89話 よかった
チダルス村へ。蒸気バスのフロントガラスから見る外は昨日ほどではないけれど白くて、そこに朝焼けが反射して、思いがけなくとてもキレイでした。吸い込む空気も澄んでいて、わたしたちがこれから為そうとしていることが、一瞬だけぜんぶ遠い世界のものに思えました。
ふっと思いが浮上したときには村の入口でした。ノエミさんが大きく右にハンドルを切って、停車させます。二人で降車して、まだ寝静まっている村へとあしを踏み入れました。迷うことなく積もった雪を踏みしめて、ノエミさんがひとつの高床のお家へと歩いて行きます。わたしはその足跡をたどりながら、必死についていきます。
玄関前の階段を上って、ノエミさんがドアをノックしました。強く三回。応答がないので、少ししてからもう一度三回。それにも応答がなくて、もう一度、というときに、ドアが開きました。
「なんですか、こんな早くに……」
明らかに不機嫌な女声が聞こえました。わたしは何段か下にいたので、姿は見えませんでした。ノエミさんが「交通局のサューキです。緊急事態です。ご主人はいらっしゃるでしょうか」とおっしゃいました。ちょっとの間返答がなくて、「……なんですか。伝えておきます」とおっしゃいました。
「緊急事態です。招集に参りました。伝言を頼みたいわけではないです」
「ふざけないでください、こんな突然来て。なに言っているんですか」
「ふざけてこんな時間にお訪ねしません。緊急事態が発生しました。ご主人は非常事態発生時のためにここへ逗留されているリッカー=ポルカ交通局職員です。職務上の責任が発生したためお迎えに上がりました」
「はあ?」
心底バカにしたような声色に、姿が見えなくてもわたしはカチンと来ました。ノエミさんは動じずに、ただ「ご主人を呼んでください」と繰り返しました。
その不毛なやり取りをしている間に、ご本人が戸口へとやってきました。「ノエミさん、もしかして……」と低い深刻な声。ノエミさんはうなずいて、「開戦が決定したわ」と言葉少なく言いました。「えっ⁉」と奥さんのひっくり返った声が聞こえます。
「わかった……着替えてすぐに行く」
「――はあ⁉ あんた、頭おかしいんじゃないの⁉」
静かな雪の朝、奥さんの声が響き渡りました。わたしもノエミさんも、その言葉に硬直します。この人、なに言っているんでしょうか。
「緊急事態が発生したんだ。おれはそれに対応する要員だ。行ってくる」
「バカじゃないの⁉ なんでそんなのに行かなきゃならないのよ!」
「ここに移動するときに話し合っただろう。有事のときに動ける人間が必要だから、おれはここにいるんだ」
「だからってあんたがなんで行くのよ! うちは、あたしはどうするのよ⁉」
「もう何回も話し合っただろうが! 村長さんの指示に従って、おまえは村の人といっしょに先に逃げろ!」
「なによそれ! あたしを捨てて行くってこと⁉」
「なんでそうなるんだ⁉ 有事の際はリッカー=ポルカの住民避難のために出動すると伝えていただろう!」
「だからってなんであんたが行くのよ!」
堂々巡りの怒鳴り合いが続きました。少しだけそのやりとりを眺めてからノエミさんは軽く頭を下げて、「承知しました。ご家庭のことはそちらで」とおっしゃり、きびすを返します。わたしもそれに従いました。「ノエミさん、待ってくれ!」という声。「あんた、あの女とできてるんでしょう、そうでしょう⁉」というあり得ない声。ふざけるな、というような言葉が聞こえましたが、わたしたちはそれにかかずらわっている時間はありませんでした。
チダルス村を経由したがゆえに、軽く一時間は浪費してしまいました。雪は少しずつ弱くなってきて、あんなに寒くて冷たくて好きではないのに、やまないで、とわたしは心の中で何度も言いました。きっとノエミさんもいっしょです。きっと、朝の便の前に市内を一周して呼びかけることはもう難しいです。なので、朝に呼びかけをし、昼と夕方の便で人々を回収し、それにも間に合わなかった人を最終的に拾う形になるでしょう。どうか晴れないで。まだ、どうか晴れないで。
リッカー=ポルカの朝は、こんなことで見るのでなければキレイでした。さて、交通局員さんを捕まえなければ。一番近いお宅をお尋ねして、状況を説明しました。彼は無言でうなずくと、すぐに着替えて蒸気バスに乗り込みます。わたしもノエミさんもなにも言いませんでしたけど、もちろんほっとしました。そして、わたしはお願いして旅籠メゾン・デ・デュへ向かっていただきました。レアさんに。そしてすぐに情報を拡散できるベリテさんに伝えなければ。ベリテさんは息を呑んで絶句し、レアさんはひとこと「わかったわ」とおっしゃいました。
そして、各バス停へ。途中で他の交通局員さんたちも拾って行きます。ひとつ目のバス停に停車したとき、ノエミさんが「ソノコ」とわたしに声をかけました。その手には伝声管が握られ、管の長さいっぱいにわたしへと差し出されています。
「あなたが、アナウンスして」
わたしは、受け取って、なんと言うべきか考えました。飾る言葉は必要ない。響いた声は自分が思っているよりも幼く聞こえました。
「リッカー=ポルカのみなさん。おはようございます、交通局です。戦争が、始まることになりました。すぐに逃げる準備をしてください。お昼と夕方、いつもの時間です。蒸気バスでお迎えにあがります。どうかバス停へ来てください。みんなでそろって、逃げましょう」
雪かきをしていた人たちが、ぎょっとしたようにこちらを向きました。そして幾人かはあわててお家の中へ入ります。だいじょうぶ。伝わった。すべてのバス停でそれをしました。
交通局に戻り、他の二台の蒸気バスのストーブを焚きつけました。ノエミさんは身一つでしたけど、わたしには「荷物をまとめる時間くらいはあるわ」とおっしゃって、持ってきたものをすぐに回収するようにと促してくれました。レアさんに借りたボストンバッグで来たので、ありがたくそうさせてもらいました。
「ソノコ。あなたは昼の便で」
事務所に戻ると、ノエミさんがおっしゃいました。わたしは即座に「いやです」と言いました。
「最終便に、どうか、みんなの無事を見届けさせてください」
ノエミさんはサルちゃんみたいにわたしの頭をぐしゃぐしゃして、そしてぎゅっとハグしてくれました。
三家族が交通局にやってきました。その方たちには昼の便に乗っていただきました。運転免許を持っている交通局員さんが、慎重な、そして真剣な面持ちでハンドルを切り、こちらへ目礼して蒸気バスを発進させました。わたしたちは心境を同じくして頭を下げ、大きな車体を見送りました。
夕方の便も、交通局へ直接来られた方を乗せて発進します。みなさん、言葉は少なくて、不安を押し殺しているのがわかりました。そして、夜。
「こんばんは、交通局です。こちら、最終便です。避難できていない方はいらっしゃいませんか。十分程度停車します。お困りの方がいらっしゃいましたら、どうか合図をください。お手伝いに伺います」
ひとつ目のバス停では応答なし。見える民家の窓には明かりもないので、この区域は避難完了とみなしました。次へ。そして次へ。
「ソナコ! ソナコ!」
必死な女声が聞こえて、わたしはあたりを見回します。……シューちゃんさん! 白髪マダムのシューちゃんさんです! わたしはあわてて降車して、ら、足元を雪に取られてこけて、起き上がって走りました。こんな深い雪の上を走るとか生まれて初めてです。ぜったいこれ足腰きたえられる。「シューちゃんさん、シューちゃんさん!」わたしが手を伸ばすと、シューちゃんさんは両手ですがりついてきました。
「うちの人が、いかねえって、いうの」
息を呑みました。そうです、シューちゃんさんのご主人は、蒸気バスに乗ることも、かわいい服もだめっておっしゃっている方だった。「いっしょに説得しましょう」とわたしが言うと、シューちゃんさんは何度も何度もうなずいて、わたしをお家へと引っ張ります。
「ご主人、戦争が、始まるんです! ここも危なくなります。いっしょに行きましょう!」
「行かねえ」
「なんでさ、あんた! こんなところにいたら、死んじまうんだよ!」
必死の声でシューちゃんさんが言います。わたしも何度もなだめて、お願いして、言葉を尽くしました。でもだめでした。
「行きたいならおまえひとりで行け! おまえとは離婚だ! なんでも好きなもんもってけ!」
ショックで、わたしはなにも言えなくなりました。シューちゃんさんは、「……そうかい、わかった」と低い声で言いました。
シューちゃんさんは、大きな風呂敷みたいな、キレイな柄のスカーフを床に広げました。そして、そこへクローゼットの奥の方から取り出した、白いワンピースを一着。そして、大きく息を吸ってから、ご主人の肩に手をかけました。
「なにすんだ⁉」
「あんたを! あんたを持ってくんだよ!」
ぼろぼろと号泣して、シューちゃんさんはご主人の体を押します。
「あんたを! あんたを持ってくの! あんたがここに入ってよ! あんたを持ってくのよ!」
わたしはやっぱりなにも言えなくて、ご主人はびっくりしてシューちゃんさんを見て、わたしもこらえられなくて泣いて、シューちゃんさんは押して叩いて泣いて、ご主人をスカーフに入れようとしました。
「――わかった」
そうご主人がおっしゃったのは、心配してノエミさんが覗きにきたときでした。わたしはほっとして、鼻をすすりました。






