に彼女を悲しませたくないと思うようになっていた。そんな心情の変化に、彼自身はあまり気づいていない。
『僕ひとりで、これからゼクトに会ってこようと思う』
ターニャがベッドルームに入るのを待って、シュウは雪霊としての半透明の白衣に着替えルカにそう告げた。窓を開けて、今にも飛び出していかんばかりだ。ルカは早まる彼の首根っこを全力で抑えながら
「何を言ってるんだ。お前は自然界から追放されてるんだぞ、いきなり襲われるのがオチだ。それにまだゼクトの仕業だって決まってないだろう」
『少なくともゼクトは、追放された後も僕に敵意をもってはいなかった。ゼクトじゃなければそれでいいし、安心して帰って来るだけだ』
そして彼の単独行動は、客観的に見れば修道士が自然霊の逃亡を許していることに他ならない。シュウに限ってそれはないと分かってはいるが、その状況ではついてゆかざるをえない。
「まあ私にもお前が逃げないように一応使役者としての監督責任があるんだ。お前が行くなら、私も同行する。だから五分待て、支度をするから」
『ターニャを一人でおいておくのは危険だ、僕だけで行ってくる。人間を伴わずひとりで行けば、うまくいくかもしれない』
単独で行動しようとするシュウが、一体何を考えているのか。
それは使役者であるはずのルカにもさっぱり読めなかったが、彼には腹案があるようだった。
HUCとインビジが終わるまでこちらを中止しようかと思っていましたが、また再開してゆこうと思いますのでよろしくお願いいたします。