第11話 前代未聞のチート、ウィズ=ウォルターの謎
「あれ? そういえばシュウくんは」
ターニャは家の窓から顔を出して少年の姿を捜した。先ほどまで窓の外にいたシュウは、どこにもいない。さらわれたのではないかと心配しなければならないのは、人間の子供の場合だけだ。彼の場合は逆で、逃げたのではないかという心配をしなければならない。ルカも窓の外に呼びかけた。
「おーい、戻って来ーい。いないな……散歩でもしているんだろう。法力で引き付けている限り逃げられはしない」
ルカは常時、強い法力を行使しているので、シュウはルカの傍から離れられない。腰に見えない紐をつけられているようなものだ。
「ひとりで町をうろついて大丈夫? 大騒ぎになったりしてない?!」
「霊だもの。誰にも見えていないよ」
ルカは素っ気無くそう言うが、ターニャは信じられない。彼はターニャの目にはまるきり生きているように見えたし、声は彼女の頭の中に直接入ってくるように感じたが、彼の身体は彼女が触れて手当てをすることすらできた。そんな彼が、街ゆく人々の目に映らないなど……。逆に考えると、彼はターニャに発見されなければ家の前に倒れていても誰にも気付かれなかったということになる。ターニャが見つけなければ、人知れず行き倒れていた運命だったのかもしれない。
「あんなはっきり見えるし触れるのに」
「君はそんなにはっきり見えるのか!」
ターニャにはルカが思っていたより霊感があるのかもしれない。ルカは興味深そうにターニャを眺めた。修練によって法力を得た彼ですら霊の姿をリアルに視ることは難しく、霊はいつも透けて見える。霊感があって見えざる存在が見えるようになることは彼女にとって相当な恐怖かもしれないが、ある側面ではプラスに働く。
彼女は自然霊が見えたら、もしくはその存在を感じたらすぐに逃げればよいが、自然霊にはターニャが稀人であるということは分からないからだ。彼女が先に霊を発見しさえすれば、霊の接近に気づかず逃げおおせることができるのだ。これは彼女の生存にとって非常に有利なことだ。
『なに?』
先ほど彼が呼んだので戻ってきたシュウが半開きになったドアから半分、顔を出してこちらをうかがっている。
「おいで」
ルカは微笑んで、そっと手を差し出す。
『ううん、外にいる』
「中に入ってアイスクリーム、一緒に食べない? チョコチップもつけてあげる!」
ターニャは冷凍庫からバニラアイスクリームと、食器棚からスプーンを出してきて、甘いもので室内におびき寄せようとしたが無駄だった。彼は小さく首を振ってドアの間から顔を引っ込めた。そっけないものだ。
「えー、ほしくないのかー」
子供なら大抵、これでつられるんだけど……。子供は子供でも、幽霊の子供は気難しいのだろうか。つれない態度を弁解するように、ルカはシュウの心を代弁した。
「彼はあれでも、責任を感じているんだ。彼の恩人である君を命の危険に晒していることを気に病んでいる。仕方なかった。でも、仕方ないでは済まされないことをした。どうか彼を憎まないでくれ。シュウの助けなしでは君も1日とて生き延びられない」
彼はまるで最愛のわが子の犯した罪をかぶろうとする父親のようだ。過保護なのもいいが……ターニャはシュウを責められなかった。あの日、瀕死だったシュウは一言もターニャに血液をねだりはしなかったからだ。血がほしい、の一言など、プライドを捨てればとっくに出ていた言葉だろうに。もしくは、問答無用にターニャに襲いかかり心ゆくまで彼女を貪ることもできたはずだ。彼は毅然として彼の誇りを貫き、そしてターニャの尊厳を守った。ルカの話が事実だというのならシュウを恨みたい気持ちは確かにある、しかし恨んでももう仕方のないことだ。あのとき彼は精一杯で、ターニャも必死だった。
「いいのよ……よくないけど、あのときシュウくんを助けたかったのは、私が決めたことでもあるから」
「ありがとう」
彼女がいつまでそう言って気丈にいられるものか、ルカは両手で顔を覆ってうな垂れた。彼はひたすらに彼女の不運と神の無慈悲を嘆いた。ターニャは気を取り直して階段に足をかけ、手招きする。ルカにいつまでも辛気臭い顔をされても困るのだ。
「来て、部屋に案内するから」
「その前に、家に結界を張らせてくれないか。夜間の敵襲に備えるためだ」
「え、怪しいお札とかぺたぺた貼らないでよ、近所の人に白い目で見られちゃう」
「一般人には見えないさ」
ルカは革のカバンの中から、ずらりと机の上に法具を取り出して並べた。どれもターニャの見たことのない怪しいものばかりだ。ルカは聖符による自然霊調伏のエキスパートなのだと、ライザ修道会の修道女から聞いたことがある。そう言われているだけあって、彼は何百束もの白い聖符を束ねて持ってきていた。これだけ持ってきているということは……彼はいつまで戦うつもりなのだろうか? 準備がよすぎる。
「すっごーい。ところで幽霊って、夜しか出ないの?」
「幽霊ではなく自然霊だ。出ないことはないが、昼間は実体化せず活動もしない。活動が始まるのは日没後、気温が下がりきってから。この時期は8時以降だ」
幽霊と自然霊の違いがいまいち分からないのがターニャだ。ルカは腕時計を見て、ターニャは壁掛けの鳩時計を見上げた。霊といえば深夜過ぎに出るものとばかり思っていたが、随分早くから活動するんだな、というのがターニャの感想だ。下手すればまだバイトの残業が終わっていない時間だ。そして現在時刻は……午後8時30分。とっくに危険な時間帯に差し掛かっている。今後は残業もできないというわけか……。
「夜って……シュウ君は?」
そういえばシュウは朝から晩まで起きて活動している。まっ昼間から彼は修道院の噴水に腰掛けて、ターニャと雑談をしていたほどだ。ターニャが見た限りシュウは日中特に弱っていた様子はなかった。ルカはさりげなく彼の持ち霊を自慢する。
「彼は一日中活動できるんだ」
ルカはテーブルの上の法具の中から短い筆と青いインクつぼのようなものを取りあげると足早に表に出て、塀の裏側になにやら怪しげな文字列と同心円からなる紋章を描きつけはじめた。インクは筆にたっぷりとたくわえられ、蛍光塗料のように青く発色する。ルカは屋根の上に座って夜空を仰いでいたシュウを優しく呼びつけ背後に避難させて複雑な紋章を描き終わると、その上に静杖を落ち着いた動作で振るいながらぶつぶつと聖句を唱えはじめた。シュウはちらりと顔を出してルカのすることを不快そうに眺めながら、身を守るために耳を塞いでいる。
青い塗料で描き付けられた紋章は、一刻するとぼうっと淡く光って壁面に吸収されて消えてゆく。彼は人間離れしたジャンプ力で、わずか二、三歩壁を蹴っただけで屋根の上にまで身軽に跳び上がると、雪を手で払って屋根にも念入りに紋章を刻んでゆく。
「すごい身体能力よねえ、ルカさん。中年の星!」
『?』
シュウはきょとんとしていた。
しばらくして、2階の屋根の上からルカがひらりと飛び降りてきて何事もなく堅いタイルの上に降り立った。足をくじいたりしないあたりはさすがだ。武装修道士は自然霊と戦うために徹底した訓練を経て法力を獲て、とりわけ体術に秀でている。もともとの身体能力の高さに加えて、彼の体は法力によって守られ、支えられている。彼は満足そうに家を見上げた。
「これでいい。この家はもはや自然霊からは完全に見えなくなった」
「あのー、私にはしっかり見えてるんだけど」
ターニャは半信半疑でわが家を眺める。別段変わったようなところは見受けられない。ルカは口を尖らせた。
「大丈夫だよ。君に見えても、霊から見えなくなればいいんだ」
「そうなんだろうけどさー……」
ターニャがどことなく心もとないという顔でいると、ルカはシュウを振り返り、見えないだろうと、わざわざ同意を求めた。シュウも困惑したような顔をしたが、見えないよとお墨付きを与えた。
「本当に見えてないのー? まあいいか、中に入って」
『いやだ』
シュウはいつになく強い口調で主張した。そうだった、彼は人間とは一緒に暮らせないというストイックな主義だ。本人は大真面目な自己主張なのだろうが、ターニャにとってはどこかで見たような光景だ。おもちゃ売り場の前で梃子でも動かない子供、どことなくあれと同じ雰囲気で微笑ましかったりする。
「シュウ、お邪魔させてもらうんだ。でないとお前が外にいるために霊に気付かれてしまうよ。お前が発する霊気も結界の中で遮断しなくてはいけないからね」
結局、シュウはたった一言であえなく説得されすごすごとターニャの家に入った。ルカは案外シュウを扱いなれており、彼は常にシュウに過保護なほどに優しく接しているようだ。どことなくルカには子育ての経験がありそうだった。
「部屋は貸してあげるけど、一応ここ借家だからきれいに使ってよ。あと、夜は騒がしくしないでね。そして食事と洗濯とお風呂当番は私とルカさんで分担。掃除はシュウくん。それから、光熱費や生活費はちゃんと入れてね」
てきぱきと家事分担を決められて、彼らは互いに顔を見合わせた。
「はい」『はい』
居候の身で文句が言えるはずもなく、聞き分けよく返事する。
「あと、ふたりとも服はずっとそれ?」
「そうだけど何か不都合でも?」
修道士が修道服を着て何が悪い、とルカが開き直っている。
『僕はこれでいいでしょう? どのみち人には見えてないのだし』
申し訳なさそうに白衣をつまむ彼に、ターニャはため息をついた。たしかに、一般人には見えていないとしても。シュウのコスチュームはなんというか、ミャンマーの仏僧、あれの白衣版だ。しかも血の気のない、青ざめた肌をしているのでいかにも幽霊じみている。
そんな格好で暗い部屋や廊下に立たれると、うっかり悲鳴でも上げてしまいそうだ。一緒に暮らすからにはターニャの心の安定のためにも少年らしい服を着てほしい。ホラー系はあまり得意ではないので、そんな格好で四六時中いられると精神的に不安定になりそうだ。
「普通の着てよ。ちゃんと買ってあげるから」
『人間の着たら、服だけ宙に浮いてるように見えちゃうけどそれでもいいの?』
人間には見えない透明人間も同然のシュウが服を着ると、シュウの顔も手足も見えないので、確かに服だけがふらふらと移動しているように見えてしまう。そんな場面を他人に見られでもしたら……ポルターガイストだ。ターニャは早々に諦めるしかなかった。
「そりゃだめだねー。でも洗濯ぐらいしようよ、ずっと同じの着てると汚いし。じゃ、ルカさんは私服買って着てよ。そこの通りに安いとこあるから明日行こうよ。ここ修道院じゃないんだから目立っちゃうしさ」
「それは構わないが、君は気にしないのか? 私服を着たわたしと二人、ひとつ屋根の下。シュウは人には見えない。修道服を着ていなければただの35歳の男と婚前同棲という目で見られるんだぞ」
よく自分でそんな恥ずかしいことを言うな、とターニャは唖然とする。そしてそれを言うなら、一般人と、というより修道士と婚前同棲の方がよりスキャンダラスだろうに。確かに近所付き合いはあるので婚前同棲をどうこう言われるかもしれないが、わりとよくある話だ。もしルカが嫌だというなら少し歳の離れた兄ですとでも言えばいいのに。しかし修道士は嘘をついてはいけないので適当な言い訳を用意することもできないのだ。不器用な生き方をしているのだな、とターニャは思った。
「ところで、一体いつまでいるつもり?」
「何を言っているんだ。終身に決まってる」
終身と言ったルカの言葉は決して嘘ではないが、終身を今後何十年と考えているターニャのイメージとは違う。どう前向きに考えても長くて数年か下手をすれば数か月だ。シュウも気が重いのか、暗い顔で俯く。しかし彼女の前で弱音を吐くことはできない。案の定、実情を知らない彼女は絶叫した。
「え!? そんな何十年も? 私の事情もろもろは? 撮影や旅行とかにもついてきちゃう?」
旅行なんて格好の標的だというのに……自然霊に毎度毎晩襲われて命からがらという状態になれば、ターニャは夜間、家から出るべきではないという状況を理解できるのだろうか。パニックになる気持ちはよくわかる、そしてフォトグラファーの彼女がある日突然わけもわからず行動範囲を制限されて不自由な生活を強いられ、我慢ならない気持ちも分かる。だが彼女は今後一生、夜間の自然風景を撮影することはできない。受け入れるしかない、現実を。稀人という体質は、ある日突然改善されたりするものではないのだ。
「君がどこに行こうと、シュウと共に君を生涯守り抜く」
生涯守りぬくだなんて、まだ見ぬ旦那様に言われたい一言だったのにどういうことだ……ターニャ(25歳独身彼氏なし)はがっくりと肩を落とした。
*
ターニャの家は借家なので、ベッドは前の家族が四人家族だったらしく4つもあった。
友達に言われた。こんな大きな家に住んでるとあんた絶対、いきおくれるわよ。と。
正直、いき遅れつつあるわけだし部屋も多すぎるわけなのだが、ターニャは1階のベッドを使っている。ターニャがシュウとルカに宛がった部屋は前夫婦の寝室で、ちょうどよくシングルベッドが2つある。そもそもシュウにベッドはいらないのだが、今後いつ怪我をするとも限らないので、シュウに療養用のベッドがあることは有難かった。1階でターニャの物音が聞こえている。
集中力を研ぎ澄ませていると彼女の異変はすぐに察知できるし、ルカが家じゅうに張り巡らせた結界が破られようものならすぐに気付いて寝室に踏み込める。結局、どれだけ彼女と交渉しても寝室のドアに鍵をかけることは譲歩されなかったが、いざとなればドアを蹴破って中に入ればよい話だったと思いなおした。そして、夜間だけは突然の襲撃に備えて修道服を着ていてもよいということになった。それにしても明日は休日なので近くのショッピングセンターに、私服を買いに連れてゆかれる羽目になっている。私服を買いに行く服がないからと言って抗議したものの、あまり意味はないようだ。
ルカはターニャの後に、広い風呂を借りてさっぱりした。シュウも風呂に入れて清潔にしてほしいと彼女には言われたが、半実体である霊を石鹸で洗っても綺麗になどならないのだ。現世のものに触れられない霊は彼女が思っているよりずっと清浄なものであって、穢れるのは現世に生きる動物たちだけだ。
ルカはベッドに真新しいシーツを敷き、特にすることもないので床につく。シュウも暇なので、ライトを点して霊のくせに熱心に聖書を読んでいる。聖書が霊に何のご利益をもたらすものかと思うのだが……読み終える頃には浄化されるのがオチだ。どうせ、やせ我慢をしているのだろうが……。
「聖書なんて読んで調子悪くならないか?」
『頭いたい』
「それみたことか。無理して読むな。明日、暇つぶしの本を買ってあげるから」
ルカは彼の体調管理に余念がない。些細な心配をしつつ、備え付けのテレビをつけた。シュウは驚いて聖書を落とす。そうだった、彼はテレビを見たことがない。修道院の中にテレビなどという気のきいたものはなかった。ルカも視聴するのは数年ぶりになるかもしれない。リモコン操作ひとつにも手元がおぼつかない。修道院での情報源といえば、もっぱら新聞だった。
『なにこれ。人が中に入ってる』
初めてテレビを見たものは、誰でもこう言うに違いない。ありきたりなリアクションだが、シュウはよほど驚いたのかルカの後ろに隠れて震えている。自然霊をこれほど怯えさせるのなら、ライザ修道会に新しい法具として提案してみるかな、とルカはあまり役に立たないことを思いついた。
「いや、人が入ってるんじゃなくて、映像だよ」
このあたりの遣り取りは、まさに父親と子供そのものだ。それにしても彼の臆病な性格を、そろそろ何とかしなくては。テレビに対してもこの調子では……ルカは彼を一度も実戦に投入したことがないが、彼がどれほど戦えるのかわかったものではない。ターニャがアルバイトをしている昼間に雪原にでも行って、訓練させるか……そんなことを考えていた。
『映像はどこから送られてくるの?』
「近くに電波塔があるだろうね」
映像だと分かると、彼の警戒心が好奇心に変わる。興味を持ったところで悪いが、バラエティー番組からチャンネルを回して、国営放送の面白みのないチャンネルにする。この街を中心に今もなお発生し続けている惨殺事件は後をたたない。ターニャのせいばかりではないのだろうが、彼女がこの街に住んでいることも大きな原因となっている。今はライザ修道会の武装修道士たちが悪霊たちの調伏にあたっているが、今日だけで3件の惨殺事件だ、この発生件数をみると調伏が間にあっていないらしい。
司教マリア=クレメンティナの話では、そろそろ本部から選りすぐりの精鋭修道士が派遣させる頃なのだが……。どうかそれまで、何とかKrik管区の修道士だけで被害を減らして持ちこたえてもらわなければ……。街に危険が及んでいるからといって、ルカは夜間、シュウを駆って悪霊の調伏には加勢してはならない。シュウはあくまで戦わせず、ターニャの庇護にのみ回せというのがマリアの指示だ。そうでなければシュウを駆って戦っているその隙にターニャが襲われる危険があるからだ。
こうしている間にも犠牲者は増え続けているかもしれない、一人でも多くの人々を救いたいのに……彼はもどかしさを感じて、拳をきつく握り締め、ベッドに拳を叩きつけた。
『自然霊がやったんだね』
ルカの険しい顔つきを見て、シュウは痛ましそうに呟く。
「そうだろうな。ターニャを捜してる。ところでさっきの妙な男は知り合いか?」
『ウォルターっていうんだ……』
「面識があるなら、よく無事だったな……あの術士は危険だ、土霊を殺したぞ」
ルカと先ほどの呪術者の間にはただひとつ、共通点がある。それは霊の調伏に符を使うということだ。聖符でも呪符でも、“符”とは一般的に術を簡略化したもので、符を用いることによって呪文の詠唱をいくらか省略することができる。また、符を組み合わせることによって、口唱での構築は不可能な高度な術を瞬間的に立ち上げることも可能だ。自然霊との戦闘は術の展開速度が命で、一瞬でも時間をロスすると致命的となる場合が多い。
符は術者を守る護符として、防護能も非常にすぐれている。ルカが聖符をいくつか自身の急所に貼り付けて自然霊との戦闘に臨むのは、霊的な攻撃を無効化でき、命を救われる場合があるからだ。自然霊という存在はもともと半実体であり、霊力によって実体化する。高度な術者によって正確に配座された符陣は霊力を打ち消し、霊の実体化を妨げ、攻撃力を殺ぐ。
しかしルカは聖句や呪文を浴びせかけることにより霊を弱体化させ、静杖によって霊を打ち据え調伏しライザ修道会の持ち霊として駆るか、もしくは浄化して当分の間実体化できないようにはできるが、霊を完全に殺すことはできない。それは、実体を持った人間であるルカが霊体を完全に破壊することができないからであって、自然界の法則に基づいていて例外はない。霊を殺すことは、命なきものを殺すこと……喩えるならこれ以上分解できないものを分解することにも似ている。
しかし、あの呪術者は土霊を殺したのだ。 “浄化”ではなかった……殺害だ。とても人間にはできない。霊は霊を殺す事ができるが……断じて人間にはできないことだ。彼の符は自然界の法則を侵し、霊体を傷つけて殺害した。ただの術士ではない。
『あのひとは、“人を殺す霊”を殺すんだ』
「おかしいな、ならばお前はどうやって生き延びた」
霊能者の使役霊ではないということが明らかな、人を殺める野生の自然霊が一体。霊を殺める呪術者がひとり。そして助けがないとき。シュウはどうやって生き延びたか。
あの時の事を、シュウは今も克明に思い出すことができない。彼と出会って気がついたら、もう死にかけていた。身体を引き裂かれて……完膚なきまでに傷つけられ、激痛の中喘ぎながら、霞む視界で彼を見上げた。あの日、シュウは恐怖という言葉の意味を知った。
『僕が一種一体の霊じゃなかったら、間違いなく殺されてたと思う』
「殺人をやめたのは、そのときに痛い灸を据えられたのが原因で?」
『それもあるよ。それからは……死にそうになったときだけ助けてくれる。でもそんな時は意識が殆んどないから、あまり覚えていなくて』
今回はたまたまターニャに助けられたが、シュウが自然霊や修道士、宗教団体に追い詰められていよいよ動けなくなり今にも死にそうになったとき、気がつくとウォルターに助けられていた。ただし、多少の怪我ではなく瀕死のときに限りだ。恵まれているのか恵まれていないのか……。雪霊という希少種に生まれついて、悪いこともあればよいこともある。しかしシュウはいつも助けてくれる筈のウォルターに監視されていると感じ、怯え続けてきた。彼が人間を襲わなくなったのは確かに人々の優しさに触れたということもあるが、それは決定的な理由にはならない。いとも簡単に霊を殺すウォルターへの恐怖心が、シュウをある意味人々にとって無害で善良な霊へと変えた。
彼はいつでもどこからかシュウを見張っていて、再び殺人を犯した瞬間に殺されるという恐怖は、修道士や霊能者に調伏されるよりよほど勝っていたのだ。その結果シュウが極限まで血液に飢え、渇くことになっても、彼は人に血液を求めることができなかった。飢え死ぬが先か、ウォルターに殺されるが先か……そんな生き地獄から救ったのがターニャだ。だがシュウはどうやら、予期せぬ新たな地獄への扉を開いてしまった。
『あのひとはブルータル・デクテイターより強いんだよ……僕なんてすぐやられるよ』
「まて、“暴君”とその男は撃ち合ったのか!?」
ルカはベッドから跳ね起きてシュウの両肩を強くつかんだ。もしブルータル・デクテイターと互角以上に渡り合えるなら何故、ブルータル・デクテイターはまだ生きている。仕留めそこなったというのか。
『ウォルターは“人を殺す霊”を殺す。けれど一種一体の霊は殺さない。自然界の法則が壊れるから、殺せないんだ』
「で、では……! ブルータル・デクテイターが稀人を喰らうために人々を殺し、同族も一体残らず殺しているのは!」
ルカはすぐに彼の意図するところのものを心得た。ブルータル・デクテイターは意図的に同族を殺し、自らが唯一、一種一体の霊であり続けることによって、ウォルターの断罪から免れている。そしてあらゆる自然霊を遥かに凌駕してなお稀人を喰らい続けるのは……
『そうだよ……ウォルターを、あのひとを怖れているからだ』
それを聞いたルカはひどく悪い予感がした。シュウは少し、真実に近づきすぎているのではないか?
ルカが知りうる限り、“暴君”の弱点を知った自然霊はいなかったからだ。