第1話 行き倒れが少年霊だった件
暮れも差し迫る十二月、ターニャ(タチアナ=セルゲーエブナ=サヴィン)は街の外れの古い煉瓦造りの一戸建ての家を借りて住んでいた。
25歳独身、女性フリーフォトグラファーだ。白銀の大地に魅せられ、冬になると雪原の景色を求めてどこへでも赴いた。白色の毛皮に包まれた野ウサギや鹿、梟の姿はいつも彼女を誘惑し、深追いしたために凍傷になりかけた事もあった。
大変な苦労のもとに撮影された彼女の写真は、お世辞にもあまり売れなかった。
売れなければ売れるような写真を撮れ。
それが出来ないでいつまでも自分の道にこだわっているのは道楽だ、と毎年両親に言われるのは耳がいたい。田舎に帰って写真館でも開いてはどうかという誘いもあったが、彼女はおあいその人付き合いが苦手だった。
むずかる子供をおもちゃで笑わせ慌ててシャッターを切ったり、決まりきった構図で新郎新婦をならべて結婚式の写真をとったり。そんなのはどうも性に合わないらしい……。
プライドもあって、もっぱら野生動物専門フォトグラファーと名刺には大層に書いてあるが、実情はフリーターとあまり変わらないことを、ここ数年は気にしている。
雪原の動物達は夜行性のものが多く、そうでなければ早朝の撮影が多い。
昼間は食いつなぐためにアルバイトをしてすごす事が殆どだ。手先が不器用な方だが、実家がパン屋だったことで、パンだけは何とか人様に出せるような物を作ることができた。パン屋でアルバイトとして雇ってもらい、今日まで食いっぱぐれずにやっている。
写真家で身を立てるなど、夢のまた夢。
その日は給料日だったので夜遅くまで働いてようやく仕事も終わり、閉店間際の惣菜屋で晩のおかずと牛乳を買った。
「あれ。おばちゃん、また牛乳高くなった?」
「ごめんねえ、物価が上がってるからねえ」
なんだかんだでさえない気分のまま帰路につく。
例によって、今年もドカ雪。北国の人間にとってはうんざりであるが、ブーツにも雪が入ってくるし、パンツは毎度のようにずぶぬれとなると、彼女はいっそのこと、いつもスカートを穿いていた。
傘など役にも立たずすぐにコートが真っ白になってしまうし。
「はー、いつまで続けるんだろ、こんな独身生活。クリスマスも近いってのにさあ……」
以前と比べて、独り言が多くなっている気がした。
12月11日。もうすぐクリスマスだというのに、今年も去年と変わらぬ生活。彼氏を作るか、実家に帰って親孝行の一つでもしたほうがいいに決まっている。街の明かりも寂しくなってきた我が家への小道を急いだ。
空は雪雲で覆い尽くされ、グレーの緞帳が重たく垂れ下がっている。借家の辺りには人気がなく、明かりは殆どない。それが写真をやるには気楽な環境でもあり、勿論彼女が望んで借りた借家なのだが、今日ばかりは身も心も冷え切っていつになく寂しい。
彼女は玄関前に屋根から落ちた大量の雪が小高く積もって玄関がつぶれているのを見ると、仕方なく勝手口へと回った。鍵束を取り出し、暗闇の中鍵穴を手探りで捜す。
真後ろから物音がしたのは、そんな時だった。
聞きようによれば雪がほんの少し崩れ落ちたような、そんな些細な音だったかもしれない。が、気配は彼女の真後ろから動かない。動物だ。こちらを覗っているというよりは、むしろ動けずに身を潜めている、そんな雰囲気。
「え……何、今の音?」
彼女の息は凍え、すでに頬も紅潮していたが、頭は逆に澄み渡って穏やかでいる。雪のどっさりと入ったブーツを後ろに引き、いっそ全身で振り返った。
それがターニャと彼との出会いだった。
彼は暗闇の中、僅かにほの明るい雪の上にじっと横たわっていた。彼女は持ちものを全て手放し落として、それらは雪の中にすっぽりと埋まって見えなくなった。
彼女の息が止まる。シャッターを切る一瞬のあの緊張感の前のように。彼女の瞳は開く限り開かれて、この出会いをしっかりと、眼という最も近しく信頼に足る、レンズにおさめようとしていたのかもしれなかった。
「わー……なんだろこれ」
彼の身は透き通って見えたが、輪郭は明瞭だ。
彼の青白い肌は、彼女が死にそうになって見た北極のオーロラか、それとも深海に置き忘れられたパールのような儚さを映している。青銀色の毛髪は短く透き切れている。彼の全身を俯瞰すると、なるほど少年のようではあるが、どの少年に純白の布を着せ掛けても彼のようになる子供はいない。
よく見ると、腹部には水銀のような液体が纏わりついて、そのせいかひどく衰弱しているように見えた。瞼はゆるく閉じられ、薄青い口唇は喘ぐように開かれている。彼女は感嘆の溜息をつき、その息は白煙となって散る。
気づけばそっと語りかけていた。
「……はじめまして、シュウくんだよね?」
返事はなかった、彼は衰弱していたからだ。この時彼女は、彼がこの街の人々の言うシュウという少年だと決めてかかっていたので、親切な少年だというイメージが先行してしまい、警戒心もない。
返事がないので一歩ずつ彼に歩み寄り、肩をそっと揺さぶってみた。彼に触れると指先が薄氷をはり、凍えるように冷たく、とても長く触れてはいられなかった。
老人から伝え聞いたとおりだ。
「ちょ、ちょっと失礼します。目を覚まさないでよね!」
身体を動かす度に腹部の水銀のような液体が溢れる。注意深く腹部の白布をめくってみると、みぞおちの脇に大きな傷があった。彼女はそれを見て狼狽し、ただその場に立ち尽くし、銀色に濡れて凍えた指先を見つめていた。銀色の液滴を指先ですりつぶすと、皮膚に吸い込まれて消える。
「なに、血?」
彼女はその場でいっそ悲鳴を上げたかったが、大声を出したところで誰も来ないのではないかという不安、そして彼女の声に驚いて彼を目覚めさせてしまうのではないかという恐怖が入り混じって、声を上げることもできない。
大騒ぎをして、衰弱して動けない彼を大勢の人目に晒す事は惨い仕打ちかもしれないと、付け加えて思った。少年はいつでも吹雪の中に生死をさまよった人々に救いの手をのべてきたというのに、彼が死ぬ目をみているときに騒ぎ立てて彼を辱めるようなことは、先人たちが彼から受けた恩に対して恥ずべき行為だとも考え。そこで彼女のなすべきことを知った。
「怪我してる。……てかやばくない?!」
迅速に手当てをすべきだ。
できるだけのことを、ひっそりと誰にも知られずに!
病院に連れていけないのが残念だった。
彼女は家の勝手口の鍵を開け、ブーツを脱ぎ捨てて押入れから毛布を引っ張り出してきて、全身に絡む雪をあらかた払い落としてやわらかく包み込み、細心の注意を払って抱え上げた。彼女の手には彼の重さを感じず、毛布にいくらかの加重がかかった程度。
彼女はそのまま勝手口のドアを肘でおし開け、150センチメートル程の彼の身長にはいささか広すぎる彼女のベッドを彼のために譲り、毛布をめくって雪解け水をタオルで身体から拭った。そして淡光の小さなライトを一つだけ灯す。
「まぶしいかもしれないけど、ちょっと我慢して」
部屋の照明を落としてやったほうが彼の目には優しいだろうと思ったのだ。休む暇もなくガーゼと包帯を救急箱に取りに行き、消毒液を腹部に塗布した。よくよく考えると彼はあまりに低温の為化膿をする事はないかもしれないが、念のために消毒は欠かさない。
野生動物写真家として原野を歩き、森林を訪ねると傷ついた野生動物に出くわす事が往々にしてある。その時彼女は自然界の中で生きる彼らにとってはいけない事とは知りつつも保護し、傷の手当てを施してやる。彼の場合姿は人に似ているものの、身体の構造がどこか違うようだったので、野生動物を処置している気分だ。
最善と思われる処置を、あらん限りに施した。傷は深かったとしても傷口が鋭利な物で切られていたので、体力があれば治るだろう。しかし失血により血液が不足した場合に、輸血できるような物はない。それが気がかりだったし、意識がないのも見逃せなかった。包帯を腹部にきつめに捲きつけ、両手で懸命に押さえていた。
アルバイトの疲労もあって、うつらうつらとしかけるたびに気を確かにし、そのうち毛布越しでも手が凍えてきたので片手ずつ息を吐きかけて温めながら彼女は彼の腹部を押さえつづけた。はっと気が付いて起きるともう既に時計は午前2時を回っており、深深とした寒さが背中を蝕むようだ。彼女はその場でもう一枚毛布を被り、つきっきりで片ときも離れなかった。時々嫌な予感がして、彼の顔を覗き込む。
「ねえ、まだ生きてる?」
ひょっとして、もう死んでいるのではないか、そうだ、仮に死んでいたとしても解らない。彼は鼓動をしていないようだったし、血の気などもともとない。まして身体は明らかに零下を下回るような冷たさで、頼りになるのは彼の頼りない命の灯火のような青い真珠色の光だけだった。
目もだんだん冴えてきて、明日になれば彼はどうなってしまうのだろうと考え始めた。太陽の明るい日差しはきっと、彼にとってよくない。伝承の中に、少年が「雪霊だ」と告げていたことを思い出した。太陽が彼を溶かしてしまうのではないか。そうも考えた。しかしその考えは、一笑に付す事ができそうな物でもなさそうだった。
彼女は朝がやってくる前にその部屋の窓に分厚いカーテンをしっかりと引き、光が漏れないように工夫して黒布を追加し、極寒の中クーラーをかける。幸い、暗室にするための暗幕はかなり多めにストックしていた。雪明りすら差し込まなくなった部屋の中でひたすらガーゼをかえ、包帯を捲き、圧迫しつづけ。無我夢中だった。
”もう朝かあ……大丈夫かなあ”
時計を見て彼女はようやく夜明けが来たのだと知る。朝日が差し込まない事を確認し、彼の表情に変化が出たかを窺った。すると彼の表情から苦しさが消え、すやすやと眠っているように見える。彼女はほっとすると同時に力つき、ベッドの下に崩れ落ちて泥のように眠りに沈んでいった。
いつもの時間にセットした目覚まし時計がけたたましく鳴る。
8時だ。
飛び起きて反射的にベルを止め、もう一度寝なおそうとして思い直し、のろのろと起き上がり、彼の容体を見た。ベルの音に眠りを妨げられたのか、彼の瞼がぴくりと動く。
観察していると、今度は立て続けにぴくぴくと動いた。彼女は眠気が一気に吹き飛び、息も止めて喜びに打ち震えた。助かった!
助かってもいないのに、彼女はそう確信した。
彼はほどなく目を開けた。彼女の姿はまだ見えないようで、呆然と天井を見つめているだけだ。しかし首を傾けて彼女の方に視線をやり、目が合うと彼はギクリと硬直した。明らかに身体を縮めたのが解ったし、肩は強ばって可哀想なほどに震え、そう、怯えているのだと痛いほどに伝わってきた。
彼はターニャを見るなり怯えていた。
ベッドの隅ににじっていって壁に背を押し付けて彼女を監視するように、じっと彼女を見据えて動かない。彼の命の恩人とも言える彼女は何故そんな態度をとられるのか納得がいかなかった。
彼女が危害を加えると信じ込んでいるとしか思えなかった。
「だ、大丈夫。何もしないよ。君が怪我をしていたから、手当てをしただけ」
弁解したが、通じていない。ただ善意でしたこと、それだけだ。
傷ついた野生動物は皆一様に人間を怯える。人間には敵意のないものもいるのだと解らせるには容易ではない。彼からの返事はなく、彼女に疑いの眼差しを向けてきた。
じっと値踏みをするような冷たい視線を。
彼女は立ち上がり、両手を軽く広げて何もしないということを示したつもりだったのに、思いがけず返ってきた反応はこうだった。
『うそだ』
彼はそう言った。彼は口など開いていないし、ましてや声など出してもいなかった。返ってきた言葉は彼女の頭の中に直接響いてくるものだった。