40話 これは天が与えたもうた試練
拝啓
こんにちは。園子です。群馬のみなさん、お元気にしていらっしゃいますか。
アウスリゼは少しだけ冷たい秋風が吹くころになりました。こちらでも紅葉はきれいです。そちらはそろそろ群馬県民の日が過ぎたころですよね。だいたい暦が同じなので、そちらを想いながら数えていました。ところで九月って31日ありましたよね?
今年の群馬県民の日には近代美術館へ、理想の書物展を見に行こうと思っていました。ぜったい頭の中がたのしくなるやつじゃないですか、あれ。入館料タダの日を狙わないで、もっと早くに行っておけばよかったです。創作活動に役立っただろうな。少しだけ後ろ髪引かれていますけど、考えてもしかたがないので考えないようにしています。みなさんはどのように過ごされていますか? 息災でいらっしゃるでしょうか。わたしはきっと、心配をかけてしまっているでしょうね。
こんなままならない状況のわたしから、みなさんへなにか伝えられることがあるとすれば、『いつなにがあるかわからないから、やりたいことを先延ばしにしないで』ということ。そして『どんなことが生じても、心を強く保てるように冷静でいて』ということです。説得力あるでしょう?
後悔って、先に立たないものですね。その状況にならないとわからないこともたくさんあるし、不測の事態だって生じます。
どんな場面においても動揺せずに構えていられるような大人になりたかったけれど、まだまだわたしには遠い道みたいです。それを自覚できただけ、わたしも前進できたのでしょう。そう思うことにします。目の前にある問題が、いかに困難で、解決し難いものであったとしても。
今、群馬のことを恋しく思い出しています。生まれも育ちも違う土地だけど、やっぱりわたしのホームは群馬です。心の故郷に立ち返り、この届かぬメッセージを送ります。群馬の愛しい人たちへ。どうかまた会える日まで、お元気で。
かしこ 三田園子
P.S. たすけてください。最推しが今、わたしの手をとってわたしの隣に座っています。しぬ。どうしたらいいですか本当にどうしたらいいですか。群馬のことを考えて気を散らすのにも限界が来ました。たすけてください。しぬ。しぬ。
エボニーさんの声が朗々と響きます。最高にすてきです。アンコールに応えて今歌われているのは、彼女の大ヒット作のひとつである『あでやかなバラのように』です。先日レアさんが手回し蓄音機で聴かせてくれた曲ですね。まじでいい曲なんですよ。遠くに住む恋人を想う歌なんですけど。『あなたの姿が視界に入るとき あなたがわたしのすべてになる』とか『それでも瞳を伏せてしまうの あなたがあまりに素敵だから』とか。ちょうわかるー。あるよねー。
あと、『あなたがわたしの手に触れるとき わたしの時は止まり』とか『その温もりに癒やされて そして心乱されて』もねー。ちょうあるあるー。わかるー。わかっちゃったやだー。
エボニーさんすごくかっこいい女性でした。勝手に体格のいい女性を想像していたんですけど、すらっとしてゴージャスなウェービーの褐色髪を背に垂らした、とても印象に残る方。黒い肌を包むボルドーのタイトドレスがまたお似合いで。たぶん二十代の頃から体型変わってないんだろうなー。コツとかあるのかなー。後学のために教えてほしいなー。
………………。………………。………………。………………。………………。
――ネタが。ネタが尽きた。
誰か現実逃避のネタをくださいお願いしますなんでもしますから。
わたしの今の状況知りたいです? 説明した方がいいです? しなくていいです? 現実直視回避のためにやめときますね? 言語化するとね? ほらこう、いろいろ弊害がね? 主にレアさんの笑顔で延ばした寿命の無効化とかね? ミュラさんの気持ちがわかる感じとかね? いろいろとね?
会場から拍手と歓声が湧き上がりました。わたしも拍手しようと思うんですが。思うんですが。左手があの。左手が。あのですね。具体的にはあまり言えないんですけどちょっと不都合がありまして。いえ、やんごとなさすぎて不都合とか言えないんですけどちょっといろいろありまして。一身上の都合により。そうです、一身上の都合により。拍手できないんです。はい。そうなんです。そういうことでよろしくお願いいたします。
『――以上をもちまして、当イベントは終了いたしました。本日のご来館、まことにありがとうございました』
ウグイス嬢さんのアナウンスがあっても、まだいくらかの拍手と指笛が止まりません。けれどがやがやとした人々の喧騒が戻って来ました。なのでもし、もしですよ。これが夢ならば永遠に眠らせてくださいよろしくお願いいたします。夢なら覚めてなんていう恐れ多いことはもちろん申しません。むしろ覚めようと寝返りを打ったあたりで撲殺してください。できれば群馬の友だちには「安らかな寝顔でした」って伝えて。あと、棺桶には部屋に貼ってあるポスター入れてください。モアイこけしはレアさんへ遺します。お墓はいらない、骨は海に撒いて。なにも思い残すことなく、園子は逝きます。みなさん、今まで本当にありがとう。ありがとう。
心の遺書の準備が整ったあたりで、麗しいバリトンの声が耳元で聴こえました。しぬたびに「わたし、生きてる」と感じます。しぬ。「すばらしいコンサートでしたね。あなたはどの曲が好きでしたか?」と聴こえました。しぬ。その言葉が指す「あなた」とはわたしでしょうか。わたしの耳元で聴こえたんですけど。たぶんわたしの耳はわたしの耳だと思うんですけど。でももしかしたら三キロ先とかにあるかもしれないですわたしの耳。だからわたしのことじゃないかもしれません。きっとそう。
「――ソノコ? だいじょうぶですか?」
ふぎゃあああああああああああああああああああああああ‼ わたしじゃああああああああああああああああああああああ‼
「はいっだいじょうぶですっ」
自分の声がやけに現実感を持って聴こえました。そう、これわたしの声。急に意識を引き戻されたみたいになって、自分の鼓動がとんでもないことに気づいて、そんで居ても立ってもいられなくて、めちゃくちゃおっきい声で「お手洗い行きたいです!」と言ってしまいました。その直後に恥ずかしくなって、でもレアさんが「あら、あたしもいっしょに行くわ」って言ってくださって、命からがらその場から逃げました。
お手洗いの個室で自由自在に懊悩しました。両手を上げて天を仰ぎます。おお神よ、なにゆえわたしにこのような試練を与えたもうたのか。ただの善良なグレⅡオタでございます。病めるときも健やかなるときも、他のジャンルに目移りすることなくただひたすらにオリヴィエ様を崇拝してきただけのはした女でございます。おお、かようにわたしを試みられるとは、その御心はたどり難くそして探り難い。
「もーーーーーー! ソノコったらーーーーーー!」
洗面台の前で左手を洗うかどうか迷っていたら、レアさんに背中をおもいっきり叩かれました。その反動で左手が水に浸かったので洗うことにしました。じゃぶじゃぶ。なんなら顔も洗っていろいろ覚醒したいんですけど、せっかくレアさんが作ってくださった自分史上最高のモンドセレクションにノミネートされてもおかしくない顔なので。これ崩せないので。やめておきます。
「もうーちょうキュンキュンしちゃった~! なによっ二人で手ぇつないじゃってえー‼」
がふっと吐血しそうになりました。むり。しぬ。直視しきれない眩しい現実。しぬ。今日がわたしの命日なのか。――悪くない。悪くない人生だったよ。わたしなりに幸せだった。
「すっごい妬けちゃったから、あたしもミュラさんと腕組んじゃった♪」
――おお、殉教者ミュラよ。あなたの今の状況が手にとるようにわかる……。
なんにせよ、これでコンサートは終了です。どうやってレアさんがオリヴィエ様を担ぎ出したのかは帰宅してから問い詰めます。
「ああ、はやく帰ってアシモフたんをもふもふしたい……」
思わず本音をこぼしたら、レアさんが非情にもおっしゃいました。
「この後ディナー予約してあるから。大勢で食事とかひさしぶりだわー!」
ぜったい喉を通らないと思うんですよ。
【20241102追記】
エボニー・ベソンがこのときに歌った曲を、YouTubeにアップしました
お時間があるときにでもご視聴ください
あでやかなバラのように
https://youtu.be/o5hXR1AdCZs






