33話 エモエモい
こんにちは。ちょっとの時間が経ちました。
トビくんは退院できました。一度だけこっそりお見舞いに行かせてもらいました。オレリーちゃんもいて、わたしの顔を見るなり「ソノコ、ごめんね」と泣かれました。おにいちゃんにこってり怒られたみたいです。「わたしこそ、ごめんね」と、ちょっと涙ぐんでしまいました。ぎゅっとハグして仲直り。
「ソノコ、ありがとう。おれの治療費払ってくれたの、ソノコでしょ?」
やっぱりバレてました。「なんのことでしょう?」とはぐらかしておきました。だって、トビくんもオレリーちゃんも働かなくちゃいけないくらい生活がたいへんなのに、柱のトビくんを怪我させちゃったんですから。今はどうやって生活されているんでしょう。
「なにか必要なものはない? オレリーちゃん、晩ごはんとかどうしてるの?」
「だいじょうぶだよ、ありがとう。ラ・リバティのみんなも心配してくれて、様子を見に行ってくれているんだ」
「そう、よかった」
トビくん、やっぱり若い。ぐいんぐいん回復したみたいです。病院食で栄養をつけられたのも良かったんでしょうか。退院するころには背もちょっと伸びたみたいで、喜んでいました。
「あのね、ソノコ」
ベッドの上に半身を起こしながら、トビくんは真剣な顔で言いました。
「今回は、すごく悔しいけど……おれ、がんばる。強くなるから。がんばって、体鍛えて……ソノコを守れるような男になる」
ぐっときました。イケメン。イケショタ。すてき。でもそのままのあなたでいてほしい気もする。そのままかっこかわいいショタでいて。ムリだけど。
「……ありがとう、感動。こんなおばちゃんに、そこまで言ってくれてうれしい……」
素で返すと、トビくんが「おばちゃん?」ときょとんとします。
「え? ソノコいくつなの?」
「二十七」
トビくんが硬直しました。「ママンとおなじ!」とオレリーちゃんが声をあげます。そうかー、やっぱそうかー、そんな気はしていたがそうかー……。
しばらくの後、再起動して「うん……おれ、がんばるよ」とトビくんが言いました。ありがとう少年。本当に心が潤ったよ……。
「ところで、引っ越しの件、どうなったの?」
気遣わしげに聞いてくれました。かわいい。トビくんだいすき。わたしは少しだけ肩の荷を下ろした気分で、偽りではない笑顔で言えました。
「うん。決まったんだ。来週引っ越しするよ」
大手の引越会社に運搬のお願いをしたら、どうやら総合商社『リュクレース』の子会社だったみたいです。シリル・フォールさんはわたしが引っ越しをすると言ったことを覚えていてくれたみたいで、わたしからの要請があったら最大限のサービスを提供するようにと鶴の一声をけっこう前から響かせてくれていたみたいでした。
窓口でわたしが氏名を記入した紙を見て、受付の女性が硬直しました。即座に応接間へ通されて、お茶を出されて、揉み手な感じでちょっと小太りの偉いおじさんが出てきて、完全おまかせコース特約つきを無償でやってくださることになりました。シリルさんすげえ。お歳暮送らなきゃ。
引っ越し先は、新聞の折込チラシに入っていたルームメイト募集の件です。面談でお相手の女性の顔を見、名乗りを聞いたときに、アベルとはお別れになるんだ、と察しました。リシャール専属諜報部隊『グロリア』の構成員のひとりだったからです。
わたしは、もう『ジル・ラヴァンディエ』を着けるほど脅威とはみなされなくなったのでしょうか。それは、とても良いことのように思えました。でも、少しだけさみしかったです。そんなのわがままですけど。
そして、当日。
朝から大げさな人数の作業服の男女がやってきました。そんなに荷物はないのに。わたしはまだユーグさんに謝れてなくて、アベルにありがとうって言えてません。
女性作業員さんがまず中に入って、梱包すべきものを選り分けて行きました。壁に貼ってあったオリヴィエ様のポスターとファンサうちわは、回収しトートバッグに入れて持っています。それと、アベルが買ってくれた子犬の置き物を、ハンカチにくるんで。
完全おまかせコースなので、完全におまかせします。時間と手順を責任者さんとすり合わせて。――いざ! 謝罪! ユーグさんへ!
開店したばかりの雑貨店に入って、「ごあいさつに伺いました」と言うと、少しだけ困ったような顔でユーグさんは微笑みました。この物件には二カ月ちょっとしか住みませんでしたけども。初めての土地で、初めての生活が、ここで良かったと心から思っています。
お世話になりましたっていうことと、変な態度取ってごめんなさいを伝えました。そして、わたしみたいな変な外国人によくしてくれてありがとう、と。ちょっと泣きそうです。二つ隣の区に引っ越すだけなんですけど。自慢じゃないですけどわたしここに友だちどころか知り合いもぜんぜん居ないんで。ほぼ毎日顔合わせていた、親しい人と離れるのはなにげにしんどい。
握手して、元気でね、とお互い言い合いました。またきてね。はい、きます。なにかあったときのために新住所を書いてお渡ししました。手紙書いていい? と聞かれたので、もちろん! と言いました。仲直り、できたと思います。
梱包された荷物が運び出されて、家具も運び出されます。前の住人さんが置いていってくださっていた文机と椅子は、そのまま置いていきます。ありがとう、いっしょに暮らせて楽しかった。ちょっと触れて、別れを惜しみました。清掃が入りましたが、キッチン周りが少し汚れていたくらいで、時間がかかりませんでした。
責任者さんから荷物がすべて積み込まれたことの確認を頼まれました。先方へ運んでくださって、事前にしたわたしの指示通りに設置してくださいます。わたしはここの鍵を不動産屋さんへ返しに行き、その足で新しい住まいへと向かいます。
がらんとした部屋の真ん中に座って、ここに来た初日のことを思い出しました。あのとき、今後のことと、これまでのことを考えて、買ったばかりのクッションを枕にして泣いて寝たのでした。なんの見通しも立たなくて、どうしたらいいのかわからなくて。今も状況はそんなに変わらない気もします。それでも、少しは前向きになれたようにも思います。手探りで這い上がっていくような歩みだけど、わたしにはそれぐらいでちょうどいい。
立ち上がって、壁に手を当てました。額を寄せて、ノックします。
「アベル。居る?」
返事はありませんでした。でも聞いていると思います。
「あのね、わたし。あなたがいて楽しかった。いっぱいありがとう。元気でね」
部屋を出て、鍵を閉めました。階段を降りかけたときに後ろから腰を取られて、抱きかかえられました。びっくりして声が出ました。
「なんでそーいうこと、直接言わねーんだよ」
不機嫌を装った優しい声が聞こえました。だめ。むり。わたしは両手で顔を覆いました。泣く。むり。
「だって、顔見たら泣くもん」
「見せろ」
「やだー!」
じたばたしたけど無駄でした。鼻水出てきました。トートバッグからティッシュを取ろうとしたら手をつかまれました。卑怯者。「泣いたらさすがにブサイクだな」と笑って言うので、バシバシ叩きました。
「今生の別れでもないだろ。生きてりゃまたいつでも会える」
わかってますとも。それでも今このときがエモいんだよ‼
「アベルは? ずっとここに住むの?」
「いやー……立て込んでて。次の仕事行くわ」
それって危険? 聞きたかったけど、聞けませんでした。
「またこっち戻ってきたら、顔見に行くから」
「ぜったい?」
「絶対」
「約束ね?」
「約束」
鼻をかんでから握手しました。「元気でね」「おまえもな」手を離そうとしたらそのまま引かれて、ちゅーされました。口にちゅー。ふざけんな。
「なにすんだキサマ‼」
バシバシ叩きました。アベルは爆笑していました。どちくしょう、乙女の初ちゅー返せ‼






