201話 なんて言っていいか、わからない
昨日買って届けてもらったスーツケースは、午前中のうちに届きました。それに、断捨離してから増えた物を入れて行きます。
まず、一希兄さんから買ってもらったダンボールふたつ分の衣類や服飾雑貨。それだけで九割埋まってしまいました。容量足りてよかった……。そこに、ちーちゃんと彩花ちゃんからのお祝い品。いちおう黒バッグも持っていこうと思って、いっしょに入れました。
もう戦友になっている白トートバッグへ、ぬいヴィエ様と一希兄さんが取ってくれたわんこぬいを入れました。それにモアイこけし。わたしが持ち歩いていたノートに、勇二兄さんがくれたレシピブック。印刷した写真やメールやチャットの文面をファイリングしたものを二冊。
もう一冊のファイルは、わたしの思い出写真で埋めて、置いていきます。オリヴィエ様といっしょに公使館で撮った写真もそこに入れました。
部屋の中のゴミを片付けました。掛け布団やシーツや枕カバー類は、昨日のうちに洗って干して。寝袋で寝ました。そうだ、なにかあったときのためにこの寝袋も持っていこう。まっすぐにアウスリゼに帰れるかもわかんないし。ていうかどうやって帰るの。最近夢も見ないんだけど。連絡ちょうだいよ、コップさんよ。とりあえず、どこかでコンタクトがあるだろうと思って、今日は移動しまくろうと思います。
取り込んだシーツや布団をたたんで。ベッドへ置きます。テーブルには、わたしが使っていたノートPC。パスとかぜんぶメモして挟みました。そして写真ファイルの上に、小田原で金子家の光也くんがくれたマイクロSDカードのケースを置きます。先日、兄さんたちへのメッセージを動画にとって、ファイルを追加してあるんです。お手紙も書いて渡したんですけどね。勇二兄さんには昨日。でも、なにか残しておこうと思って。
洗ったシャツを着て。パンスト履いて。スーツを着ました。べつにスーツの必要ないんですけど。なんとなく。部屋を見回して、確認しました。
「――お世話になりました」
声に出して、頭を下げました。少しの期間だったけれど、たくさんの思い出を作ってくれた八丁堀の部屋。ここがなかったらきっと、こんなにすっきりとした気持ちで日本を去ることなんてできなかったはずだ。
わたしは勇二兄さんへメッセージを送りました。『ドアポストに鍵を入れて行きます 本当にありがとう 元気でね』送信のタップをするとき、少し指が迷いました。押したら、すぐに電話があって。
『――待って。すぐ行く、待ってて。たのむから』
本当に、二十分くらいで来られました。三田本社からだよね? 信号ちゃんと守った? と思ったら「――なんか、そんな気がして。こっちに向かってたんだ」とおっしゃいました。
「これ……あとで読んで」
胸ポケットから、ちょっとよれた白い洋封筒を取り出して渡してくれました。「えっ、ありがとう。今読んでいい?」と聞いてみたら「あとで! あとでにして!」と赤面気味に言われました。はい。承知しました。
「それと。……ここの鍵は、持っていてほしい」
勇二兄さんがそうつぶやきました。なんで。わたしがその顔を見返すと、兄さんはちょっと作ったようなぎこちない笑顔で、「――そしたら、いつでも帰って来られるだろ」とおっしゃいました。さすがにちょっと涙が出ました。ちょっとだけ。わたしが「わかった」と言うと、勇二兄さんはハグしてくれました。わたしもぎゅっとしました。
「……ここのベランダから、隅田川の花火が見えるんだ」
わたしは目線をベランダへと向けました。建ち並ぶマンションの隙間に、そこだけ自由を主張するかのような、ぽっかりとした青空。ちょっとの期間で、こんなにも見慣れた景色。
ああ、あそこに打ち上がるんだ。きっときれいだろうな。
「……いっしょに、観れたらいいと思っていた」
なんて言っていいかわからなくて。わたしは「ごめんね、ごめんね」と言いました。「謝んなよ、引き留めたくなるだろ」と言いながら頭をなでてくれて、どうしようもなくて、涙がぼろぼろ出てきて。ちょっと泣きました。ちょっとだけ。
わたしは、『家族』と別れるんだ。
やっとそう、自覚しました。
群馬の高崎へ向かうために、東京メトロに揺られて、いっしょに上野駅まで行きました。十分なんてあっという間で、なにか話さなきゃと思うのに言葉が出ませんでした。ただなんとなく、勇二兄さんの袖をずっと引っ張っていました。
愛ちゃんにはもう連絡してあって、新幹線の到着時刻も知らせてあります。北陸新幹線あさま609号長野行き。日本の鉄道業界は優秀なので、よく晴れたこんな日に遅れるなんてことはありません。たくさんの人が降りてきました。ホームに響き渡る『自由席一号車から五号車でーす』という駅員さんのアナウンスの中、ぱらぱらと人が乗り込んで行きます。
ルルルルルルル、と注意を促す高い音と、英語のアナウンスが反響してわたしを急かしました。勇二兄さんは袖を引っ張っていたわたしの手をぎゅっと握ってから、「園子」と背中を押してくれました。
荷物といっしょに乗り込んで、振り向くと、勇二兄さんは黄色い線の向こう側にいました。
なにも言えなくて。「元気で、園子。元気で」と言ってくれた言葉に、泣いてうなずくことしかできなくて。
『――あさま609号、長野行き。発車いたします』
ルルルという音が止んで、次いでピーという警告音が鳴り響き、ドアが閉まりました。最後は笑顔でって思っていたのにできなくて、胸元で手を振ってくれた勇二兄さんのガラス越しのやさしい笑顔にまた泣きました。あっという間に見えなくなってしまって、笑顔を作れたのはトンネルに入ってからで、やり残したことなんかなにもないはずなのに、後悔みたいなもやもやが胸に湧き上がりました。ガラスに反射したわたしがぎこちなく口角を上げていて、一希兄さんが謝りたがった気持ちを、今ならはっきりと理解できると思いました。
ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、いい妹じゃなかった。
『――本日も、北陸新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は、あさま、長野行きです。次は、大宮に停まります』
座りたくなくて。なんとなく。各駅で乗降される他の方のじゃまにならないよう気をつけながら、ずっとドア付近に立っていました。窓の外を流れる景色も、もう見られないもので。ぜんぶ、ぜんぶ覚えていようと思って、オリヴィエ様のハンカチで涙を拭きました。線路も、鉄橋と電線も、コンクリートの街並みも、金融会社の看板も、工事現場のクレーンも、飛行機雲も。
十二時ちょうど。高崎駅に到着しました。約一カ月前に降り立ったときと、心境も状況もまったく違って、ホームで少しの間立ちすくんでしまいました。
愛ちゃんからメッセージが届いていました。西口駐車場のあたりに車でいるって。お手洗いに寄ってメイクとか確認してから、行きました。
「なーにしょげた顔してんだ」
ちゃんと明るい表情を作ったつもりでもバレました。笑いながら言われました。トランクに荷物を積んでもらうとき、「……こんな、少なくなっちまったんだな」と言われました。
助手席に乗り込んだら、のりたけさんがぬっと後部座席から顔を出してあいさつしてくれました。かわいい。車を発進させながら、愛ちゃんは「ちゃんと、お別れできた?」と言いました。わたしは「……できたかな。わかんないや」と返します。
「いや、できただろ。泣くほど悲しかったんだろ?」
そうかな。できたかな。わかんないや。握っているオリヴィエ様のハンカチが、ちょっとシワになってしまいました。
向かっているのは、わたしが行きたいってお願いした場所。愛ちゃんと知り合ったところ。前橋にある、世界の名犬牧場。
あのころ、愛ちゃんはのりたけさんを引き取ったばかりで、のりたけさんはリハビリをがんばっていて。走れないけど、ドッグランデビューのために来ていました。わたしは飼い主ではないから外側からわんちゃんたちを見ていたんですけれど、愛ちゃんとのりたけさんが、隅でじっとしているのが気になって。「どうされました? スタッフさん呼んできましょうか?」と声をかけたのがきっかけ。
人間不信だったのりたけさんが、なんとなくわたしにも懐いてくれて。ドッグランをちょっと歩けて。愛ちゃんからいろいろ感謝されて。ごはんとか何回かいっしょに食べに行ったら、お互いマリーンズファンだってわかって。
いろんなことがありました。どれもこれも大切な思い出で、わすれたくない。
平日なので、名犬牧場はわりとすいていました。のりたけさんを乗せたカートを押すのも、これが最後なんだな、と思いました。そんな気持ちが通じたのか、のりたけさんがわたしを見上げてふんふんと鼻を鳴らしました。
ドッグカフェに入ってお昼ごはん。わたし、ここのチーズボール大好きだったの。タルタル竜田バーガーも。オレンジジュースも。のりたけさんは、わんちゃん用のミートボールプレート。愛ちゃんはノンアルビールと、からあげとカレー。なにか話した方がいいと思うのに、勇二兄さんと別れたときみたいに言葉が出ませんでした。
「あのね、愛ちゃん」
やっと出た声はとても情けない響きでした。のりたけさんがハグハグとミートボールを食べているのを見ながら、次の言葉を探します。愛ちゃんはなにも言わないで、わたしが話すのを待ってくれました。ノンアルビールが二杯消費されました。
「あのね。すごくすごく、感謝してる」
けっきょく月並みな言葉しか出てこなくて。愛ちゃんは「そうかよ」とひとこと言いました。わたしがまた言葉を探そうとしたら、「それで十分。わかってる」と言ってくれました。
夕方くらいまで、のりたけさんが他のわんちゃんとお話ししたり、歩いたりするのを見ていました。暑くて、とても暑くて。これから本番になって行くここでの夏が、わたしの記憶を鮮明なものとしてくれているようで。……それでも、惜しくて。
だから。わたしはスマホを取り出して、ロック解除し画面を見ました。スケブで描いてもらったオリヴィエ様のイラストの待ち受け。ブラウザを開いて、契約している通信会社のサイトへ。そしてオンライン手続きのページへ。
加西くんの顔が思い浮かびました。彼がわたしへ、着信拒否してほしいと言った気持ちが理解できて、感謝の気持ちが湧き上がりました。届かないけれど、ありがとう、とつぶやきます。そんな風に想ってくれたこと、ありがとう。
――そうだね。かけたくなっちゃう。きっと、声が聴きたくなっちゃう。
未払い料金はありません。サイトにログインし、わたしはスマホ回線を解約しました。
車へ戻ったときに、愛ちゃんへ「これ、お願いできないかな」とスマホを手渡しました。
「……持ってかないの」
「――うん。解約した。……持ってたら、かけたくなる」
愛ちゃんが「あのさ」と言いました。助手席で、わたしは愛ちゃんの顔を見ました。
あさって24(金)の更新で、この章の終わりです
27(月)にも更新しますが、次の章へ頭を切り替えるために一週間のお休みをください
新章は12月4日(月)から、月木更新の予定です
よろしくお願いいたします






