第20話 ソプラノ悪魔とアップルパイからはじまる悲劇
「ねえ、サルビアちゃん」
ターニャは視線をパン屋のレジに固定したまま、誰にともなく呼びかける。客足が途切れ、ベーカリーの店内には誰もいないことを確認したうえの一人ごとだ。
『うん?』
桜色ドレスに桜色の髪の毛をした、人形のように愛らしい体長30cmほどのスプライト・オブ・ブロッサムがターニャの声にふりかえる。彼女は噴水前に行き倒れていたときはピンクのドレスを着ていたが、ターニャの趣味で、家ではおもちゃ屋で買ってこられた白いドレスを着ていた。ターニャがかわいがってあれこれお洒落をさせるのもまんざらでもなさそうで、ベールのついたシルクの帽子が家でのお気に入りなのだが、パン屋では姿が見えては困るので、もともと纏っていた霊衣であるフリルのついたデフォルトの桜色ドレスを着ている。
「レシートって、何枚だった?」
『128枚だよ。今日はお客さんが多かったからね』
彼女はうんしょ、とレシートの束を抱え上げると、ターニャに耳をそろえてそれらを手渡した。彼女は小さいが有能な秘書だ。四則演算はもちろんのこと、ペンを持って書類にサインをしたり、なんならそこらへんの有名オフィスで事務一切任せても問題なさそうだった。
「よかった、また会計あってる! サルビアちゃんのおかげね」
『へへー』
客に目撃されると一大事なシュウに代わって、ターニャのアルバイト先にはサルビアが来るようになっていた。サルビアがパン屋に来るようになった主な理由は、ターニャのバッグの中などに入ってパン屋に来ている間に、そこが常春のように温かいということに気付いてしまったからだ。
ターニャはスイセンの鉢をレジの横に置いて、サルビアはその鉢植えに暖をとるように腰掛けて客を見ている。また、店内には切り花を活けた花瓶がそこかしこに置かれていて、全体的にフローラルな雰囲気に、彼女も居心地がよさそうだった。時折霊感のある常連客が桜色ドレスの妖精の姿を目撃しても、サルビアは空気を読んでポーズをとりすまし顔をする。せいぜい、店に飾られた人形程度にしか思われていない。
サルビアが子供、特に女の子に見つかった場合は大抵いじくりまわされる。ターニャは人形に扮するサルビアが子供の手によってどこかに投げつけられないことにこそ気をつかったものの、性格おおらかなサルビアは子供の手を不快だとは思わないらしかった。そして大抵の場合、あら、かわいらしいこと! と、常連客には褒められることが多かった。
なんならターニャの家の暖房代も節約できて一石二鳥。しかもサルビアは意外に頭のよい霊らしく、客の目を盗んでターニャのレジの会計を手伝ってくれる。ターニャはなにかとおつりを多く渡しやすいので、目を光らせておいてくれるのだ。特に最近は、シュウの出自を知ってしまって彼をどうにかできないかと、余計に考え事が多くなってしまってミスをしがちだった。それにサルビアはいちはやく気付いて、ミスを未然に防いでくれる。
「はい、これ今日のお駄賃ね」
ターニャは一片のアップルパイをサルビアに手渡した。それを心待ちにしていたサルビアの表情がぱっと明るくなる。
『わあ! まってましたあ』
彼女は喜んで、彼女の身長にするとかなり大きなパイにむしゃぶりつく。サルビアは人間の血液のみしか口にできない生粋の精霊のシュウと違って、何故かパンやお菓子を食べることができ、特に甘いものを好んだ。ルカいわく、花の蜜を主食としたまに果実を食べていたサルビアは、炭水化物を消化する能力があるので雑食なのではないか、ということだ。霊の食事情もまちまちである。
というわけで新作の甘いパンができると、ターニャはついつい、かわいいのでサルビアにも味見をさせてやる。それがまた、サルビアがパン屋に居座ることになってしまった原因だ。
「ターニャ。お仕事ご苦労様!」
「ナースチャじゃないの。今日はどうしたの?」
ドアが勢いよく開いて、スタイル抜群の白人美女、アナスタシア(Анастасия)が店にやってきた。アナスタシアは美しいブロンドのストレートロングヘアで、現代風の美人だ。瞳はほれぼれするほどのスカイブルー。アイボリーのミリタリーコートを纏い、白いフェイクファーを首に巻いて、赤いブーツといういでたち、ターニャが密かに見習いたくなるほどファッションセンスも素晴らしい。芸術家だからか、いつもヘアアレンジをかわいらしく決めている。今日はゆるい編みこみでサイドアップにしてふわりと散らせていた。
ちなみにアナスタシアの愛称はナースチャであって、ターニャはアナスタシアをナースチャと呼んでいる。
「どこに売ってたのこの人形! 超かわいい!」
ナースチャはレジを見るなりサルビアを抱え上げて、かわいい、かわいいとやっている。そういえばアナスタシアがサルビアを目撃するのは今日ではじめてだ。サルビアは眉目秀麗で、薄い桜色のウェーブヘアとピンク色の大きな瞳のフェミニンなルックスをした美霊だ。かわいいもののに目のないアナスタシアの興味を引くのは至極当然……ターニャの心拍数が一気に跳ね上がった。あれ……アナスタシアってたしか霊感なかったんじゃ……。
「ほらー、顔とかまるで生きてるみたい……って、あれ?」
ふとアナスタシアの表情が凍りついた。ターニャも恐る恐るアナスタシアに尋ね返す。
「ど、どうしたの?」
「口の周りにパンの粉、ついてるけど。やだ、まるでこの子がパンを食べてたみたいじゃない……」
ターニャは慌ててサルビアの口からアップルパイの粉をぬぐった。アナスタシアが猛烈な勢いで入ってきたので、サルビアはアップルパイのくずを口元から払うことができなかったとみえる。サルビアは人形に扮して、微動だにせずやり過ごそうとしている。
「そ、そんなわけないじゃないのー。レッスンで疲れてるんじゃない? ナースチャってば」
音楽大学の女子大生であるアナスタシアは、冬休みの間レッスン室に閉じこもってここ数週間、日曜以外は根を詰めてピアノと歌の練習していた。冬休み明けに大学のオペラサークルの定期公演があるのだ。ターニャも毎年、公演にはチケットをもらっていくが、アナスタシアのソプラノはまさにプロ顔負けで演技力も素晴らしいものだ。しかも今年の彼女は、主演が決まっている。
そんな彼女に何故突然サルビアが見えるようになったのだろう?
「それにこの人形、ちょっと透けてるんだけど」
「!?」
あー……しまった。こりゃアナスタシア、完全に霊感が備わってるわ。
彼女はついこの前、シュウが店にきていても素通りして見えていなかったと思うが……何故だろう。ルカいわく、一般人でも一人で過ごすことが多くなると霊感が強くなる場合がある、とのことだ。アナスタシアは一人でレッスン室に閉じこもっていて、霊感が強くなってしまったのだろうか。ターニャは決定的な証拠を突きつけられて言い訳に困った。
「…………ねえ、ターニャ。この子って霊なんじゃない?」
「な、なんでそう思うのかなっ!?」
アナスタシアに大接近されて問い詰められるとどぎまぎして、声がうわずってしまう。思わぬところからボロが出てしまったものだ。まさかアップルパイで命取りとなるとは! ターニャは完全に油断をしていた。
「じゃ、じゃーん!」
彼女が赤いエルメスのバッグの中からこれ見よがしに取りだしたのは、ミネラルウォーターのラベルのついた瓶だ。
「なにそれ、水?」
ちがーう! と言ってにやり、と子どもっぽく微笑むアナスタシアはえくぼがかわいくて、常日頃ならばターニャでなくとも愛らしいと思うだろうが、この時ばかりはその微笑みがまさに悪魔のように見えた。小悪魔といった愛嬌のあるものではなく。
「これ、エウルヴァナ大聖堂の超由緒正しい聖水! これでちょっと確かめてみない?」
「何でそんなの持ってるの!!」
アナスタシアのオカルト・ファンタジー好きを甘く見てはいけなかった。彼女は日夜、オカルトグッズの収集に余念がない。ドリームキャッチャーなど一般的なものからメルヘンなチャーム、ホーリーグッズ、果ては魔方鏡など黒魔術的なもの、呪文集まで何でもござれだ。そういえばつい先月のことだが、彼女は友人らと6泊7日のイギリス旅行に行っていた。魔女と妖精とファンタジーの国からどっさりとオカルトグッズを仕入れてきたようで、彼女の不思議っ子っぷりも以前よりエスカレートしたような気がする。
「私、実は一週間前からレッスン室に兵士の霊が見えてね。それで怖いから聖水持ち歩いてるんだ! おかげでレッスン室の霊はいなくなったんだけど。霊だったら効きそうじゃない?」
何でレッスン室に兵士の霊が出るかな……そして何でアナスタシアも霊の見えるレッスン室を変えるのではなく、果敢にも霊に挑んで聖水で除霊しようと思うかな……と、ターニャはアナスタシアの一風変わった趣味を恨めしく思いながら、サルビアを彼女の腕から奪おうとした。アナスタシアに囚われたサルビアは視線でターニャに助けを求めている。
「いいじゃない、ちょっと試してみるだけで」
アナスタシアはサルビアを片手に抱えたまま聖水の入った青い小瓶のキャップを取った。シュルッ、と金属のキャップがガラスと擦れて開く音がする。その音に、哀れな花霊は爪先から毛先まで震えあがっている様子が、サルビアから少し離れたターニャにもはっきりと分かる。
『やっ……ん!』
サルビアは遂に恐怖に耐えかねてもがきもがき、アナスタシアの腕を小さな裸足で蹴ってぴょんと飛び跳ね逃れて、ターニャに飛びついてくる。ターニャが片手でサルビアをキャッチしたとき、
「きゃ――ぁあぁあぁあ―!!!」
アナスタシアの絶叫がベーカリー中に響き渡った。ある種、彼女の悲鳴は超音波兵器だ。
「やめて! 静かに! 静かにしてっ!」
ターニャは悲鳴を上げるソプラノ歌手の口を全力で抑えにかかる。彼女は声楽をやっているだけあって、腹の底から響く悲鳴を発するのだ。若干ビブラートがかかっているような気がするのは気のせいか?
「た、ターニャー! なにごとー!?」
店の奥からおかみさん、オルガ(Ольга)の驚いたような声が聞こえる。アナスタシアがサルビアに驚いて大声をあげたからだ。
「ちょっとナースチャが発声練習してただけ!」
「防音の音楽室でやったらどうだい、ナースチャ! 悲鳴かと思ったわよ!」
いや、うん。あってる。
ナースチャの悲鳴であってるよオルガ……ターニャはオルガが出てきてさらに話が混乱しないようにアナスタシアの悲鳴を遮って正解だった、と胸をなでおろす。アナスタシアはピンクの人形が突然動いてターニャに助けを求めて飛び出したので頭の中がぐるぐると混乱している。ピンク色ドレスの彼女は彼女でターニャの首にかじりつき、必死にアナスタシアから離れようとしている。
「ど、ど、どういうこと!? 今、逃げたよね!? まさか本当に霊だったの!?」
『ひーん……聖水やだぁ……』
サルビアはもう、まともに隠れることも忘れて火がついたように泣きべそをかいている。愛らしい瞳から涙が真珠のようにこぼれおちる。ルカに聖水をかけられそうになってからというもの、聖水という言葉を聞くだけでも彼女のトラウマとなっているのだ。ようやく最近は落ち着いてきたと思っていたのに……。
繰り返すようだが、サルビアほど弱い霊だと聖水をかけられただけで一瞬にして蒸発する。シュウにとっての聖水は少々やけどをする程度だが、サルビアにとっては致命的なのだ。
「いいからしまってそれ! この子のトラウマなんだから!」
「この子? トラウマ?!」
アナスタシアは唖然としていたが、しばらくすると当然のようにサルビアに興味を示し始めた。同じ霊でもアナスタシアが最初に遭遇した兵隊の霊と比較すると恐怖心もわかないものだから。それにサルビアはアナスタシアが特に好きな、妖精のような外見をしている。妖精、精霊などのファンタジージャンルにめがないアナスタシアである。そっとしておく、などという言葉はそもそもない。
「でもかわいー! 妖精みたい。このおばけ、何でターニャになついてるの?」
アナスタシアがサルビアに手を伸ばそうとするたび、ターニャは彼女の手の甲をぴしっと払いのける。ターニャの首の後ろに回ってサルビアが怯えているので、ターニャはサルビアに赤いスカーフごと首を絞められて若干苦しい。
「いき倒れてたから、家に連れて帰ったの」
『幽霊じゃないよ! スプライトだもん!』
あーもう、今そここだわらなくていいから黙ってなさい! と言いたいが、サルビアは興奮している。アナスタシアが促されて聖水の瓶に蓋をするとようやく、サルビアも我に返って落ち着いてきた。サルビアからすれば安全装置の外された銃口をつきつけられていたようなものだ。
サルビアは気が立っているが、アナスタシアはまいあがって頭から湯気が出そうだ。この場合、サルビアの正体を名乗った時点でアナスタシアは家に連れて帰ろうとするだろうなあ……ターニャは困惑して。
「え、喋れるんだ! なーにそれ名前? 炭酸飲料みたい」
スプライトからイメージするものが炭酸飲料になってしまうあたり、アナスタシアの思考回路もターニャと同じだ。
「ターニャって、野生動物だけじゃなくて霊まで拾ってくるのね」
本当はもっとアナスタシアの興味をひきそうな雪霊シュウも拾っていて、彼はいまターニャの家で修道士ルカと留守番をしていると言ったらもう、アナスタシアはすぐにでもターニャの家に突撃してこようとするだろう。しかも悪いことに、アナスタシアと仲の良かったターニャは家に招いたことがあって、彼女はターニャの家を知っている。
だが、この場をやり過ごしたとしても家に押し掛けてくるのも時間の問題だな、とターニャは渋い顔をした。
仕事中に霊にアップルパイを与えた自分が悪かったのか、とターニャはがっかりだ。