第10話 ブルータル・デクテイターの脅威と居候たち
結局、ルカは気絶したターニャを負って彼女の家までの数kmの道のりを歩いた。彼女が持っていた写真機材は文句も言わずシュウが担いで歩いた。彼女はルカの背で気絶したまま眠りこけているが、道案内などなくても彼女の住所はシュウが知っている。
「ああ、持病の腰痛にこたえるなあ……」
ルカがほろりとそんなことを言ったとき。街はずれの古い大きな一軒屋の前でシュウは立ち止まり、表札を見つめ確認して、ルカに目で合図した。 Савин (サヴィン)と、表札とは名ばかりの新しい板きれがポストの上に打ち付けてある。
「ここか」
『うん、間違いない』
ルカはターニャを背から降ろして揺さぶり起こす。鍵を開けて、早く家の中に入れてもらわなければ困るからだ。この一帯はただでさえ大量の自然霊が集まってきている、自然霊の力と感覚がとりわけ強くなる夜間は危険だ。稀人であるターニャが狙われる確率もぐっと増す。ターニャは目覚めて、ルカから手短に事情を聞いた。
「修道院を追いだされたならそうと、嘘をつかずはっきり言えばいいのに」
ターニャは鍵を開けてルカをしぶしぶ家に招き入れながら、肩に積もりはじめた雪を振り払って玄関に入った。そういえば、雪だ……と思って振り返ってシュウを見ると、シュウは空に向かって片手をかざしている。彼は自在に雪雲を呼び、冬空を支配するとルカは言っていた。
さきほどルカに、この一帯の降雪量が少ないと怒られたばかりなのだそうだ。彼は北半球も南半球も……全ての地区の降雪を司っているので、修道院に幽閉されていた期間に狂った降雪量の大規模な調整を行っていた。彼は氷で出来た薄く青い地球儀を片手に、降雪を起こすポイントを確認しては空に手をかざしていた。彼女が見るのは二度目ではあったが、やはり神秘的な光景だった。
「いつもああやって雪を降らせるのかな。なんだか寒くなってきた」
ターニャは思わず身震いする。血の気のない彼を見ているだけで寒くなってくるが、先ほどと比べると気温もぐっと冷えてきている。彼がしていることはつまり科学的には雨雲を呼び、大気の気温を下げることだ。
「降雪の調整は彼が無意識下に行うことだから、普段は何もしない。今は修道院にいた間に狂ってしまった世界中の降雪量を調節している。少し時間がかかりそうだな。君は中に入った方がいい。今夜は吹雪くぞ」
「すごいよねえ。これだけ科学が発展して、雪が降るメカニズムまで分かってるのに……」
ターニャは実際にシュウの仕事ぶりを見てもまだ半信半疑だ。ボールを持って遊んでいる子供……のように見えなくもないからだ。
「自然霊が司るのは単純なルールだ。彼が司っているルールは降雪じゃない、“凝固”だよ。君の言うよう、現代科学に自然霊の入り込む余地はないように思える。だが、シュウがいなくなると……“気温が氷点下になっても物質が凍らない”」
「えーまさかぁ……ルカさん文系?」
「いや、大学では化学専攻だったよ」
彼は思い出したようにそう言ったが、ターニャはとてもそう思えなかったので話半分で聞いておいた。
ターニャはルカの説明には無理があると思っている。だったら……究極のことを言うと冷凍庫の中のものまで、凍らなくなってしまうというのか。自然霊たちが物理法則を司る? そんな馬鹿な話があるはずがない。ルカやシュウがそう信じているだけで、実際のシュウはもっと影響力の弱い霊なのだと、申し訳ないがターニャはそう思っていた。だって、この周辺地域ならまだしも、どう考えても地球の裏側の冷凍庫の中までシュウの意識も力も及ばないだろうに。そんな思いで彼を眺めていると、彼は煩わしそうに振り返った。
『何で二人ともこっち見るの?』
集中力をそぐのだろうか、シュウは注目されるのが苦手なようだ。彼が繊細なのは百も承知だったから、ターニャは慌てて手を左右に振った。
「ごめんごめん、続けて」
ターニャとルカはドアを半開きにして、一足先に室内に入る。何はともあれ部屋中の明かりをつけて、薪ストーブを焚く。ターニャはルカをキッチンテーブルの椅子に座らせた。
「うち、結構ぎりぎりの生活だから、困るんだよね……ルカさんたくさん食べそうだし。一緒にパン屋で働く?」
「その必要はない。これは生活費と迷惑料だ」
ルカは落ち着き払って、バッグから先ほどの5倍もの厚さの札束を出した。ターニャはとても受け取れないほどの大金に目を丸くした。これだけあればひょっとして家が建つんじゃないの? ライザ修道会の財力って一体……と、ターニャは受け取ることもできず、だからといってまるきりいらないとも言えず、反応に困ってしまう。大金を紙切れのように扱う無欲さは、俗世を捨てた隠者らしい。
「そんなにあるなら、アパートでも借りればいいじゃないのよ」
「だからそうではなく、君の命にかかわることなんだ。頼む、同居させてくれ。金ならいくらでも払う」
ルカはいつになく真剣だ。そして折れる気配もなかった。ターニャがだめだといえば何時間でも、何十時間でも説得にあたるという覚悟が見てとれた。目の前の大金にはそそられるが、ルカのあまりの必死さに彼女は逆に身構えてしまう。大金を払って警護をさせてくださいなどという虫のいい話には、何か裏があるに決まっている。彼が首にかけているその大きな金のロザリオに誓えるのだろうか。何もやましい事はないと。
「だからお断りですって。だいたい、バイトの日もパン屋に入り浸って、仕事の日は機材持ちでもしてくれて一日中私に張り付いて、ずっとストーキングでもするんですか。通報しますよ!?」
付き人ができたとでも思えばいいのだろうか? ターニャは発想の転換に迫られていた。幽霊とおじさんの付き人。幽霊はかまわないが、おじさんはいらないし、間に合っている。だいたい、どこまで付き添うつもりなのだろう? トイレや風呂など、さすがに勘弁してほしいプライベートな部分もある。一日中監視されていてはいかにターニャといえど発狂しそうだ。しかもシュウは幽霊らしくどこでも壁をすりぬけるので、トイレに入っていてにょきっと壁から首だけ出てきても怖すぎる。そしてそれは頻繁に起こりそうなことだった。
「いや、夜だけでいい」
「夜だなんて。なおさら駄目ですよ」
ほっとしかけて、ターニャはすかさず反論した。勿論プライバシーの問題もあるが、そうでなければ彼女の貞操観念の問題もある。夜だけ付き添うだなんてどう考えても、首を縦に振れるわけがない。彼女はコーヒーを沸かし、店からもらってきた余りのパンを彼の目の前にいくつか出して並べた。アルバイト先のパン屋から売れ残りの惣菜パンを毎日もらっているので、随分と食費の助けになっている。ルカはありがたくそのうちのシナモンパンを頬張った。
「わかってくれ。お願いだから。わたしは神に生涯を捧げた修道者だ、誓って君を護り抜く」
修道士だからって人畜無害だなどと考えるほど、ターニャは無防備でもバカでもない。特にこんなタイミングでターニャの家に転がり込んでくるルカが破門されていないとも限らなかった。口いっぱいにシナモンパンをほおばり、口のまわりにシナモンをつけながら、怪しい修道士は懇願する。口の中のものを片づけてからにしてはどうかと言いたい。
「そんなにハウスシェアがしたいなら、使ってない二階の二部屋だけ貸してあげますけど。でも私の寝室には、鍵がかかるようになっていますからね」
ターニャにとっては当然の自己防衛だ。同居するというだけでも迷惑な話なのに、最低限の譲歩でもある。しかしルカはそれでは駄目だというのだ。
「それでは意味がない。鍵がかかっていては寝室に踏み込めなくなる」
「ほらぁー……」
ターニャが白い目で見つめる。ルカは客観的に自分が何を言っているのか、もっと考えてものを言った方がよいと彼女は思う。彼はお世辞にも聖人君子のようには見えないし、不精ひげを伸ばしたり薬指に結婚指輪をはめているあたり、どことなく俗っぽい。早い話が信用ゼロだ。
「君が自然霊に殺されてからでは手遅れなんだ、夜の間だけは君のすぐ傍にいさせてくれ」
「じゃあシュウくんはいいけど、ルカさんはだめ」
「シュウに襲われたらどうするんだ。シュウは霊なんだぞ!」
「人間に襲われる方がもっと怖いです!」
「大丈夫、わたしが君を襲うことは10000%ない!」
「そんなに自信満々で断言しなくても」
確かに、改心しているとはいえターニャから見ても殺人の前科持ちのシュウも安全だとはいえなかった。ルカとシュウはそれぞれに違う危険性を持っているので困る。どちらが安全かなどと評価もできないが、ルカに襲われる方がショックが大きい。
「そもそも、どうしてこんなことになったの? 稀人って何なの?」
まずそこだ、先ほど説明を後回しにされたが、そこを説明してもらわないとどうにも始まらない。全てこのキーワードが原因であるような気がしてきた。彼女には真実を知る権利があると感じていたルカは包み隠さず白状した。
「稀人とはいわゆるひとつの突然変異による特異体質だ。君は他の人間の何百倍も、何千倍も自然霊にとって価値のある糧となる。シュウはある意味君を喰らい、世界中の自然霊に君の存在を知らしめた。君が一片の肉片も残さず喰われ尽くすまで、悪夢は終わらない。君が普通の人間だったらよかった、もしくは彼を助けなければよかった。だが、過去を嘆いても仕方がない。だからわたしは君が普段通りの生活を送れるように守るべく、修道会より遣わされた」
確かに根本的な原因はシュウのせいだ。しかしターニャにはシュウを憎んでほしくない、彼はそう思った。シュウにとって初めての人間の恩人であるターニャは、凍てついていた彼の心を解きほぐした、救いなのかもしれなかった。彼は自らの意志で決意し、ブルータル・デクテイターを含めた森羅万象の自然霊を敵に回してターニャを守ろうとしている。それがどれほどの悲壮な覚悟なのか、彼女が一切理解などしてくれなくともかまわない。シュウもルカもおそらく消耗し、最終的には命を落とす。
彼女によっておびき寄せられる最大の敵は究極のところ、ブルータル・デクテイターだ。稀人をまるごと二人も喰らったブルータル・デクテイターに、たかだか血液だけを獲たシュウはどう考えても敵わない。彼がルカとともに惨殺され命果てるまで、彼女が一秒でも長く命を永らえるために、ルカはシュウを最期まで駆り続ける。
ブルータル・デクテイターが彼女を喰らえば……人類に明日はない。だが、いずれその時は確実に訪れる。こうしている間にも仲間の修道士たちは血眼になってブルータル・デクテイターを捜し、調伏しようと試みては死屍累々とかえり討ちに遭っているかもしれない。ルカとシュウは最後の砦だ。その日を一日でも遅く迎えるために、ルカは遣わされた。
「嘘……でしょ? ねえ。ライザ修道会に直接問い合わせてみてもいい? もし本当なら信じるから」
真偽を手っ取り早く確かめるためには、ライザ修道会に事実を訊くのがいいだろう。ターニャは壁掛け電話の受話器を取り、分厚い電話帳を引きはじめた。ルカは横から電話帳の上にドンと手を置いて、ページを繰らせないよう妨害する。その行動がますますもって疑わしい。
「だめだ。誰が稀人なのか、わたしとシュウ以外には誰も知らないのに、みすみす名乗り出るのか?」
「どういう意味? 修道院の人たちって、敵じゃないんでしょう?」
「敵ではない。だが自然霊は違う。修道士は自然霊を駆っている。それらが、君が稀人だと知れば……わかるかな。君の存在が知れ渡った瞬間、修道院に属する全自然霊が君に狙いを定める。本能に狂った自然霊は修道士の制御を超える。だからシュウだけを傍に置くしかない」
言わんとする事はわかった。修道士にその気はなくとも、修道士たちの持ち霊が襲い掛かってくるというのだろう。人々の生活を守るはずの修道院が伏魔殿へと変貌する。だからといってルカの言っていることが本当なのかどうかぐらいは、ターニャにも確認する権利があるというものだ。せめて、匿名でもいいからライザ修道会事務局ぐらいには問い合わせてもよいものだろうに。ルカの行動は不可解だ。
「シュウくんは特別なの?」
「そう、特別なんだ」
ルカは感慨深そうに、噛み締めるようにそう言った。ルカは彼を駆ることに誇りと責任を感じているようだった。あんな、見るからに弱そうな子供の幽霊に何を期待しているのだろう。しかも彼は修道士たちに捕えられた際、手も足も出なかったほど非力だったではないか。とても自然霊たちと戦わせられるだけの力はない、彼が無駄に傷つき、また彼の人間不信をひどくするだけだ。ターニャは彼ひとりに責任を押し付けようとするルカこそが、どうかしていると思った。