240話 それだれ、それだれ?
ちょっと少ないけどごめんよ
「――僕が、ここへ立つに至ったのは、多くの人の助けによるものでした」
真新しい校舎。真新しい制服。遠くに見えるのは、これまでのどの顔よりも大人びた表情。伝声管を通して講堂の隅々まで届いたその声は、自分のことを『おれ』って呼ばない。ちょっとだけさみしいような、でもそれをずっと上回るうれしさ。
「文字が読めない両親に代わって、読み書きを教えてくれた大人たち。それに、数の数え方、金子の扱い方。あいさつの仕方に至るまで、学校に通えずとも、僕は多くの人から学んできました」
わたしの隣りに座って速記しているラ・リバティの記者さんが、感極まったようにどっと泣いて鼻をすすりました。早い。早いって。まだ生徒代表あいさつ始まったばっかり。わたしたちの前方の来賓席に座っているヤニックさんも、懐からハンカチっぽいもの出したな。見たぞ。
「そして、なによりも得難かったのは、自分の置かれた環境に嘆くだけの人間にならないようにと鼓舞してくれる人々の存在でした。彼らは言葉によらずとも、その背中で僕に手本を示してくださいました。あるときは厳しく、あるときは優しく。僕には、僕の未来があるのだと絶えず気づかせてくれました」
講堂には、たくさんの生徒たち。その中のどこかに、きっとオレリーちゃん。それに生徒たちの親御さん。ヤニックさんの隣りには、わたしと同い年だっていうトビくんたちのお母さん。……お父さんは、行方知れずなんだって、聞きました。
「自分の境遇をうらめしく思ったことが、まったくないとは言えません。けれど僕は、本当に幸せな人生を歩んでいると感じます。今日、この学校の開校に立ち合えたこと。拓けた未来の音を聞けたこと。闇雲ではない歩みの導きをもらえる機会に与れること。そのすべてが、かけがえのない宝です」
わたしも泣きそうになりましたけど、ガチ泣きしている人が傍にいると涙ってひっこみますね。
「僕は生涯、忘れないでしょう。これまで僕へと差し伸べられてきた手を。この学校は、僕がこれまで得てきた助けを、より多くの子どもたちへと示すために多くの役割を担います。この学校の建設と開校は、希望です。環境に、状況に飲み込まれてうつむいてしまわないための、希望です」
生徒たちの中に、トビくんとオレリーちゃんみたいな家庭環境の子は、どれくらいいるんだろう。たくさんじゃないかもしれないけれど、きっとトビくんが代表あいさつに選ばれた理由となるくらいには、いるんだろうな。
「僕たちは生涯、感謝するでしょう。僕たちへ未来を選択できる道を示してくださったことを。僕たちは研さんし、互いに励まし合い、各々で歩いて行きます。今日こうしてここに集い合えたことを誇りに思い、己の足で立つことを学んで行きます。そう、はっきりと希望しています」
生徒たちの幾人かの頭が、動いた気がしました。希望。学べることが希望。日本で問題なく義務教育を終えて、職業訓練すら受けられたわたしにとって、ここにいる子たちはわたしよりもずっと大人に思えました。
「この学校の理念である『平等な機会』。それが僕たちにとって翼に等しいものであることを、これからの僕たちが実証して行きます。僕たちは、ここへ参りました。最善を尽くすために。ありがとうございます。すべての人へ感謝します」
すっと前を向いたトビくんが一礼すると、拍手が湧き上がりました。すごいよね。この祝辞、トビくんが考えたんだよね、きっと。隣りの記者さん再起不能。拍手にまぎれて思いっきり鼻かんでる。
進行役の方が出てきて「創立者の表彰をいたします」とアナウンスしました。トビくんは少しだけステージの端へ下がりました。演壇が下げられて、伝声管だけがセットされます。校長先生がその脇にやって来ました。
「――では『エコール・デ・ラベニュー』の創立者、オリヴィエ・ボーヴォワール宰相閣下をご紹介いたします」
わたしは思わず「えっ」と声をあげてしまいました。拍手で響かなかったのが幸いでした。この学校オリヴィエ様が創ったの? さすが。最高。冴えてる。すてき。かっこいい。舞台袖から颯爽とオリヴィエ様が現れました。そして、伝声管の前に立ちます。
「――この学校は、すべての子どもたちが平等な機会を持ち、希望に満ちた未来を築くための教育環境を提供することを目指して設立されました」
講堂内に響く落ち着いた男声を聴きながら、わたしはもう遠い昔のことのように思える、いつかの経団連フォーラムを思い出していました。
「貧困や社会的な格差によって影響を受けることなく、あらゆる子どもたちが自分の可能性を最大限に発揮し、個々の才能や能力を伸ばすことができるよう支援したい。そして、教育とはそうあるべきであることを私たち自身が各々学び、決して忘れることのないようにとの願いもあります」
すごいね! オリヴィエ様さすがだね! もうにこにこしちゃう! 経団連フォーラムのときもそうだったけど、なにも見ないですらすらあいさつできちゃうのもかっこいいよね! おしむらくは、ここからじゃ小さすぎてあんまり見えないってことですね!
「先ほどの生徒代表あいさつを聞き、私はこの取り組みが今後この国の支えとなっていくことを確信いたしました。私こそが、感謝すべきと感じます。生徒のみなさん、ありがとう。私はあなたたちにこそ、希望を見出しました」
手短なそのあいさつにも拍手が湧き上がりました。そして、校長先生から賞状のようなものがオリヴィエ様へ贈呈。その次に、トビくんが表彰盾みたいものを手に、オリヴィエ様へ向かいました。何拍か後に、校長先生みたいに渡します。オリヴィエ様から手を差し出して、二人は握手をしました。
「――僕は、好きな人がいます」
握手したままの状態で、トビくんが言った言葉を伝声管が拾いました。おやあ? 校長先生がちょっとあわてています。
オリヴィエ様は「そうか。それはすばらしいことだ」とおっしゃいました。
「僕に、妹に。そしてここにいる他の生徒たち全員へ、この学校への道を示してくれたのもその人だった」
「――よく、わかるよ」
二人は握手したまま、じっと見つめ合っていました。そのふたつの横顔の表情を知るには、ちょっと距離があり過ぎました。ざわざわと講堂内が静かにどよめきます。なんでだかヤニックさんがこっちを振り向き、首を何回か行ったり来たりさせました。
「――僕が、先に好きだったのに」
トビくんはつぶやきました。オリヴィエ様が、少しだけ笑ったように見えました。
「悪いね。私がいただくよ」
トビくんは「性格わるいね、あんた」と言って、つないだ手を上下させました。






