202話 じゃあね、みんな元気で
愛ちゃんはここじゃないどこかを見るような目で、「あたしは、あんたに会えてよかったと思ってる」と言いました。
「でも――あんたがいなくなった九カ月間。とくにあたしは変化のない生活をしていた。あんたがいなくても、あたしは生きていける。きっとあんたも、あたしがいなくても生きていける」
車をゆるゆると発進させながら、愛ちゃんは「あらためて、そのくらいの距離感だってわかったよ。――だからこそなんだけどさ、あたしにも、あんたにも、お互いが必要だったんだろうとも思ったんだ」と言葉を続けました。
道なりに進んで行く車は、どこへ向かっているのでしょうか。たぶん、どこでもないような気がします。
「こんな言い方で合ってるかも、あたしの考えが正確に伝わるかもわからないんだけどさ。あたしらは、未来に互いがいなくても、もう十分だと思った」
――なんとなく、愛ちゃんの言いたいことがわかって。でもわたしの未来に愛ちゃんがいないこと、わたしがそれを選択しようとしていることを考えて、わたしは泣きました。わかっていたけれど。……わかって、いたけれど。
「――あのね、これは決別じゃない。だから、さよならとか、言うつもりはないよ。あと、心はともにあるとか、くっさいこと言うつもりもない」
一希兄さんからのメールを思い出しました。……くさくない! くさくないよ! わたしが最大瞬間風速十メートルくらいの心中で一希兄さんを擁護していると、愛ちゃんは「ただ、あたしらは、もう十分あたしらだったじゃん」と言いました。
夏の夕方なので、まだまだ日が高くて空は青の端に少し朱が交じるくらいでした。車は川沿いに伸びる簡素な舗装道を走っていて、並木が青々とした公園に差し掛かったところで、停車しました。一呼吸置いてから、愛ちゃんは「配信するわ」と言いました。
「今?」
「うん、野外ゲリラ。五曲だけ」
涙を拭いて、車を降りました。愛ちゃんが車のトランクを開けたので、ギターを取り出すのかと思ったら、わたしのキャリーのトランクバッグを出していました。ギターは後部座席から。のりたけさんといっしょに。
「……一曲聴いたらさ。行って。それでいい」
公園のベンチに腰掛けて、愛ちゃんは自分の隣にスマホスタンドを立てました。「あー、あー、本日晴天なり。聴こえるか?」とギターをかまえてリスナーへ尋ねる、その背中をわたしは見ました。
「――今日はさ、またゲリラ祝い枠。……S美が、嫁に行った」
ほろっと、涙が出ました。過去形なのがつらいのか、悲しいのかわからなくて、でもそんな気持ちは持ってはいけない気がして、わたしはただまばたきもしないで愛ちゃんの背中を見ていました。のりたけさんが、わたしの脚にやさしくひとつ頭突きしてから、いっしょに愛ちゃんを見ました。
「じゃあ……どうすっかな。……――ピノキオピー『きみも悪い人でよかった』で。歌詞間違ったら許せ」
……泣いて。吐きそうなくらい泣いて。でも声を出さないようにがんばって。のりたけさんがもう一度頭突きしてくれて。最後のフレーズが終わったところで、わたしは愛ちゃんの背中へ向けて、深々とおじぎをしました。そしてのりたけさんの背中を、ひとなでして。
音を出さないようにキャリーを引いて、歩き出しました。
「……ぅっわスパチャ切んのわすれてた、赤けぇ! えーっと。――Kazukiさんにカフェオレさん、ありがとう! あと、まこっちゃんさんは、初見かな? あざっす! 犬のエサにするわ! ……えー、じゃあ次は……」
ちょっと笑ってしまいました。……だいじょうぶ。やさしい思い出を持っていける。前を向いて、歩きました。
住宅街に入りました。行く宛があるわけではなくて、ただ移動しまくるために町内地図を見ながらバス停を探しました。途中でポストを見つけたので、一通投函しました。
来たバスに乗って。行き先も確認せずに乗ったら寝てしまって、ふっと気づいたら車外が暗くなっていました。びっくりしました。あわてて停車ボタンを押して、次のバス停で降ります。降りてから、後悔しました。
…………どこやねん、ここ。
とりあえず、バスが去って行った方向へ歩きました。道なりに。ぜんぜん知らない住宅街。人通りはない。暗い。さすがに怖い。ちょっとしたら川があって、遭難とかしたときは水場の近くにいた方がいいような気がする、というざっくりサヴァイヴ知識で川沿いの道へ曲がりました。とりあえず今夜どこで寝よう。寝袋持ってきてよかった。スマホないとまじでなにもできないね、現代人。
やぶ蚊とかがいなさそうな寝床を探しながら歩いていたら、川の流れの他にあきらかに違う水音が聞こえてきました。もう少し歩いたら、がこん、がこんという音もともに。
街灯の下に立って、真っ暗な前方を目を凝らして見たら――水車がありました。
はっと息を飲みました。わたしが、アウスリゼから福岡へ飛ばされたとき。……王杯とともに、そこにあったのは水車でした。――これだ。きっと、これだ。確信して、わたしはトランクバッグのキャリーを一度立てて体勢を整え「よし」と気合を入れ、もう一度グリップを握り水車へ向かって歩き始めました。そのとき。
カタン。
なにかが転がり落ちた音がして、わたしは足を止めました。振り返ると、街灯の下にモアイこけしが。やだ、勢い余ってトートバッグから飛び出たの。わたしはキャリーから手を離してモアイこけしを拾いに行きました。そしたら。
ころん。モアイが転がります。もう一度手を伸ばして。ころん。もう一度。ころん。
「えっ……?」
驚いて、じっと見ていると、少ししてからモアイこけしがカクッと立ち上がりました。……やっぱり動けたのかおめー。こちらを向いているのでしばらくじっと見つめ合い、しゃがんだままわたしが手を伸ばすと、ぴょんと後ろへ飛び退きました。もう一度。ぴょん。
……待って。なにそれ。
え、もしかして。
「…………残る気なの」
わたしが尋ねると、うなずいたような気がしました。顔も、姿かたちも、なにも変わっていないのに、けれど彼が決然とした表情でわたしを見ているのがわかりました。わたしはびっくりして言葉が出なくて、手を伸ばした姿のまま固まりました。
だって。
だって。
「――あなた、あっちに『家族』がいるじゃない」
ぽろり、とモアイの目から涙がこぼれました。わたしはびっくりして。本当にびっくりして。連れて帰らなきゃっていう、そんな焦りの気持ちになって。わたしが説得の言葉を口にしようとしたとき、モアイはそれを拒むようにもう一歩ぴょんと後ろへ下がりました。もう決めたんだ、とその表情が語っているかのようで、わたしはなんて言っていいのかわからなくて、泣きました。思わず、泣きました。
「――『家族』と別れるの、つらいよ。……ねえ、もう会えなくなるよ」
ぽろぽろと、モアイが泣きました。わたしも同じくらい泣きました。でも彼はそこから動かないと言うかのように、しっかりとそこに立っていて。わたしは鼻水をすすって、手の甲で目をこすって、そして、もしかしてと思って尋ねました。
「……わたしの代わりに、残ってくれるの? ……わたしの代わりに、みんなといっしょにいてくれるの?」
泣きながらでも毅然とした態度で、モアイはわたしの言葉へ首肯しました。
すると――白いもやが、少しずつわたしたちの周りに立ち込めてきました。いっしょだ、あのときと。福岡に飛ばされたときと、同じもや。わたしとモアイは互いに泣きながら、伝えるべき言葉を探していました。
「……あのね。わたしね。ここに大切な人がいるの。たくさんいるの」
嗚咽混じりにやっとわたしが言うと、モアイは泣きながらコクリとうなずきました。「――あのね、愛ちゃん。大好きなの」コクリ。「兄さんたち。一希兄さんは西麻布で、今はザンビア。勇二兄さんは品川駅直結のマンション。遠いよ?」コクリ。「彩花ちゃんは小田原。ちーちゃんのおうちはわかんないや。迷子になるかもよ?」コクリ。「それに、それにね、よしこちゃん。福岡。加西くんもいる。遠いよ? 新幹線乗れる?」コクリ。「あのね、みんな、みんな、わたしのこと大切に思ってくれた人たちなの。大切なの」コクリ。
「――みんなのこと……見守っていてくれる?」
モアイの涙は止まっていて、わたしだけ号泣していて。任せろと言わんばかりに、彼はまたうなずきました。わたしは、ただ「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう」と、それしか言えなくて。
「わん!」
わんこの元気な声が響きました。わたしはびっくりして辺りを見回します。すると背中にずしっと白い重みがのしかかりました。えっ⁉
「――アシモフたん⁉」
おっきくなってるーーーー!!! しっぽをぶんぶん振りながら、ぐるぐるとわたしの周りを何周もします。そしてお座りしてもう一度「わん!」と吠えました。わたしのスーツの上着をくわえて引っ張ります。
「まって、アシモフたん、まって!」
転けそうになってそうお願いすると、やめてくれました。おりこうになってるーーーー!!! びっくりしてとりあえずその姿を見ていると、アシモフたんはモアイの方を向いて「わん!」と言いました。
「――えっ、あれっ? のりたけさん……?」
ゆっくりと街灯の下へ姿を現したのは、夕方にお別れしたはずののりたけさんでした。アシモフたんはのりたけさんのところへ行ってやっぱりぐるぐるして、ふんふんと匂いを嗅ぎました。そしてお顔ぺろぺろ。のりたけさんもお返ししていました。
それから。ゆっくりと、のりたけさんがモアイをくわえました。
「えっ、ちょっ、のりたけさん……!」
思わず立ち上がると、白いもやが視界をさえぎるほどに濃くなって来ました。アシモフたんがわたしの元にやってきて、またジャケットを引っ張ります。のりたけさんを見ると、モアイをくわえてお座りし、こちらを見てゆっくりとしっぽを振っていました。
まるで、手を振ってくれているかのようだ、と思いました。
『――たけー! のりたけー! どこ行ったー!』
愛ちゃんの声が、なにかを通したかのようにたわんで聞こえました。のりたけさんはその声に反応し、腰を上げてゆっくりと振り返り、歩いて行きます。
モアイと目が合いました。顔は変わらないのに、彼はとても穏やかな表情をしていました。わたしは涙を拭いて。おじぎをしました。
その瞬間、ぶわっと背後からものすごい量の白もやが来て。
『――うわー、いたっ! のりたけ、おまえ走れたのかよ! どっか痛めてないか? てゆーかなにくわえてるん?』
愛ちゃんの声がどんどん遠ざかって行きます。
『――なんだこれ。……へんなの』
それはそう。それはとてもそう。
『――あー、でも、なんか。園子っぽい。間の抜け方が。こんな濃い顔じゃないけど』
それはないんじゃないかい愛ちゃーーーん!
『――なんだよ、気に入ったのか?』
のりたけさんがかすれた声でお返事するのが聞こえました。
『……わかったよ。持って帰ろう』
それを最後に、すべての音が消えて。わたしの記憶もホワイトアウトしました。
一縷『きみも悪い人でよかった』ピノキオピー(cover)
https://youtu.be/CZurmcbDoc0?si=Pf-lyrJR1-akw3GP
この章書く間、「愛ちゃんだー」と何度も聴いていたカバーです
原曲はこちら(ボカロ注意)
ピノキオピー - きみも悪い人でよかった feat. 初音ミク / I'm glad you're evil too
https://youtu.be/PLevj9bdRRA?si=ljKmLzMp8QIrifrt
『三田園子』という人 これにて終わりです
この章だけで約20万文字、お付き合いくださりありがとうございました
27(月)に蛇足更新をします
終章は12月4日(月)~です
よろしくお願いいたします






