プロローグ―地図にない森の伝承
序盤暗めで読みにくいですがコメディ色になっていきます。
プロローグのみ一人称。その後三人称神視点
ヘヴンズアンダーを先に読んだ方へ→中盤からギャグに走り出します
INVISIBLEを先に読んだ方へ→荻号が出てきます
初見の方へ→切ない系を目指しつつギャグにも走ります
国境近くの広大な雪原地帯の外れに
街の開発から取り残された小さな森がありました。
地図上に存在しないその森は、垣間見てはならない世界の入口だとされ
私、フリーフォトグラファー、ターニャ(タチアナ=セルゲーエブナ=サヴィン)がキリクの街に越してきてから現地の人々と飲み明かすたび、彼らの口にのぼったものです。
いわく、その森の中央には虹色の澄んだ川があり、源流には鮮やかに輝く鉱石の洞窟があるのだと。
しかし彼らの興味はその川の話でも洞窟の鉱石の話でもなく、洞穴に住んでいるという少年にありました。少年というのは語弊があるかもしれません。というのも、最初に少年を目撃したという話より20年以上が過ぎていました。
少年はシュウと呼ばれていました。
それは有名で恐ろしいキリクの街の怪談であり、神秘でした。
雪嵐の中で彼を見たと言う人は必ず彼に命を救われました。彼を見たという者も一人や二人ではなく、民話というにはあまりにもリアルに、人々の心の中に浸透していました。
私はこの街に住む老人から、その逸話を聞いたのです。
冬山で雪嵐に遭い遭難した数人の探険家が、絶望的な雪嵐をやりすごすため洞窟の中で助けを待っていたときのこと。
待てど暮らせど天気は回復せず、すぐに食糧も暖も尽きました。何か食べられそうなものはないかと洞窟内を探索すると、内部に吹き込んだ雪の塊の中に、少年の死体らしきものが埋もれているのを誰かが見つけました。彼らは背筋を凍らせ、この洞窟は少年の墓地だったのかと口ぐちに言い合いました。
何故ならその子は死に装束なのか、体中に薄い真っ白な布を捲いていたからです。彼らは誰からともなく手を合わせ
『縁起の悪いもの、見つけてしまったなあ……』
彼らは口を閉ざし、彼と同じくここに永眠するのだろうかと想像しました。
中には寒冷地獄で気がふれたか、ここで少年と一緒に眠ろうとすら言い出した者もありました。
彼らはやがて失意のうちに座り込み、死ぬときには一緒だと励ましながら、隣の者の手を取り合いました。ところが一人が間違えて、先ほどの少年の死体に触れてしまったのです。彼は死体に触れたおぞましさに震え上がりました。
『ば、ばかっ! 埋めとけ!』
彼らの視線は自然と死体のほうに向き、ややあって全員が疲れも忘れて驚き飛びあがりました。雪の下で凍りついていた死体の目が薄っすらと開いたからです。彼らは腰が抜けて一声も上げられず、ただ目を見張るばかりでした。死体は雪を払いのけながらゆらりと起き上がり、体裁が悪そうに彼らを見回しました。
死体の皮膚には薄氷が張りついていました。
『どうしてここに人間がいるの?』
少年死体は開口一番そんな間抜けな事を聞いていました。どこか滑稽で、不思議なやりとりでした。彼らは死体と会話をしているのですから。
『どうしたって、おまえの方こそ』
『……僕は眠っていただけだ。ここ、寝ぐらだし。出ていってくれないかな』
その子がもはや人間ではないと知ってなお、誰一人怯える気力も残されていませんでした。
『用がないなら……寝直すから。早めに出て行って、今夜は吹雪いているでしょう?』
少年の声は確かに彼らに聞こえていましたが、肉声ではありません。どうやら、彼の声は空気を介さず頭の芯に直接響いてくる感触です。
『もう吹雪いて出られないんだよ』
誰かがため息をつきました。そこで彼らの一人が勇気を振り絞り、駄目でもともと、少年に縋りつきました。
『おい、君! ここから生還できる方法を知らないか?』
少年はそこではじめて目をこすり見開いて、
『もしかして遭難したの? 皆でキャンプじゃなくて?』
皆ぽかんとしてあっけにとられました。彼は浮世離れしていて、どう見たらこの状況を、キャンプだと間違えることができるのかと驚きました。世間知らずの幽霊もいたもので、そして次に、彼らはこの少年幽霊に一瞬でも期待したことを後悔しはじめていました。
『どうしてこれがキャンプに見える!』
『そういうことなら、帰り道を知っているよ。雪霊だからね』
『雪霊?』
少年は立ち上がり、少しすました顔で雪を払って取り繕いました。皮膚に張り付いていた薄氷を払いのけると、彼の身体は透き通って、えもいわれぬ美しい光に満たされていたのです。彼らはもう、あの世からの迎えが少年の姿を借りてやってきたのだと考えるほかありませんでした。美女の天使が迎えに来なかったのが心残りです。
『手をだして』
何らかの淡い期待を持って、われもわれもと各々手を差し出しました。その行為に効果があるかないかなど二の次です。少年は手袋を脱いだ男たちの掌に指先で×印をつけてまわりました。
『積雪、吹雪を免除にしてあげよう。安心して下山して。方位磁針を持ってるでしょ、それをまっすぐ南に歩きつづけるんだ』
『そんな子供だましを! くだらない、俺はいらんぞ。幽霊からの印なんて不吉だ! とり殺されてしまうに違いない』
彼らのうち、一人だけが正気だったのか、少年から印を受け取りませんでした。彼らの殆どが藁にもすがるような思いでいて、彼以外は印を受けたというのにです。彼は冬山登山の知識も経験も豊富で、探索隊の中でもとりわけ用心深い人間でした。
『本当にいらないの? 後悔するかもしれないよ』
『いるかっ! 化け物め! 気色悪い!』
彼は正常な判断力があったのかなかったのか、願い下げだと唾棄してしまいました。少年は無理強いはしませんでした。仲間がいくら印をもらうよう勧めても、いやだの一点張りできかないのです。少年は残念そうな顔を向け、それじゃ、と言い残し、いそいそと雪の中に潜り込み寝直してしまいました。彼は二度と起きませんでした。
残された彼らには淡い期待の心理が働いて、そそくさと下山の用意をはじめました。印を受けなかった男も、一人で死を待つよりはと当然彼らと同じ行動を取りました。洞穴を出ると、嘘のように吹雪はやんでいました。
そして案の定、遭難事故により死者が出ました。
結果的に、亡くなったのは少年霊からの印を拒んだ男だけでした。
男は下山途中、たった一人だけ雪崩にもっていかれてしまいました。それは偶然の結果だったかしれません。しかし彼らの助けられたその印は、下山する間ずっと手の中で濡れて頼もしく、青白い光を放ちつづけていたのです。
街に戻ると、印は跡形もなく消えてしまいました。
それ以来、吹雪を免除される特例は、なくなってしまったのです。
……と、私にとってはこれが一番身近で直接耳にした話です。
実際に彼を見たというパン屋の常連の老人に打ち明けられたもので、彼は仲間の一人だけ助からなかったことに罪悪感があったために、長い間胸のうちに秘めていたのだと涙ぐみました。
特例……雪国で凍死しない術を貰うということは、決して雪国の人々にとって心躍るほど魅力的な話ではないにしても、検証したいと思わせるには十分でした。この街では往年の寒波から、猟に出た者のうち何人もの凍死者及び行方不明者を毎年出してもいました。人々はその少年を探し出し、あわよくばその特例とやらを貰いたいと考えました。勿論、見せものにして街の観光の目玉に、という意図もいくらかあったようですが。
「もしシュウに会えたらどうする!?」
「特大雪だるま、作ってもらおうよ!」
「シュウを捜しに行こう!」
酒場ではいつも誰かが必ず、酔った勢いでそう言って騒ぎ始めたものです。でも、誰もわざわざ吹雪の夜に現れるという森に命を落しに行くような真似はできません。運よく森を見つけられたとしても、洞窟にまでたどり着けるという保証はなく、万が一洞窟を見出せたとしてもそこに少年がいるという確証もなかったからです。
彼に会えなければ、命を落とす確率のほうが高い……となると結局は怖気付いて、話は尻すぼみとなってしまうのでした。
しかし私は――
偶然にも、彼という伝説と深くかかわることになりました。
生まれてこのかた、大多数の人々と同じように、霊感などあったためしもありません。
幽霊を見たのもあの日が最初でした。
今も現在進行形で記述され、真夜中に語られるべき御伽噺を、
私はここに記しておくことにします。