第21話 午後7時30分の生存限界
その頃。
ルカは購入したばかりのノートパソコンを嬉しそうにセットアップし、必要なソフトを次々とインストールして自分で配線しインターネットに接続できるよう環境を整えると、精霊対策協議会(ICNS)のホームページにアクセスしていた。彼は修道士となる前は理系人間らしく、家電や機械が好きで、家電量販店で何も買わないのにパソコンやオーディオのコーナーに数時間は居座れるタイプだ。今回パソコンを購入するにあたって、店員にうざったく思われながらもパソコンを買うのに数時間悩み、値段交渉のすえ10%のディスカウントに成功して上機嫌だった。
このネットワークはICNSに登録している世界中の霊能者たちの情報交換の場であり、一般人からは見えない非公開ネットワークである。会員数は全世界で4万人ほど。ルカは修道院を出る際にマリア=クレメンティナからIDとパスワードをもらっていたので、オンライン環境さえ整えばいつでもログインでき、自然霊に関する情報を収集できたのだが、予約をしていたパソコンが電気屋に入るのが存外遅くてこの時期になった。
彼はログイン後、監視指定自然霊リストという項目をクリックする。第18位であった自然霊シュウのデータ入力フォームから、メモを見ながらデータを再入力しエンターキーを押す。すると、シュウの新たなデータを受けてランキングが大きく変動した。雪霊 シュウがランキング第三位に割り込んだかたちだ。
「精霊対策協議会でSSランクに格上げになったよ。ブルータル・デクテイター、フレームラインの次だ。このぶんだと、アルトラがきても大丈夫かもな」
精霊対策協議会のランクは頻繁に査定される。人に災害を与える霊たち、つまり人間に屈服していない自然霊たちは各国宗教団体の持ち霊たちからの情報によって査定されるが、シュウのように一度人間側の使役霊となってしまうと使役者、つまりルカが責任をもって霊のステータスを測定しその数値を精霊対策協議会に報告する義務がある。測定基準は規格化されており、簡易測定器によって測定された結果をそのまま反映するので正確だ。
『アルトラの怖いところは、大規模地震を起こすとこだよ。実力云々の問題じゃない』
「ああ、わかってる」
シュウは人間社会の霊の格付けランキングで格上げされることをあまり光栄だとは思っていないらしかった。幸いにしてターニャはアルトラにはまだ遭遇していない。それはルカがターニャの借家に張り巡らせた不可視化結界によるものかもしれないし、徹底して夜間外出を控えていることや、単純に彼女の運がよかったからかもしれない。
シュウはランキングにざっと目を通して使役者の項目が気になった様子だ。シュウの使役者はルカ=ヴィエラとなっている。間違ってはいないのだがそれは偽名に近く、本名ではない。
『使役者の名前って、洗礼名でも認められるんだ……。ルカの本名ってなに?』
「もう使わないから、ルカでいいんだ」
本名を捨てたライザ修道会の修道士は、二度と俗世には帰れない。彼が本名を必要とする機会はほぼないといっていい。ふと、シュウは彼の名を知りたくなった。
『名前知りたい』
そういえばシュウにも本名がないんだったな、とルカは興味深く思う。由来を調べても特にそれらしい記述はないのだが、彼は一時期を境に何故かシュウと呼ばれるようになった。キリクの街の伝承と因縁があるらしいが……。
ルカは教え渋る必要もないよなと、素直に名乗る。霊との信頼関係が第一だ。
「ルードヴィヒ=クルーセ(Ludvig=Kruse)だよ」
ルカの本名はいかにもデンマーク人らしい名前だったんだなあ……とシュウは感心する。知ってどうということもないが、彼は満足した。
「アルトラとはこのままずっと遭遇しなければいいんだがなあ……」
ルカが無駄なことを言ってみる。たとえ数週間はやり過ごせても、一年も二年も遭遇せずにいることは難しい。アルトラはターニャただ一人を狙っているのだから、いつかは避けて通れない戦いが待っている。
「んー……、こちらが先にしかけるか?」
『どうやって? アルトラがどこにいるかもわからないのに?』
アルトラはキリクの街のどこかに潜伏しているものと思われるが、警戒心の強い霊で、気配を消している。ブルータル・デクテイターとの鉢合わせを恐れているのかもしれない。
「やるなら早い方がいい。今はアルトラ一体を相手にすればいいが、そのうち続々霊が集まってきそうだからな。ただ、作戦と準備は整えてからでないと。お前、手伝ってくれよ」
というか、シュウの助けがなければアルトラの調伏など不可能にも近い。
『慎重にいこう。ちょっと間違ったらこの街ごとマグニチュード9とかで壊滅しちゃうし』
広域に大地震を起こしうるアルトラの調伏には細心の注意が必要だった。さしあたり、場所を選んで聖符でトラップを張り巡らさせ、アルトラの自由を奪わなければならない。
『っていうか、ターニャ帰るの遅くない?』
二人はふと、壁掛け時計を見上げる。
時刻はすでに午後7時をまわっており、とっぷりと日が暮れている。いつものターニャならば午後7時には家に戻って夕食を作るか、テーブルの上を片付けたり拭いたり食器を並べたりする。今日はルカが食事当番なのでルカが作る番なのだが……。
『ちょっと外見てくる』
シュウは赤いセーターとズボン、ソックスを脱いで簡単に畳んでソファの上に置き、いつもの白衣に着替えると二階のリビングの窓を開けて夕闇の空に飛び出していった。霊体はすぐに不可視化され、夜の街並みに溶け込んで消える。
ターニャのこととなるとあんなに必死になって……とルカは微笑ましい。ここ最近のことだが、シュウはターニャのことを恩人以上に思いはじめているようだ。言葉の端々に彼のターニャに対する思いやりと好意が見え隠れする。そしてターニャもシュウを、以前にもまして気遣うようになった。精霊が人を好きになるものなのか、と心理学的に疑問に思うがシュウが彼女を好いているのは明らかだ。彼の身長は既に155cmに達していた。成長に合わせて、霊でも思春期なるんだろうかね?
どこかでシュウの成長を楽しみにしている、ルカであった。
「やみくもに捜しに行くより電話をかければいいのにな。てか、寒っ!」
ルカはシュウが開放していった窓をきつく閉めながら、携帯電話でターニャに電話をかける。ルカの持っている携帯は修道院から支給されたものだが最新型で、薄い。激しい戦闘に耐えるようにか、衝撃に強く防水性のある日本のメーカーのものを支給されている。
5コール。
6コール。
…
12コール。
出ない。
ターニャが電話に出ない。どういうことだ?
ここ、ターニャの借家からアルバイト先のベーカリーまでは徒歩で通勤できる距離なので、電車やバスなど公共交通機関に乗っていて電話がとれない、という線はない。ルカの表情が険しくなり笑顔が消えた。
「おいおい……心配させないでくれ。中年の心臓に悪いんだから」
ルカもまた、白いセーターの上から漆黒の修道服をすっぽりと着込むと、腰縄をきつく締め静杖を握り、先ほど書き上げたばかりの聖符をまだインクも乾かないまま鷲掴みにし、法具が詰め込まれた斜めがけの皮のバッグに押し込むと、黒い疾風となって借家を飛び出していった。
*
アナスタシアにサルビアのことを根掘り葉掘り訊かれていて弁解に必死になっている間に、すっかり帰宅が遅くなってしまった。街にはまだクリスマス休暇前とあって人々の往来があるが、すでに街頭が灯っている時間だ。25歳にもなって、ターニャの門限は7時半。ただしこの門限を破ると命にかかわるので、ターニャも緊張感をもって足早に夜道を歩く。
道端には先日シュウの降らせた残雪があるがそれも氷点下15度の気温に凍りつき、踏みしめるとザカザカと音を立てる。霜を踏み、鼻水も凍りそうな白い息を吐きながら早足で歩く。温帯を活動域に持つサルビアは凍てつく冬のキリクの街に耐えられず、ターニャのマフラーの下にもぐりこんで顔すら出さない。マフラーの下から声が聞こえてくる。
『遅くなっちゃったから二人が心配するね』
サルビアは日が暮れて、霊の活動時間帯に差し掛かったことを懸念している。ルカとシュウが幾度となく日没後の行動を控えるようにと念をおしていたというのに。シュウは心配するだろうし、ルカはターニャを叱るだろう。だが、その責任の大半が自らにあることを自覚しているサルビアは、彼らにどう弁解しようかと思案しているらしかった。
アップルパイを食べて口の周りに粉をつけて見つかった、などとは……正直に話すしかないが、恥ずべき大失態だ。また、彼女は本来日没とともに眠りにつく霊なので、眠気に襲われているのか口調が間延びしている。今日もルカのベッドでぬくぬくと眠るのだろう。
「二人って何?」
あ、まずいまずい。サルビアの声がアナスタシアの耳に入っていたようだ。ターニャが一人暮らしだということは既に知られているので、二人というと訝しがられる。ターニャは取り繕う代わりに論点をするりとずらす。
「いい、ナースチャ。さっきからずーっと言ってるけど、このことは絶対に言わないでね。オルガにも言っちゃだめ!」
「言わないよ。だって皆には霊感ないじゃない。もちろんターニャが妖精のサルビアちゃんと一緒に暮らしてるって、他の人には……」
アナスタシアは言った端からぺらぺらと口が滑っている。何食わぬ顔で、悪びれもせず声のボリュームも落とさず口を滑らせるので、ターニャは恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にする。困ったな、アナスタシアって、不思議ちゃんというか天然だからな……。人の口に鍵はかけられないとはよく言ったもので、アナスタシアがつるっと今後も誰かにサルビアのことを話してしまうことは多少なりとも覚悟しなければならなかった。不幸中の幸いといえば、サルビアは誰の目にも見えるわけではなく、いざとなったらアナスタシアの妄想だとトボけていればいいのだが……。
「ほらっ! そういうの! そういうポロっと言っちゃうの気をつけて!」
妖精と暮らしているだなんて……変人みたいじゃないの。サルビアには悪いがそう思う。まあ、家に帰ったら他に精霊も修道士もいますけど。だが周囲には、遂に頭がおかしくなったか病気なのではと、アナスタシアではなくターニャが心配されるのがオチだ。
悩みの種のアナスタシアは、ターニャの横にぴったりとくっついてくる。というか、ターニャに腕を絡ませて身を寄せている。よせばいいのに、どこかのファッションモデルの影響で指先だけしかない赤いフィンガーグローブでキメている彼女はこのデザインの弱点に苦しんでいる。そう、手の甲が寒いのだ。アナスタシアがお洒落なのは尊敬できても……厳冬のキリクの街でその手袋はいただけない。と思いつつ、真冬なのにスカート丈の短いターニャなのであった。
ターニャとサルビアにとって運が悪かったのは、アナスタシアとは帰り道が途中まで一緒だということだ。ターニャの借家の手前の十字路前で別れる。その距離になったらシュウが心配して、家からひょっこり出てたり……してそうだから困る。何か適当に用があるといって、このあたりで別れようか……。ターニャが思案していた頃。
ぞわっ。
ターニャは外気温の寒さではない、いい知れぬ悪寒を感じた。体の芯に突然、ドライアイスでも突っ込まれたかのように。そう……何か超えてはいけない一線を越えてしまった。見えない壁を突破して、中に入ってしまった。そんな感触に襲われた。
「やだっ! ……何か気持ち悪い」
『ターニャ。他の自然霊の領分に入っちゃったよ!』
不穏な気配を感じ取ったのだろう。サルビアがビクンとして顔を出した。しかし、サルビアもサルビアだ。スプライトなのだからもう少し、霊感というかアンテナを研ぎ澄ましておいてくれてもいいものを。
「サルビアちゃん。何でそれ、入る前に言ってくれないの!」
『だっていきなり入ったんだもん!』
サルビアが恐怖で興奮しているからか、甲高い声で逆ギレしている。辺りには急に湿気を帯びた霧が立ち込め、踏みしめていた街路が消えた。霧は不気味に渦を巻いてますます深くなり、霧の向こうに何か朧げに、巨大なシルエットが映じはじめていることに気付く。ターニャはデジャヴを感じた。この感じは……地霊におびき寄せられていたときだ。どこまで歩いても、目的地に到着せず彷徨っていたあの日の薄気味の悪さと、立ち込めた霧の深さが奇妙に一致する。
携帯電話を取り出して確認すると、やはり圏外。前回と同じだ。どうやらこの巨大なシルエットは、あまりよいものではない。
「た、た、ターニャ! なにこれ!」
アナスタシアが小声で叫んでターニャにしがみつく。
「うぇえっ!?」
ターニャはそれを目撃して、身をのけぞった。現れたのは正真正銘、モンスターだ。ターニャがその姿を説明しようとしたら、恐竜ほど巨大な、全長10m、高さ7mほどの爬虫類……としか言いようがない。カッパーメタリック調の硬質の鱗がギラギラと暗闇の中を不気味に輝いている、太腿は筋肉に覆われ隆々と、鍵爪のついた逞しい前足。一噛みでもされたら即死を覚悟する尖った牙の並んだ丈夫な顎、眼光は鋭く、後頭部はイガイガとした突起で覆われ、たてがみのように背部に続いている。博物館などで見た肉食恐竜に近いルックス。
どこのナイトミュージアムから逃げ出してきたの! とおどける余裕もない。アナスタシアを見ると、さすがに先ほどのビブラートつきソプラノの悲鳴も出せないらしい。いっそアナスタシアのソプラノがソニックキャノンほどの威力だったら、超音波攻撃をしてくれたら嬉しいのに……と、現実逃避をしている場合でもない。
こんな感じのモンスターをフィールドに捕まえに行くアドベンチャーゲームをターニャは最近やった気がするが、リアルにモンスターハンターではないから本当に勘弁してほしい。素手でこんなのと戦えないし。絢爛豪華でご立派な肉食恐竜もどきの血走った黒い瞳に、ターニャ、アナスタシア、そしてサルビアはぎろりと見下ろされていた。ぬっと、ターニャの上に影が落ち、彼女らはゴクリと唾を飲む。
今すぐにごめんなさい!! と言いながら走って逃げたいのだが、逃げるべき方向が分からない。それに後ろを見せてはならないような気がした。モンスターの迫力のある顔がターニャの真横に近づく。巨大な瞳で見据えられ、牙の間から漏れる吐息がかかると、三人とも竦みあがる。
『どちらが稀人だ?』
ざらついた耳触りな声で、先の割れた舌で舌なめずりをしながら、モンスターは問いかけてきた。その外見からして話しかけてくるとは思わなかったが、どう考えても餌以外の何者でもなさそうなサイズの人間二人に、どちらが稀人かと問う。稀人の気配を感じ取ってやってきたのだ。
ターニャは薄々勘付いていた。この結界のような場所から逃れるには、このドラゴンを何とかして斃す以外に出る方法はないのだと。前回は偶然ウォルターが傍にいて、ターニャをストーキングしてくれていたから助かった。ターニャはアナスタシアと顔を見合わせる。アナスタシアはガタガタと大きく震えながらターニャにいっそうしがみ付く。
『わからない場合は両方喰うが、余分なものは喰らいたくない』
カッパーメタリックのドラゴンは尚もどちらが稀人か問いただす。ターニャもサルビアもアナスタシアも一口で丸のみにできそうなサイズの口だが、稀人以外は含みたくないという意向だ。アナスタシアが先にかじられてはいけない、追い詰められたターニャは名乗り出た。
「わっ……私よ!」
これは……状況からして言霊を使うことは避けられまい。
ターニャはウォルターの言いつけを破る、その覚悟を静かに決めた。