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【休載中】Savage Fairytales(外伝)  作者: 高山 理図
第1章 真夜中の御伽噺
19/30

第18話 シークレット・フォトグラフ

 ともあれ、武装修道士ルカと自然霊のシュウがターニャの借家に転がり込んできてからさらに数日が経った。不慣れな生活にも落ち着いてはきたが、ターニャが普段通りの日常を取り戻せたかというと必ずしもそうではない。


 それでも平日は毎朝8時から表通りに面した、ベーカリー“森の小道”(пути леса)でアルバイトという日課はターニャの中で変わっていなかった。このベーカリーは適度に客も来るが客足の緩急が激しく、周囲は古いオフィス街ということもあって、ランチタイムを過ぎるとぱったりと客足が途絶える。


 シュウは昨日からちゃっかりベーカリーの中に潜り込んでいた。ターニャは焼きたてのパンの陳列を終え、レジの中のお金を一枚一枚数えて確認する。平日のこの時間帯はレジもすいて、店主は店の奥に入って仕事をしているのでシュウと雑談をする時間もある。ルカはというとターニャの家でコーヒーを片手に聖符を書いて日中過ごしている。


 勤労を日々の義務とされている修道士が働かないというのもだらしのない話だ。ルカのFOL(法力圏)も晴れて解除されたので、ターニャの借家からパン屋までは1kmほど離れているが、シュウはターニャについて外出することが許された。


 シュウが彼女のパン屋にひとりで訪ねていっても、ルカはとやかく言わない。シュウは特にすることもないらしく、ショウウィンドウの内側から通りの人々の往来を見ていた。そういえば時折ベーカリーに入ってくる常連客は彼の透けた体をすり抜けては、思い思いのパンを選んでゆく。ターニャはシュウの存在に気付かれないかとハラハラしっぱなしだ。


『人はどうして働くの?』


 シュウの様子を気にかけながら帳簿をつけていたターニャに、シュウは哲学的なことを尋ねる。誰に聞かれても返答に困る類の質問を、悪気もなく。働かなくていいなら働きたくないに決まっている。


「生きてるとお腹がすくからだよ」

『僕もはたらいてみたい。ターニャのお手伝いしていい?』


 今日びニートだって多いなかで、積極的に働きたいとは感心な霊だ。しかし彼が既に世界気象の維持という大切な仕事を果たしているという自覚はないらしい。それにシュウが手伝いをしようとパンを陳列してくれると、彼の冷気でたちまちパンが冷えてしまうだろう。それでなくても店の扉の開閉だけで冷めてしまいがちな雪国のパン屋のことだ。


「シュウくんは毎日、みんなの為の大切なお仕事やってるじゃない」

『あれは仕事じゃないと思うよ。だってお金をもらえないもの』

 シュウは首を振る。彼がしていることはどちらかというと、仕事ではなくボランティアというのかもしれない。


「おばけ屋敷で人を脅かせば、遊園地の人がバイト代くれると思うけど」

『おばけやしき怖い』

 シュウは紛れもなく、おばけ屋敷というのはルカと先日訪れたホーンテッドマンションのことだと思っている。事情を知らないターニャは彼をからかった。


「おばけがおばけ屋敷怖いだなんて、情けないの」

『からかわないでよ』


 彼とそんな遣り取りを交わしていると、常連の一人でおしゃべり好きのバクシン夫人(Бакшин)が店に入ってきたのでターニャはシュウとの会話をやめる。バクシン夫人は今日も、お気に入りのミンクの毛皮のコートを着てもこもこと着膨れている。シュウも客が来たときは弁えてターニャに話しかけない。


「あら僕ちゃん、お買い物? こんにちは」


 ところが彼女は、パンでもターニャでもなくシュウに視線を合わせてずいずいと近づいてくる。シュウは何か彼女の興味を引くものが周囲にあるのかと辺りをきょろきょろ見回すが、彼女が手に取りたそうなパンもなければ、ここには僕ちゃんと呼ばれる年頃の子供もいない。


 もしかして、シュウの姿が見えているのかと察した彼はひょいとパン屋の天井に飛び上がってシャンデリアの上に隠れてやり過ごそうとした。それを見て腰を抜かしそうになったのがバクシン夫人である。視力の悪いバクシン夫人はシュウが宙を舞う直前まで、店に買い物にきた子供だと思っていたのだから。


「……って……ギャ――――!」


 絵にかいたような立派な悲鳴を残し、老婦人は持ってきた杖も鞄も放り出してベーカリーを飛び出し、あっという間に走り去って見えなくなった。先ほどはよたよたと店の中に入ってきたのだが、逃げ足はとんでもなくはやい。


 常々足腰の痛みを大げさに訴えていた彼女だったが、あれだけ走れるならまだまだ健脚だなと思いつつターニャが杖の柄を見ると彼女の電話番号が書いてある。


「ちゃんと杖を取りに来てくれるかな。あとで電話かけてフォローしておこう」


 霊を見てしまった以上、気持ち悪くてもうこれっきり来ない、なんてことにもなりかねない。誰が呪われたパン屋に来たいものかとターニャは眉間にしわを寄せ、だんだんと顔が険しくなってくる。


『あのひと、死相が出ていたから今月死んじゃうよ。脳に病気があると思う。杖を取りに来たら病院に行くよう言ってあげて』


 シュウは死相が見えたり死期の近づいた人間がわかるらしく不吉な予言をするが、決して言いっぱなしで終わらない。死を回避できるようアドバイスをしてあげてくれ……だとか、そういう伝えにくい情報をわざわざ教えてくれる。ルカも、彼がここまでおせっかいな霊だとは思わなかっただろう。人助けとおせっかいは線引きが難しいが、シュウは徐々にお節介の部類に入りつつある。


 だって、どうやってターニャがそれを本人に伝えられる? あなた、頭が悪いみたいなので病院に行ったほうがいいですよ、などと。

 ターニャにできることは、せいぜい彼女に健康診断の話題を振ることぐらいだ。


「言ってあげて、じゃないよ! ていうか今日これで4人目なんだけど」

『何が?』

 彼はきょとんとしている。こんなときだけ子供らしくとぼけても、彼は気付いていないわけではあるまい。


「シュウ君がお店に遊びに来てくれるのはすっごくすっごく嬉しいんだけどさ。霊感の強い人がさっきから驚いて逃げてくじゃない。びっくりしすぎて心臓が止まっちゃったら困るでしょ。申し訳ないけど、ここ時給と歩合制の併用だから営業妨害されると私のバイト料にかかわってくるんだ。だから普通の服着て人間の男の子らしくそこに座ってるか、そもそも店に遊びにきちゃだめだよ。あのベーカリー、霊が出るなんてことになったら売り上げガタ落ちだから」


『そんなに身も蓋もない言い方しなくても』

 歯に衣着せぬ物言いのおかげで彼はショックだ。霊もはっきり言葉にされれば傷つく。特に精神状態の不安定な彼のことだ。


『実体化すると疲れるんだ。あなたのことが心配だし、また霊に襲われたらと思うと……』


 アルトラはまだ現われていないし、自然霊も含め低俗霊にも遭っていない。それでも彼は心配そうだ。そしてここ数日の訓練の甲斐もあり、彼は100%に近い実体化の実現に成功しつつある。実体化して人の服を身に纏い、ルカに同伴されて市場で野菜を買ってお釣りをもらったほどだ。


 彼が実体化後に見舞われる猛烈な疲労と消耗さえ解消できれば、生きた人間の少年として街の人々に認識される日も近いことだろう。しかしいくら人間を演じても、霊である彼が肉声を出すことだけはままならないが……。


「とにかく、家でルカさんとお留守番してて。私は誰にも襲われないよ、昼間に活動するお化けはシュウくん以外にはいないってルカさんも言ってたし。私は大丈夫だよ」

『そう……じゃあ僕は帰るね』


 どうやら彼はターニャの傍にいたかったようだが、その一方でターニャは四六時中束縛されるのが大嫌いだ。彼はルカと二人きりで留守番をするよりターニャと一緒にいたほうが楽なのだろうが、これって霊にとり憑かれているうちに入るのだろうか、などと考えたら負けのような気がして複雑な気分でため息をつく。


 昼下がりの表通りを見ると、街にはクリスマスの準備が整ってけばけばしいほどだ。ターニャも店主からベーカリーのショウウインドウにデコレーションを頼まれたので、今年もセンスよく電飾を施し、白い小さなクリスマスツリーにそつなくオーナメントを飾ったところだ。


 追い出したみたいで、ちょっと可哀そうだったかな。彼女が湯気のたつ新たな焼きたてパンを運びながらそう思っていたときだ。シュウが出て行って3分も経ってはいなかった。あたかもシュウの不在を見計らっていたかのように、いつの間にか店内にいた青年がライ麦のシンプルなパンを持ってレジに出した。ターニャは青年に気付いて小さな悲鳴を口の中に飲み込んだ。


「元気そうだな。パンを買ってもいいかね」


 彼はパンを買うには大きすぎる金額の紙幣をパンの横にそっと置いた。ターニャの目の前にいたのは、忘れもしない銅色の髪と空色の瞳の男。以前は暗がりの中で出会ったが、明るい場所で見るといっそう異質な雰囲気を醸し出している。彼はシュウや自然霊たちが天敵と恐れるウィズ・ウォルターだ。


「どうして。ここに?」


 ターニャのバイト先がウォルターという正体不明の男に特定されていて、そして直接接触を図ってくるとは思わなかった。どう考えてもここに霊はいないし、ベーカリーをわざわざ訪れる用件が分からないだけに何をされるのかと不安で仕方がない。ターニャの声は、彼に聞こえるか聞こえないかほどのか細いものとなって震えている。ウォルターがどういう存在なのかをシュウから聞いてしまったターニャは、怖気づいたのか半歩下がって逃げ腰になってしまう。


 しかし出口は真逆の方向だ。逃げられないと覚ると、彼女はこんな時こそシュウを呼ぶべきだと思い直す。そういえばそうだ、彼はウォルターに会って話したいことが山のようにあると言っていたのだから、この機会はシュウのためにはチャンスなのだとポジティブに考え直し臆病な気持ちを振り払う。


「あと10分、いえ5分でいいのでここにいてもらえますか? 電話でシュウくんとルカさん呼びますから」

「あいにく、あんた以外のやつに会う用はないな」

「あなたはなくても、シュウくんはあなたに訊きたいことがあるんです。でもあなたは滅多に現われないから……」


 ターニャは彼を引きとめようと、少しでも彼の足を止めようと懸命になる。シュウに用がなくて、では誰に用があるのだろうと疑問を抱き一方でターニャに用があるのだとの確信を得ながら、それでも携帯に指先が伸びる。ウォルターに気付かれないよう携帯メールを打って、ターニャの借家で留守番をしているルカだけでも呼ぶべきだ。


「聞いてください。私、言霊が使えるようになったんですよ」


「知ってる。だから来たんだ」


 彼はおおぶりのパンを紙袋に詰めるターニャを観察しながら、はっきりと肯定した。それ見ろ、ターニャに言霊が使えっこないと頭ごなしに否定したルカはやはり間違っていた。やはり私が使ったのはシュウもいうように紛れもなく言霊だったのだ……とターニャが思ったところで、彼女は思わずもう一度問い返した。彼は今、ターニャが言霊を使ったことを既に知っている、だからここに来たのだといわなかったか?


「え!? 何で知ってるんですか?」

 ターニャの借家の窓は普段締め切っていてさらにルカの結界が張り巡らされていたから、既に室内に盗聴器でも仕掛けられていたのだろうか。


「ターニャ?」

 店の奥からおかみさん、オルガ(Ольга)が出てきた。おかみさんは恰幅もよく肌の張りつやのよい二重顎の50代の女性で、主人リュドミール(Людмил)とこのベーカリーを切り盛りしている。彼女は現在、ケーキ作りを担当していてなかなか店頭に出てこないが、顔を出すとはどうしたことだ。


「は、はい!」

 助かった……とターニャは生きた心地がした。頼りないおかみさんでも立派な加勢だ、ターニャ一人よりは随分ましで頼もしくさえ見える。しかしオルガはターニャに怪訝な顔を向けているのだ。


「あなたさっきから何を言ってるの? 大丈夫? 熱があるんじゃない?」

「あ、こちらのお客さんとお話を」

「こちらのお客さん? ……」


 オルガは気味の悪そうな顔をしている。ターニャが振りかえった方角に、ウォルターはいなかった。しかし彼が差し出したお札が一枚、彼の来訪を証するように今もレジ台の上に載っていて、彼がつい先ほどまでいたことが紛れもない真実だと分かる。オルガはターニャの額に手をあてて熱がないかと比較したが、温度差はよく分からなかったようだ。


「あなた、今日早くあがっていいわ。代わりにアナスタシアを呼ぶから。家に帰って温かいものを食べてしっかり寝るのよ。インフルエンザの初期かもしれないわ」

 大事をとって休みなさいと言われながら、ターニャはベーカリーを追い出された。


 アナスタシア(Анастасия)というのは、ターニャと同じくアルバイトの、音楽大学で声楽を学んでいる19歳の女子大生だ。冬休暇で彼女は暇なので、小遣い稼ぎにいつでも呼んでくれと言っていたのをオルガは思い出したらしい。アナスタシアは確かに喜んでバイトに来るかもしれないが……。


 アナスタシアはとびきりの美人で性格もよいのだがいわゆる不思議ちゃんで、霊感もないくせに幽霊と話したり妖精が見えるようになりたいなどと常日頃言ってはオカルトグッズを集めている。当然キリクの街に伝わる雪霊シュウの伝承にも造詣が深く、シュウを見つけたら超特大雪だるまを作ってもらいたいと言っていたっけ……ターニャにとってはこちらも胃の痛くなる話だ。シュウの姿を一目でも見ようものなら、彼女はシュウを連れて帰ってしまいかねない。


 もっとも、彼の姿が見えるならば、の話だが。

 そんなことで気を紛らわせながら店を出て、とぼとぼと裏通りを歩く。天気予報を聞くまでもなく、今夜は吹雪にするとシュウが言っていたので、フィールドに撮影に行くのは危険だ。することもないので一直線に帰宅することに決めた。


 特にウォルターと出会ってしまったあとだ。昼間でも人気のないフィールドに行って彼と一対一で鉢合わせという事態だけは避けたい。そして一刻も早くシュウとルカに、ウォルターが来た旨を伝えたほうがよいと感じたのだ。ウォルターはただライ麦パンを買っただけでターニャに何の有益な情報も、損害も与えなかったが、とにかく彼はターニャを訪ねてきた。用があったのだとしか思えない。


”多分ウォルターさん、ドア使ってないんだよね”


 ベーカリーの木製のドアを開けばカランカランと鳴るはずのベルが、ウォルターが来訪したときと姿を消した時に限って鳴らなかった。つまり彼はドアから入ってきたのではないのだ。勝手口にはカギがかかっているので入ってきたとすると窓からか……しかし窓は小さく、彼が物理的に通り抜けられそうにもない。


”ってことは霊なのかな”

 霊は堅い壁もガラスも難なくすり抜けることができる。そんな状況を考えても、彼が霊であるという可能性がターニャの中で急浮上してきた。


「いや。ODF (不可視化領域:Optical Defensive Field) を使っていたからな」


 ターニャの心の中での疑問にそのまま答えるように横から突然声がして、気がつくと、先ほど消えたばかりのウォルターがターニャと並んで隣を歩いていた。ターニャは驚いたという素振りを隠しつつ、また彼に会ってしまったことで気を引き締める。彼の言葉は聞き取りにくい。くぐもっているわけでも割舌が悪いわけでも訛っているわけでもないが、ただ単純に聞き取りにくい。ターニャとは波長が合わないのだ、と彼女は思った。


「今、どうして私の考えが分かったんですか? 霊ではないからといって、れっきとした人間でもないわけですよね?」

「少し人目のないところで、話をしないか?」


 彼は彼女が最も聞き出したい質問には答えずターニャを誘った。シュウもこんな具合にうまく質問をはぐらかされているのだろうなと状況がうかがえる。何十年も前から彼と知り合いであるにも関わらず、シュウが何一つ情報を得られたためしがなかったというわけだ。そして人目のないところに連れていかれて、何をされるのだろう。


「人目のないところになんて、ついていくと思います? シュウくんはあなたに殺されかけたって言ってるのに。あなた、人も殺すそうですね」

 

「理由もなくは殺さんよ。そんなに怖いなら、人目のあるところにすればいい。茶でも飲むか」

「それってナンパですか?」

 ターニャはせめてもの抵抗と強がってみせるが、あまり効果がないことを知っている。


「あんたがナンパだと思うならナンパだろう。昼間は自由にしていいんじゃなかったかね?」

 人を食ったような言い方をして。それよりもだ。なぜそんなことまで知っているのだろう。家のどこかに盗聴器を仕掛けているのだろうが、帰宅したら何としてでも盗聴器を探し出すべきだと彼女は思った。


 結局、不本意ながら彼を伴って、ターニャのよく知った顔なじみのマスターのいる近所のカフェに入った。遂に彼氏ができたのかとマスターがコーヒーカップを拭きながらオーバーリアクションでウィンクをするも、ターニャはそれどころではない。ターニャはカフェラテを、彼はブルーマウンテンをオーダーして、さて本題かと思いきや、新聞など読んでいる。彼はざらっと目を通すだけ読んで、興味を失ったらしくすぐに折りたたんだ。


 ともあれ人の目がある場所は安全だ、彼はウェイトレスやウェイターに視認されているようだし、仮にここでターニャが何かされても目撃者も多数いる。冷え症のターニャだが彼と対峙しているだけで心拍数がドキドキと高まっていつまでも落ち着かず、体中の毛穴という毛穴から妙な汗が出てきて、暑いとさえ感じていた。


 カフェという場所にはどこか不似合いな、カジュアルすぎるいでたちの彼を正面から観察すると、赤毛(レッドシュ:Redsh)という毛髪を持つ彼は、人間ならば赤毛のアンのように一般的に皮膚が薄く弱くそばかすができやすいとされるのだが、皮膚にはそういったものはおろか、ほくろの一つすらない。


 真偽のほどはともかく、8000年以上も生きているというのだから肌もそれなりに老化をしてそうなものだが、生憎彼の肌には皺ひとつ刻まれていないし、袖を捲り上げた素肌の腕を見ると細身だが筋肉をたくわえている。ターニャなんて、25歳だというのにアンチエイジングをはじめたところだ。体力と筋力を保ちつつ老いも死にもしないなど、誰が聞いても羨むだろうが、特に女性にとっては羨ましい話だった。


 さらに彼は左右完全対称の容貌を持ち、無個性だが人形のように端正な顔つきをしている。たしかにどこか、神がかっている。マネキンに命を与えるとこうなるのだろうか。


 ウェイトレスによって目的の飲み物が運ばれてくると、彼はミルクと砂糖を入れている。ブラックでコーヒーを飲めないような彼が、世界中の自然霊を支配しブルータル・デクテイターすら打ち負かしたことのある超人的な存在であるとは、どうしても信じがたい。


「言霊はたしかに、稀人にとって唯一ともいえる強力な武器だ」


 ターニャの疑念をはぐらかすように、唐突に彼は切り出した。これだけ人目がある中で切り出してもよい話なのだろうかとターニャは思うのだが、どうしたことか周囲のテーブルに座っていた客が突然、軒並み席を立って代金を支払い、そそくさと帰って行った。代わりにそのテーブルに座る客も一人として来ず、彼が暗黙のうちに人払いをしたのだと気付いたターニャは固唾をのんだ。彼は人の心をも自在に操るのだろうかと。



「言霊が使えるようになってしまった以上、あんたには話しておこうと思う。なにせ命にかかわることだ」 

「教えてください」

 腰を椅子に落ち着け、商談でもしているかのように装いターニャはきわめてビジネスライクに促す。それでも、その手にはじっとりと汗がにじんで、両脚はカタカタとテーブルの下で震えていた。


「原理(プリンシプル:Principle)は呆れるほど単純だ。人間をはじめ全ての生命、そして霊はあるバリュー(Value)を持っている。それがバイタルという値だ」


 彼はターニャがメモを取ろうと握っていたペンを取り上げて、彼女のメモ帳にVitalという文字を英語で、ターニャが座っている向き、つまり彼にとっては逆さまに書き付けた。逆さ文字でも美しい字を書く、意外に器用な男だ。彼はバイタルという文字の下にスケールを引き、ターニャに向かって右側を+、左側を-と書き足した。


「生者はプラス、霊はマイナスのバイタルを持っている。生命の誕生時には最もバイタルが高く、普通は年齢と共になだらかに下降しゼロになると死を迎える。ちなみにあんたのバイタルは今+183,580ポイント(pts)あり、消費速度は一年につき-5800 ptsだ。だが言霊を使うと、バイタルが負に引き寄せられ約2300ptsずつ消費する」


 彼はスケールから2300ポイントをさし引いた。+183580 ptsのうちの-2300 ptsはかなり大きな値だと分かり、ターニャは青ざめる。彼の話が本当だとすると、言霊一回で寿命を半年分以上削るということなのか……。


「つまり言霊を使いすぎると、寿命が短くなっちゃうわけですか?」

「それもある。あんたらは言霊を使えた稀人をたった一人の有名人しか知らないようだが、俺は何人も知っている。稀人は自然霊に狙われ続けるために、言霊を一度使うとバイタルがゼロになるまで使わざるをえない。あの修道士があんたの家に結界を張って不可視化領域を立ち上げているようだな。今はそれで充分だ。言霊を使うな」


「それをわざわざ、私に忠告してくれるんですか?」

 ご親切にどうも、と言いたいところだが裏を読んでしまう。人に害なす自然霊をその手で殺し続け、ときに人間すら手にかける彼がわざわざターニャに言霊を使うことの危険性を教えてくれる動機と本音を、ターニャは確かめておきたかったからだ。


「それでは逆に質問だ。言霊(SPM)に頼りすぎた稀人はどうなると思う?」


 言霊を使うことに何か代償があるのかと、ターニャの息が止まった。シュウはそんなことを一言も教えてくれなかったのに。言霊を使うと何かターニャに不利になるようなことがあるのなら、どうしてシュウが先に教えてくれないのだろう。

「バイタルが0になったら死ぬってことですよね」


「死なないんだ」

 彼は眉ひとつ動かさず、表情ひとつ変えずターニャに驚愕の真実を告げた。

「稀人の肉体は生きたまま徐々に死体になり……0になってもなお減り続ける。バイタルはマイナスに振れ、霊でも人間でもなく半実体となる。稀人は言霊を使うたび霊体に近づいてゆくということだ、この点が稀人は普通の人間と違う」


 彼はスケールの下をペンでマイナス方向に矢印を書きはじめた。ペンを持つ彼の手はずるずると引き寄せられるように-方向に進んでゆく。ターニャはその手を動かないように押さえて止めたかった。言霊によってバイタルを削った稀人はバイタルがゼロになっても死なないというのだ……そんなの嫌だ、怖すぎる。ターニャの胸のざわつきが抑えられない。


 大丈夫、私はもう不用意に言霊を使わないからこうはならないのだと自らに言い聞かせ、ターニャは嫌な汗をかきながらウォルターの手を見守っていた。ターニャの恐怖心を存分に煽っておいて、つと、彼はペンを止めた。

「そしていつか、稀人の最大の武器である言霊を手放さざるをえなくなる。気付いてしまうのさ。霊を支配する筈の言霊が、自らに作用し始めることに」

「ど、どういう意味ですか?」

「それを顧みず言霊を使い続けた場合、霊となった稀人は遂に自身の言霊に殺される」


 ウォルターは訥々と、あたかもその現場を見ていたかのようにターニャの理解を置き去りにして話を続ける。稀人が半実体となったとき。魂魄の消滅を免れるために稀人がとることのできる行動は唯一だ。自然霊から精令殻を奪い死体となった稀人自らの胸に移植し何食わぬ顔で自然霊となりかわること。


 アストラルコア(精令殻)とは自然霊の霊力の源となる自然界の力の結晶、自然霊の命そのもので強大な負のバイタルを持っている。自然霊は精令殻より生じ、またやがて精令殻へと還り新たな自然霊が誕生する。それを奪い自身に移植した稀人は、同じく半実体である自然霊と同格の霊となることができるのだった。

 そしてそれは、大いなる自然に叛く最悪のチートともいえる罪深き行為だ。


「数ある稀人のうち一線を越えてしまった稀人を、俺はひとりだけ知っている」


「え、ちょっと待ってください。それって!」

 ターニャの全身が、気付いてはいけないあることに気付いて震撼する。ウォルターはどこから取り出したか、そっと茶色い封筒をカフェの小洒落たグリーンのテーブルの上に置いた。ターニャは中を見てもよいか視線で伺い、促されると、指を封筒の中に突っ込み、入っていた一枚の古ぼけた写真をおもむろに取り出す。


 日に焼けたセピア色の写真の中に映っていたのは同じ年代の少年と少女、そして母親と思しき三人の家族写真だ。そして写真の裏には1945年8月1日の日付。1945年という戦時下での写真であることと母親の身ぎれいな格好からも、裕福な家庭を写した一枚なのだとわかる。この家族がターニャとどんな関係にあるのか、誰なのかと敢えて尋ねる必要はない。


 紛れもなく彼だ。無邪気に微笑む少年に既視感を覚えるのはそのせいだ。ただ現在の彼と違ったのは彼の表情、彼は朗らかで明るい表情をしている。


 これはおそらく……人間だった頃のシュウの写真。

 彼女はカフェの喧騒を遠くに聞きながら、ただ静かに写真の中の少年と見つめ合っていた。


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