221話 ガチでどんな顔したらいいかわかんないんですよね
うつらうつらして、浅い眠りを何度か繰り返して朝が来ました。カーテン越しに早朝の光がおぼろげにベッドまで届きます。布団の中で伸びをしたら、体がバキッと言いました。
すっきり目が覚めたわけではないんですけれど、それでも二度寝はできそうにありませんでした。でも、ちょっとでも眠れてよかったです。
ぼんやりと昨日の夜のことを考えてしまいます。でも、意識的に頭の中を空っぽにする努力をしました。無。わたしは無になる。考えない、考えない。……泣かない。
かなり早く起きてしまったので、まだマチルドさんはいらしていません。昨日のうちに今日の哀悼服は受け取っていたので、ベッドから這い出て着替えました。顔を洗いたいんですけれど、毎朝マチルドさんが洗面器を準備してくださっていたので、洗面台の蛇口のひねり方がわかりませんでした。なんかこう、なんかこう、ぐるってしてる。どっちに回せばいいのこれ。わかんない。
ひとりで格闘していたら、小さいノックがありました。マチルドさんかな? 早いけど、よもやわたしが起きたことを察して……? それはもうメイドの頂点に君臨する有能さではないでしょうか。キングオブメイド。さすがマチルドさん。さすマチ。返事をしてドアを開けました。
「――よお」
「なんだアベルか」
「なんだってなんだよ」
ちょっとむっとしていました。きれいなお姉さんを迎えたと思ったのにアベルだったら「なんだ」ってなるでしょうよ。それは言いませんけど。「外、行かね?」と言われたので「待って、頼みがある」とわたしが返すと、アベルがすっと真剣な顔になりました。
「――なんだ?」
「顔洗いたい。あの蛇口、どうやってひねるの。教えて」
何拍かあとにため息をつかれました。なんだよ。
早朝の廊下は静かながらとても忙しそうな空気感がただよっていました。警備さんの服を着たアベルを従えたわたしを見ると、早朝勤務のみなさんはどなたも一礼されました。本当はわたしの側からそれに返してはいけないそうなんですけれど、条件反射でおじぎしてしまいます。ここ数日そんなわたしを、オリヴィエ様は笑ってご覧になっていました。
アベルは、たぶん、昨日わたしが目撃した場面を知っているのだと思います。
東側の出入り口から外に出ました。正面玄関からだと、わたしが滞在している部屋から見える景色のところへ出ちゃうから。アシモフたんのお部屋もこちら側にあるけれど、あの子はお寝坊さんなのでまだ夢の中じゃないかな。
しばらく歩いてから「で、なによ」とわたしは水を向けてみました。腹のさぐり合いみたいなのは得意じゃない。アベルは「凹んでんのかなーって思ったんだよ」と、言葉を隠さずに述べました。
「まあ、そこそこ」
「俺が言うのも、なんか、変なんだが」
前置きしてから、アベルは黙りました。わたしはその次の言葉を待ちながらてくてくしました。お庭の整備をされている方たちはみんな早起きですね。そこかしこでお水をあげている。
ベンチがあったので座りました。アベルも隣に座りました。そして口を開いて「……思ったこと、感じたこと、一度宰相殿に言ってみるのがいいんじゃねえかな」と言いました。
「むり」
「なんで」
「……自分でも、なんか、よくわかんない」
それに、すごく汚い感情。もやもやがまた湧き上がってきて、心臓のあたりが刺すように痛くなって、わたしは座ったまま前傾しました。アベルが「おい、だいじょうぶか⁉」と背中をさすってくれました。だいじょうぶじゃないやい。ちょっと涙目になりました。泣くのを見られるのはしゃくなので「うー、うー」とうなりながら涙をこらえました。ちょっとだけスカートの膝小僧のあたりが濡れたのは気のせいです。
「……言ってみろよ。聞いてるから」
アベルがやさしい声で言いました。こいつときどきいいやつだと思います。わたしは頭の中がぐるぐるして、寝起きの頭で結論にたどり着きました。前傾したままそれを口にしました。
「――しょせん、おっぱいか」
「ぶっ」
アベルが盛大に吹き出しました。こちとら大真面目ですが。ひとしきりけたけた笑ってから、アベルはわたしと同じように前傾しました。
「――それはな、一理ある」
「あんのかよ」
「だがな、世の中には腰派もいることを忘れるな」
「あっはい」
朝っぱらからなにを話しているんでしょうかわたしたちは。でもおかげさまで、もやもやがふやふやくらいになりました。起き上がって「ありがとう、アベル」と言うと、アベルも体を起こして「おうよ」と言いました。
べつにほかに話すこともなくて、しばらくいっしょにお庭をぶらぶらしました。知らないお花の名前を教えてもらったり。そしてアベルが「そろそろ戻った方がいいんじゃねえかな」と言ったので、お部屋へ向かいます。
「……あのさ、ありがとう、アベル」
「おうよ。もっと感謝しろ」
「めっちゃしてるよ、感謝。わたし、アベルが友だちでよかった」
階段を登りながらそう言ったら、アベルの足が止まりました。そちらを向いて「どしたん?」と聞いたら、すごくうらめしそうな顔で「そういうところだぞ、おまえ」と言われました。どういうところなんでしょうか。
朝食の席で、オリヴィエ様と顔を合わせるのがしんどいなって思ってしまいました。なので、マチルドさんへ「あの、わたしが哀悼客さんとご一緒したら、だめですかね」と言ってしまいました。……ジゼルさんもいらっしゃるけど。今はオリヴィエ様に会う方が、しんどい。朝ごはんをいっしょに食べて、お見送り。一時間くらいだ。どうにかなる。マチルドさんはめちゃくちゃ驚いて「どうなさいました、なにかございましたか?」と気遣って理由を聞いてくださいました。わたしは「やっぱり、責任をちゃんと果たさないのは、いけないかなって」と言いました。
「――奥様へお知らせして参ります。少々お待ちくださいませ」
風のように去って行かれて、忍びのように戻って来られました。はい。マチルドさんが「ブランディーヌ奥様がこちらにみえます」とおっしゃったので、姿勢良くお迎えしました。
「――ソノコさん。今日のお見送りの方たちを、だれかご存じですか?」
「はい、伺いました」
「……わたくしはね、オリヴィエの大切な人を、傷つけたくないのよ」
もう傷ついているのでだいじょうぶです。それに、わたしがオリヴィエ様の大切な人なのかも、わからないです。そんなこと言いませんけど。わたしは「あの、今日ここで逃げたら、きっとこれからもそうなると思うんです。もしわたしのためを思ってくださるなら、やらせてくださいませんか」とそれっぽいことを言いました。なんてずる賢いんだろうね、わたし。
宿泊された哀悼客を見送ったら、もうすぐに本日の哀悼客がいらっしゃいます。なのでそれで、しばらくはオリヴィエ様と向き合って話さなくてすむ。……怖くて。とても怖くて。
ブランディーヌお母様は、オリヴィエ様そっくりの顔でほほえまれました。そしてわたしの手を取って「あなたが来てくださって、本当によかったわ、ソノコさん」とおっしゃいました。騙してしまっているうしろめたさから、わたしは下を向きました。
朝食とお見送りは、一度だけしました。手順はそれと同じとのことです。前回は本当に緊張したんですけれど、今は心が凪いでいます。ただみなさんとごはんを食べて、それが終わればお見送り。哀悼の食卓での過度な会話はふさわしくないと言われているらしくて、必要最低限のやり取りしか生じません。それにもちろん給仕の方たちもいらっしゃるし。時間もちゃんと決まっている。ちょっとだけいつもよりしっかりとした化粧をしました。マチルドさんが「すてきです!」と太鼓判を押してくださいました。
哀悼客のお食事の場へ行く途中、廊下の向こう側にオリヴィエ様の姿が見えました。ちょっと焦った感じでこちらに来ようとされたのを目の端に確認して、わたしは階段を駆け下りました。
「――えっ、お嬢さん! すてきな朝にあなたと会えて、なんてわたしは幸せ者なんだ!」
ノエルさんでした。靴は両足履いていました。わたしは「おはようございます」と言って、ノエルさんといっしょにお部屋へ入りました。オリヴィエ様が追いつく前に。
一身上の都合により、アナベルさんをマチルドさんへ改名しております、はい






